めじるしの鈴 霧尾の重い雪――鞄の鈴は、まだ鳴らない紙の音を待っています
わたしは鈴です。
目はありません。ですから、音で見ています。
小指の先くらいの真鍮で、組紐に通してあります。組紐は赤いのだそうです。赤がどういうものかは、わたしには分かりません。
鞄の持ち手に付いていて、役目はめじるしです。ちはるさんは旅のあいだ、どこへ行くにもこの鞄を提げていきます。七年前に一度なくしかけてから、そうなったのだそうです。
組紐は、去年より硬くなっています。あと何年もつのかは、わたしには分かりません。
持ち主は藤谷ちはるさんといいます。二十二の夏に、駅前の土産物屋でわたしを買いました。三百八十円でした。
雪の深い場所へ来たのは、七年で二度目です。一度目のことは、まだ音を数えられないころでした。
雪は音を吸います。宿の前に立った最初の一分で、それが分かりました。廊下を人が通っても、前に泊まった柿沢の宿のようには床が鳴りません。声も、出たところで止まってしまいます。
わたしにとっては、目隠しをされたような旅でした。
三月の霧尾は、雪が重くなる時期なのだそうです。宿の名は湯守屋といいました。スキーの客と、湯だけの客が半分ずつだと、帳場の人が電話で話していました。
乾燥室というものがあって、濡れたものを吊るして乾かします。わたしたちの部屋は、その隣でした。
そこだけは音が違います。天井の低い部屋で、布が膨らんで縮む音が一日中しています。
人が入ってくると、その音が一度止まります。止まってから、また始まります。誰かが入ったことは、わたしには音の切れ目で分かります。
ちはるさんは去年の秋から、走らなくなりました。
正確には、一度だけ、走ると決めて走らなかったことがあります。それからの四か月で、旅は一度もしていません。
今年の手帳にも同じことを書いたと、宿で誰かに電話で話していました。いのちはみじかし、はしれよおとめ。八回目だそうです。
一日目の午後、ちはるさんはリフトに乗りました。二人乗りで、隣に誰が来るかは係の人が決めるのだそうです。
わたしは鞄ごと、宿で待っていました。
その日は混んでいて、隣に人が来た。
隣に座った男が、乗ってすぐ、ポケットのファスナーを二度上げ下げした。
上げて、下げて、また上げて、下げた。無意識にやっている手つきだった。癖なのだろうとちはるは思い、そう思ってしまってからは、その音が気になって仕方がなかった。
リフトは七分ある。七分は、黙っているには長い。
「それ、何か入ってます」
言ってから後悔した。知らない人に話しかける癖がある。旅先でだけ出る癖だ。
男はファスナーの手を止めて、それから笑った。
「何も。癖です」
「わたし、いま数えてました」
「何回でした」
「四回」
「多いな」
素直に驚いている言い方だった。人に指摘されたことがないのだろう。
男は早見と名乗った。三月の霧尾には毎年来ているという。
「雪が重いので、うまい人は来ないんです」
「それでいらっしゃるんですか」
「空いているので」
理由がそれだけの人なのだ、とちはるは思った。空いているから来る。得をするためでも、何かを撮るためでもない。
リフトを降りるまで、話は途切れなかった。途切れなかったことに、ちはるは自分で気づいた。気づいて、少しだけ身構えた。
二日目の朝、ちはるさんはわたしを組紐ごと外して、上着のポケットに入れました。
なぜそうしたのかは言いませんでした。鞄は宿に置いていくのですから、めじるしの役目はありません。
ポケットの中は布が二枚ぶん厚くなるので、音が遠くなります。それでも、宿で待っているよりはよく聞こえました。
雪を踏む音は、一歩ごとに違います。朝の雪は、上を歩いても下まで沈みません。昼を過ぎると沈みます。雪を踏む音の硬さで、時間が分かります。
食堂で、あのファスナーが二度鳴りました。
「昨日の四回、気にしてます」
「すみません」
「いえ、こちらこそ。数えてしまって」
「数える人だとは思いませんでした」
早見はそう言って、それから、たぶん、と付け足した。
「悪くないですよ。数える人」
ちはるは、ありがとうございます、と言った。言いながら、自分の声が少し高いのに気がついた。
早見さんは、器を置くときに音を立てない人でした。布ごしのわたしにも、置いた音がしないことだけは分かります。二度とも、しませんでした。
