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めじるしの鈴

めじるしの鈴 霧尾の重い雪――鞄の鈴は、まだ鳴らない紙の音を待っています

掲載日:2026/09/23

わたしは鈴です。


目はありません。ですから、音で見ています。


小指の先くらいの真鍮で、組紐に通してあります。組紐は赤いのだそうです。赤がどういうものかは、わたしには分かりません。


鞄の持ち手に付いていて、役目はめじるしです。ちはるさんは旅のあいだ、どこへ行くにもこの鞄を提げていきます。七年前に一度なくしかけてから、そうなったのだそうです。


組紐は、去年より硬くなっています。あと何年もつのかは、わたしには分かりません。


持ち主は藤谷ちはるさんといいます。二十二の夏に、駅前の土産物屋でわたしを買いました。三百八十円でした。


雪の深い場所へ来たのは、七年で二度目です。一度目のことは、まだ音を数えられないころでした。


雪は音を吸います。宿の前に立った最初の一分で、それが分かりました。廊下を人が通っても、前に泊まった柿沢の宿のようには床が鳴りません。声も、出たところで止まってしまいます。


わたしにとっては、目隠しをされたような旅でした。


三月の霧尾は、雪が重くなる時期なのだそうです。宿の名は湯守屋といいました。スキーの客と、湯だけの客が半分ずつだと、帳場の人が電話で話していました。


乾燥室というものがあって、濡れたものを吊るして乾かします。わたしたちの部屋は、その隣でした。


そこだけは音が違います。天井の低い部屋で、布が膨らんで縮む音が一日中しています。


人が入ってくると、その音が一度止まります。止まってから、また始まります。誰かが入ったことは、わたしには音の切れ目で分かります。


ちはるさんは去年の秋から、走らなくなりました。


正確には、一度だけ、走ると決めて走らなかったことがあります。それからの四か月で、旅は一度もしていません。


今年の手帳にも同じことを書いたと、宿で誰かに電話で話していました。いのちはみじかし、はしれよおとめ。八回目だそうです。


一日目の午後、ちはるさんはリフトに乗りました。二人乗りで、隣に誰が来るかは係の人が決めるのだそうです。


わたしは鞄ごと、宿で待っていました。


その日は混んでいて、隣に人が来た。


隣に座った男が、乗ってすぐ、ポケットのファスナーを二度上げ下げした。


上げて、下げて、また上げて、下げた。無意識にやっている手つきだった。癖なのだろうとちはるは思い、そう思ってしまってからは、その音が気になって仕方がなかった。


リフトは七分ある。七分は、黙っているには長い。


「それ、何か入ってます」


言ってから後悔した。知らない人に話しかける癖がある。旅先でだけ出る癖だ。


男はファスナーの手を止めて、それから笑った。


「何も。癖です」


「わたし、いま数えてました」


「何回でした」


「四回」


「多いな」


素直に驚いている言い方だった。人に指摘されたことがないのだろう。


男は早見と名乗った。三月の霧尾には毎年来ているという。


「雪が重いので、うまい人は来ないんです」


「それでいらっしゃるんですか」


「空いているので」


理由がそれだけの人なのだ、とちはるは思った。空いているから来る。得をするためでも、何かを撮るためでもない。


リフトを降りるまで、話は途切れなかった。途切れなかったことに、ちはるは自分で気づいた。気づいて、少しだけ身構えた。


二日目の朝、ちはるさんはわたしを組紐ごと外して、上着のポケットに入れました。


なぜそうしたのかは言いませんでした。鞄は宿に置いていくのですから、めじるしの役目はありません。


ポケットの中は布が二枚ぶん厚くなるので、音が遠くなります。それでも、宿で待っているよりはよく聞こえました。


雪を踏む音は、一歩ごとに違います。朝の雪は、上を歩いても下まで沈みません。昼を過ぎると沈みます。雪を踏む音の硬さで、時間が分かります。


食堂で、あのファスナーが二度鳴りました。


「昨日の四回、気にしてます」


「すみません」


「いえ、こちらこそ。数えてしまって」


「数える人だとは思いませんでした」


早見はそう言って、それから、たぶん、と付け足した。


「悪くないですよ。数える人」


