婚約破棄した王子を庭で焼いてみた
王太子クラウスは愛くるしい男爵令嬢、フローラ・キンケルと出会い、真実の愛に目覚めた。
フローラとの仲が深まるにつれ、クラウスは自身の婚約者であるパウラ・エーベルハルト公爵令嬢を疎んじ、距離を置くようになる。
やがて、愛するフローラが涙ながらにパウラからの嫌がらせを告白した時、クラウスは彼女の言葉を頭から信じた。
彼は公衆の面前でパウラに婚約破棄を突きつけるという暴挙に出る。
だがフローラの言葉はすべて虚偽であり、クラウスは完膚なきまでに論破されることとなった。
日を経ずしてクラウスによる王室予算の不正使用及び、彼と犯罪組織との癒着が発覚する。
クラウスは王族の身分を剥奪され、王都から追放されることとなった。
§
「ん……」
意識を取り戻した時、クラウスは自分の体がどろっとした油のようなもので濡れていることに気づいた。
「目が覚めたか」
――誰だ……。
クラウスの目の前に、軍服を着た見知らぬ男が立っている。
年齢は三十歳前後、役者のように整った顔立ちをしており、きっちりと後ろに撫でつけられたプラチナブロンドには一筋の乱れもない。男は感情のない灰色の瞳で値踏みするようにクラウスを見ていた。
「……?」
クラウスの体は柱状の何かに縛りつけられ、足元には薪が組まれている。
これではまるで火刑に処される魔女ではないか……そう思った瞬間、クラウスの全身が総毛立った。
「おい、何だこれは! さっさと外せ!」
男の背後には彼の部下と思しき軍人が四人、少し離れたところには着飾った中年男が一人立っている。だが彼らは誰一人としてクラウスの命に従わず、その場から一歩も動こうとしない。中年男はどこかで見たことのある顔だった。
――クソ、何でこんなことに……。
クラウスは必死になって記憶をたどる。
あっという間にすべてを失い、身一つで王城から放り出されたクラウスは、ひとまずキンケル男爵家を頼った。押し込められた粗末な護送車の乗り心地は最悪で、せめて上質なクッションの一つも譲り受けたかったのだ。あわよくば追放先にフローラを同行させたいという思惑もあった。クラウスにはフローラにどんな沙汰が下されたのかも知らされておらず、彼女の安否も気になっていた。
クラウスが護送車を差し向けた時、キンケル男爵邸はしんと静まり返っていた。
手ずからノッカーを打ちつけたクラウスが待つことしばし。
彼が受けた出迎えは、それは冷ややかなものだった。
クラウスをサロンへ案内する従僕も、紅茶をサーブするメイドも皆、事務的でよそよそしい。王太子時代に訪れた時とは雲泥の差だった。
あの紅茶だ――。
あれを飲んだ後、クラウスは意識を失った。中に何か入っていたに違いない。クラウスは顔を上げ、軍服の男を睨んだ。
「お前は誰だ」
「ここの主」
人を食った答えだった。彼らが今いるのはキンケル男爵邸の中庭である。
「嘘を吐け! お前はキンケル男爵ではないだろう!」
「ハハハ!」
甲高い子供の笑い声がした。
「誰だ!」
クラウスが驚いて誰何すると、男の後ろから子供がひょっこりと顔を出した。
明るい金髪、子供らしいふっくらした頬。
眩しいくらい澄んだ茶色の瞳で、くくりつけられたクラウスを好奇心いっぱいに見上げている。子供は男たちと揃いの軍服を着ており、彼らのミニチュアのようだった。
男が子供を抱き上げながらクラウスに顔を向けた。
「ああ、この子はヒルダ。七歳だ」
「ヒルダ七歳ッ! お前は何がそんなに可笑しいのだッ!」
「だって、ディーは本当のことを言っているのに」
「何だと……」
男が子供の頭をよしよしと撫でる。