その日の午後、ちはるさんは板を返しに行きました。二日ぶん借りていたのを、二日目で返しました。
途中で手帳を落としたようです。拾う音がして、それが二人ぶんありました。
「これ」
「あ、すみません」
「あの、表紙の裏」
見られたのだ、とちはるは思った。落ちたときに開いたのだろう。毎年そこに書いているので、開けば見える。言われたのは、一度きりだった。
「命は短し走れよ乙女」
「はい」
「それ、恋せよ、では」
二人目だ、と思った。一人目は三年目の冬、居酒屋の友達だった。
「走るほうが、わたしっぽいので」
いつもの返事をした。ここまでは慣れている。たいていの人は、それで笑って終わる。
早見は笑わなかった。
「走るのは、間に合いたいからですよね」
雪が屋根から落ちる音がしました。わたしは上着のポケットの中にいたので、その音しか拾えませんでした。
人が黙っている時間は、何種類もあります。気まずい沈黙は衣擦れが多く、そうでない沈黙は本当に何も鳴りません。
このときは、何も鳴りませんでした。四秒ありました。
間に合いたい、という言い方をされたのは初めてだった。
走るのが好きなんですね、とは何度も言われた。元気ですね、とも言われた。どちらも、走っている自分のことしか見ていない言い方だ。間に合いたい、は、走ったあとのことまで見ている。
ちはるは、そうですね、とだけ答えた。それ以上を言うと、なぜ間に合わなかったかの話になる。
夕方、宿に戻ると、ちはるさんはわたしを上着のポケットから出して、鞄の持ち手に戻しました。
戻す前に、指でつままれて、一度、近くで動かされました。中の玉を押さえられていたので、鳴りませんでした。見ていたのだと思います。
組紐が硬くなっていました。濡れて、乾いて、また濡れたせいです。買ったころより色が薄いと、ちはるさんは宿の人に話していました。
宿の人の声がしました。
「切れそうですか」
「まだ大丈夫だと思うけど」
「けど」
「けど、来年はどうかな」
そのあと、ちはるさんは鞄を持って外へ出ました。
宿の隣が土産物屋でした。
鈴の音が、棚のほうから聞こえました。わたしと同じくらいの大きさで、もっと高い音でした。銀色の、雪の結晶のかたちをしたものだと、ちはるさんが口に出して読んでくれたので分かりました。千二百円だそうです。
ちはるさんはそれを手に取りました。
三分でした。
その三分のあいだ、わたしは持ち手にぶら下がったまま、何も鳴りませんでした。振られなければ鳴らないので、当たり前ではあります。
けれど、鳴っておいたほうがよかったのかもしれない、とは思いました。ここにいます、と言う方法が、わたしには音しかありません。
わたしにできることは、鞄に付いていることだけです。付いていられなくなったら、それで終わりです。三百八十円のものが、千二百円のものに替わるだけのことで、誰も困りません。
ちはるさんは棚に戻しました。
それから、玉を押さえたまま、わたしの組紐を結び直しました。
「まだいけるでしょ」
そう言いました。語尾は上がりませんでした。
二日目の夜、乾燥室で早見に会いました。
早見はウェアを吊るしに来たところだった。天井が低く、二人立つと近い。
「明日、何時の電車ですか」
「三時のです」
「朝のうちに、下のほうを一本だけ滑りませんか。重い雪なので、怖くないです。バスには間に合います」
来た、と思った。
去年の秋にも、二度そう思った。二度とも、思っただけで終わった。今回は終わらなかった。向こうから、ちゃんと最後まで言われた。
ちはるは、鞄の持ち手を握り直した。
ちりん。
その音のあと、自分が何を言うのか、少しのあいだ分からなかった。
「すみません。明日は、宿でゆっくりします」
言ってしまってから、自分で驚いた。
行きたくないわけではなかった。むしろ行きたかった。板はもう返してあるが、借り直せばいい話だと、自分でも分かっていた。けれど、行って、一本滑って、電車の時間が来て、駅で何か言われて、答えられないまま乗る。その全部を、もう知っている気がした。
吊るされた布が一度、膨らんで縮んだ。返事が来るまでの長さが、それで分かった。
去年の秋に、追わなかった。あのとき、何も続かなかった。あの静けさをまだ覚えている。覚えているうちは、早い。