ちはるは、ありがとうございます、と言った。言いながら、自分の声が少し高いのに気がついた。


早見さんは、器を置くときに音を立てない人でした。布ごしのわたしにも、置いた音がしないことだけは分かります。二度とも、しませんでした。


その日の午後、ちはるさんは板を返しに行きました。二日ぶん借りていたのを、二日目で返しました。


途中で手帳を落としたようです。拾う音がして、それが二人ぶんありました。


「これ」


「あ、すみません」


「あの、表紙の裏」


見られたのだ、とちはるは思った。落ちたときに開いたのだろう。毎年そこに書いているので、開けば見える。言われたのは、一度きりだった。


「命は短し走れよ乙女」


「はい」


「それ、恋せよ、では」


二人目だ、と思った。一人目は三年目の冬、居酒屋の友達だった。


「走るほうが、わたしっぽいので」


いつもの返事をした。ここまでは慣れている。たいていの人は、それで笑って終わる。


早見は笑わなかった。


「走るのは、間に合いたいからですよね」


雪が屋根から落ちる音がしました。わたしは上着のポケットの中にいたので、その音しか拾えませんでした。


人が黙っている時間は、何種類もあります。気まずい沈黙は衣擦れが多く、そうでない沈黙は本当に何も鳴りません。


このときは、何も鳴りませんでした。四秒ありました。


間に合いたい、という言い方をされたのは初めてだった。


走るのが好きなんですね、とは何度も言われた。元気ですね、とも言われた。どちらも、走っている自分のことしか見ていない言い方だ。間に合いたい、は、走ったあとのことまで見ている。


ちはるは、そうですね、とだけ答えた。それ以上を言うと、なぜ間に合わなかったかの話になる。


夕方、宿に戻ると、ちはるさんはわたしを上着のポケットから出して、鞄の持ち手に戻しました。


戻す前に、指でつままれて、一度、近くで動かされました。中の玉を押さえられていたので、鳴りませんでした。見ていたのだと思います。


組紐が硬くなっていました。濡れて、乾いて、また濡れたせいです。買ったころより色が薄いと、ちはるさんは宿の人に話していました。


宿の人の声がしました。


「切れそうですか」


「まだ大丈夫だと思うけど」


「けど」


「けど、来年はどうかな」


そのあと、ちはるさんは鞄を持って外へ出ました。


宿の隣が土産物屋でした。


鈴の音が、棚のほうから聞こえました。わたしと同じくらいの大きさで、もっと高い音でした。銀色の、雪の結晶のかたちをしたものだと、ちはるさんが口に出して読んでくれたので分かりました。千二百円だそうです。


ちはるさんはそれを手に取りました。


三分でした。


その三分のあいだ、わたしは持ち手にぶら下がったまま、何も鳴りませんでした。振られなければ鳴らないので、当たり前ではあります。


けれど、鳴っておいたほうがよかったのかもしれない、とは思いました。ここにいます、と言う方法が、わたしには音しかありません。


わたしにできることは、鞄に付いていることだけです。付いていられなくなったら、それで終わりです。三百八十円のものが、千二百円のものに替わるだけのことで、誰も困りません。


ちはるさんは棚に戻しました。


それから、玉を押さえたまま、わたしの組紐を結び直しました。


「まだいけるでしょ」


そう言いました。語尾は上がりませんでした。


二日目の夜、乾燥室で早見に会いました。


早見はウェアを吊るしに来たところだった。天井が低く、二人立つと近い。


「明日、何時の電車ですか」


「三時のです」


「朝のうちに、下のほうを一本だけ滑りませんか。重い雪なので、怖くないです。バスには間に合います」


来た、と思った。


去年の秋にも、二度そう思った。二度とも、思っただけで終わった。今回は終わらなかった。向こうから、ちゃんと最後まで言われた。


ちはるは、鞄の持ち手を握り直した。


ちりん。


その音のあと、自分が何を言うのか、少しのあいだ分からなかった。


「すみません。明日は、宿でゆっくりします」


言ってしまってから、自分で驚いた。


行きたくないわけではなかった。むしろ行きたかった。板はもう返してあるが、借り直せばいい話だと、自分でも分かっていた。けれど、行って、一本滑って、電車の時間が来て、駅で何か言われて、答えられないまま乗る。その全部を、もう知っている気がした。