早見は、そうですか、と言った。
それだけだった。無理に誘い直しもしなかった。そういうところが、この人にはある。
残念です、とも言われなかった。言われたら、たぶん行くと言い直していた。
ファスナーが鳴った。上げて、下げて、また上げた。四回ではなかった。
三日目、昼のバスを待っているとき、玄関で早見さんの声がしました。
「あの、これ」
紙の音がしました。折り畳んだ紙です。二つ折りを一度だけ、という開き方の音でした。
「番号です。使わなくても大丈夫です」
ちはるさんは受け取りました。
「ありがとうございます」
それから、少しのあいだ、何も鳴りませんでした。二秒でした。
「早見さんは、来年も来ますか」
「来ます。空いているので」
即答でした。理由が同じでした。
笑い声が重なりました。
重なったのは、わたしの聞いてきたかぎり、七年で五度目です。
それから、ちはるさんが何か言いかけました。
言葉の前に、鞄の持ち手を握り直しました。
ちりん。
そこへ宿の人が来ました。バスが着いたという知らせでした。昼の一本しかないバスです。玄関の戸が開いて、外の音が一度に入ってきます。屋根の雪が落ちる音、靴の底を鳴らす音、行ってらっしゃいませという声。雪の日の玄関は、宿でいちばんうるさい場所です。
ちはるさんが言いかけた言葉は、その下に沈みました。
何と言いかけたのかは、分かりません。言いかけてやめる音、というものはありませんから。
帰りの電車で、ちはるさんは紙を鞄の内ポケットに入れました。
ファスナーを閉める音が一度しました。内ポケットのファスナーは、外のものより小さい音がします。
それきり、そのファスナーは鳴りませんでした。
わたしは待っていました。紙を開く音は、閉じる音より小さいので、聞き逃さないように気をつけていました。電車の音の下でも、あれくらいの音なら拾えます。
四十分乗って、乗り換えて、そのあと一時間乗って、家に着きました。
鞄は玄関に置かれました。その一晩、鞄の音は、ひとつもしませんでした。
翌朝、鞄は棚の上に上げられました。旅が終わると、そこに上がります。次に降ろされるのは、次の旅のときです。
紙は、中に入ったままです。
わたしは音でしか世界を知りませんから、あの紙がまだそこにあるのかどうか、本当のところは分かりません。取り出す音を聞いていないので、あると思っているだけです。
ちはるさんはよく走ります。
二十四の夏、波守の海で、最終の船に向かって走りました。走る前にちりん、と鳴って、桟橋の板が三十六歩ぶん鳴って、そこで止まりました。
二十六の秋、梳ヶ峰の山小屋で、朝いちばんに出ていく人を追って走りました。あのときもちりん、と鳴って、それから砂利の音でした。
去年の秋は、走ると決めて、ちりん、と鳴っただけで終わりました。板の音も、砂利の音も、続きませんでした。
相手は、毎年おなじ谷へ霧を撮りに来る人でした。それだけは聞こえていました。
今年の三月は、走る用がありませんでした。向こうから来たからです。
来たものを受け取らないというのは、走って届かないのとは違う形をしています。どう違うのかは、わたしには分かりません。音が出ないからです。
四日目の夜、鞄が一度だけ棚から降ろされました。旅でもないのに降ろされたのは、七年で初めてです。
内ポケットのファスナーの音が一度しました。小さいほうの音です。
開く音はしませんでした。触って、確かめただけの音でした。
それから、声がしました。
「まあ、いいか」
語尾が上がりました。
棚の上は乾いています。結び直したところだけ、組紐がまだ太いままです。次の旅までには、たぶん戻ります。
鞄に付いていれば、鈴は一日に何十回も鳴ります。だから自分が鳴った数だけは、七年、数えたことがありませんでした。
今回も、移動のあいだは、いつもどおり数えきれないほど鳴りました。
数のうちに入ったのは、二度だけです。
そのうち一度は、断るために鳴りました。
断るために鳴る鈴があるとは、音を数えられるようになってから、初めて知りました。
もう一度が何のために鳴ったのかは、まだ分かりません。
分かるのは、あの紙が開く音を聞いたときだと思います。
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