吊るされた布が一度、膨らんで縮んだ。返事が来るまでの長さが、それで分かった。


去年の秋に、追わなかった。あのとき、何も続かなかった。あの静けさをまだ覚えている。覚えているうちは、早い。


早見は、そうですか、と言った。


それだけだった。無理に誘い直しもしなかった。そういうところが、この人にはある。


残念です、とも言われなかった。言われたら、たぶん行くと言い直していた。


ファスナーが鳴った。上げて、下げて、また上げた。四回ではなかった。


三日目、昼のバスを待っているとき、玄関で早見さんの声がしました。


「あの、これ」


紙の音がしました。折り畳んだ紙です。二つ折りを一度だけ、という開き方の音でした。


「番号です。使わなくても大丈夫です」


ちはるさんは受け取りました。


「ありがとうございます」


それから、少しのあいだ、何も鳴りませんでした。二秒でした。


「早見さんは、来年も来ますか」


「来ます。空いているので」


即答でした。理由が同じでした。


笑い声が重なりました。


重なったのは、わたしの聞いてきたかぎり、七年で五度目です。


それから、ちはるさんが何か言いかけました。


言葉の前に、鞄の持ち手を握り直しました。


ちりん。


そこへ宿の人が来ました。バスが着いたという知らせでした。昼の一本しかないバスです。玄関の戸が開いて、外の音が一度に入ってきます。屋根の雪が落ちる音、靴の底を鳴らす音、行ってらっしゃいませという声。雪の日の玄関は、宿でいちばんうるさい場所です。


ちはるさんが言いかけた言葉は、その下に沈みました。


何と言いかけたのかは、分かりません。言いかけてやめる音、というものはありませんから。


帰りの電車で、ちはるさんは紙を鞄の内ポケットに入れました。


ファスナーを閉める音が一度しました。内ポケットのファスナーは、外のものより小さい音がします。


それきり、そのファスナーは鳴りませんでした。


わたしは待っていました。紙を開く音は、閉じる音より小さいので、聞き逃さないように気をつけていました。電車の音の下でも、あれくらいの音なら拾えます。


四十分乗って、乗り換えて、そのあと一時間乗って、家に着きました。


鞄は玄関に置かれました。その一晩、鞄の音は、ひとつもしませんでした。


翌朝、鞄は棚の上に上げられました。旅が終わると、そこに上がります。次に降ろされるのは、次の旅のときです。


紙は、中に入ったままです。


わたしは音でしか世界を知りませんから、あの紙がまだそこにあるのかどうか、本当のところは分かりません。取り出す音を聞いていないので、あると思っているだけです。


ちはるさんはよく走ります。


二十四の夏、波守の海で、最終の船に向かって走りました。走る前にちりん、と鳴って、桟橋の板が三十六歩ぶん鳴って、そこで止まりました。


二十六の秋、梳ヶ峰の山小屋で、朝いちばんに出ていく人を追って走りました。あのときもちりん、と鳴って、それから砂利の音でした。


去年の秋は、走ると決めて、ちりん、と鳴っただけで終わりました。板の音も、砂利の音も、続きませんでした。


相手は、毎年おなじ谷へ霧を撮りに来る人でした。それだけは聞こえていました。


今年の三月は、走る用がありませんでした。向こうから来たからです。


来たものを受け取らないというのは、走って届かないのとは違う形をしています。どう違うのかは、わたしには分かりません。音が出ないからです。


四日目の夜、鞄が一度だけ棚から降ろされました。旅でもないのに降ろされたのは、七年で初めてです。


内ポケットのファスナーの音が一度しました。小さいほうの音です。


開く音はしませんでした。触って、確かめただけの音でした。


それから、声がしました。


「まあ、いいか」


語尾が上がりました。


棚の上は乾いています。結び直したところだけ、組紐がまだ太いままです。次の旅までには、たぶん戻ります。


鞄に付いていれば、鈴は一日に何十回も鳴ります。だから自分が鳴った数だけは、七年、数えたことがありませんでした。


今回も、移動のあいだは、いつもどおり数えきれないほど鳴りました。


数のうちに入ったのは、二度だけです。


そのうち一度は、断るために鳴りました。


断るために鳴る鈴があるとは、音を数えられるようになってから、初めて知りました。


もう一度が何のために鳴ったのかは、まだ分かりません。


分かるのは、あの紙が開く音を聞いたときだと思います。

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