「ヒルダの言う通りだ。この屋敷は当機関が接収した」
「どういうことだ! キンケル男爵は……」
「さあ? 夜逃げ同然に王都を出た、と風の噂で聞いたような?」
――何てことだ……。
クラウスは声を失った。
裁きを待つクラウスが拘束され、世間から断絶されている間に……。
「フローラは⁉ フローラは無事か⁉」
「他人の心配なんて余裕だな、平民のクラウス」
男の冷ややかな言葉が、クラウスの肌にまとわりつく油の不快を一瞬にして思い出させた。
「……俺を、どうする気だ」
「分からないのか?」
全身からしたたる油。
足元の薪。
分かりたくなかった。絶対に。
「俺は……処刑ではなく、追放刑のはずだ……」
「だから?」
男が配下に合図し、松明を持ってこさせる。クラウスは縄の中で身をよじって叫んだ。
「だから? ではないッ! 俺の追放は高等法廷で正式に決定されたことだろう! それを許可なく反故にするとはどういう了見か! かような暴挙、まかり通ると――」
「お前とエーベルハルト公爵令嬢との婚約も、正式に決定されたことだったな。当然のような顔をして、反故にしようとしていたようだが」
クラウスがぐっと言葉に詰まる。
男が子供を地面に降ろした。
「ヒルダ、危ないから離れていろ」
「だから待てッ! そもそも何故処刑なのだ! たかが婚約破棄ではないかッ!」
処刑というのは本来、国家反逆罪や殺人罪といった、凶悪犯罪に対する刑罰である。たかが婚約破棄ごときで、何故ここまでの刑を受けなくてはならないのか。
「それだけではないだろう? 王室予算の不正使用、犯罪組織との恥ずべき癒着」
「あれは冤罪だッ! 俺は何も使い込んでいないし、犯罪組織とやらも知らない!」
本当のことだった。何故かぐうの音も出ない証拠が次々と挙がり、誰も信じてくれなかったが、その件に関してクラウスは完全に潔白だった。
「そうだな。あれはでっち上げだ」
「だから違うと言っているだろうッ!! 俺は本当に――――エ?」
男が形のよい眉を意外そうに上げた。
「違うのか?」
「違う! いや、違わないッ!」
「ハハハ!」
ヒルダが屈託なく笑い、彼女の周囲にだけ陽だまりのような明るさが灯った。
「貴様、冤罪と知っているなら……!」
「だから何だ? たかが婚約破棄程度では、お前を廃嫡するには少し弱い。だから罪状を足した。それだけのことだ」
誰が――?
クラウスの表情がすっと抜け落ちた。
男は構わず淡々と続けた。
「あの方は、王に向かないお前を切り捨てる機会をずっと窺っていた」
「止せ。止めろ……」
クラウスは力なく首を振るが、死の天使のように冷酷な男は、クラウスの懇願を聞き入れなかった。
「お前の愚かしい婚約破棄は、お前がみすみす投げてよこした恰好の餌だった。あの方はそこに余罪を添え、分かりやすく綺麗に盛りつけて、皆の前に差し出した」
――嘘だ!
そう叫びたかったができなかった。
何故ならクラウスは知っていたからだ。
あの方がずっと、クラウスよりも第二王子に目をかけていたということを。
「王太子の身でありながら、お前はその立場を悪用して私利私欲に走った――ということになった。国家と臣民に対する重大な裏切りを犯したお前は、もはや王太子にふさわしくない。国王陛下は――あの方は、それでやむなく」
そうだ。
廃嫡もやむなしと苦悩をにじませ――これ幸いと目障りなクラウスを切ったのだ。
「おい、それ以上は……」
着飾った男が咎めるように口を挟んだ。美しい男はクッと笑い、漆黒の手袋をした人差し指でクラウスの顎をすくった。
「死ぬ前に真実を教えてやるのも悪くないでしょう。ほら……この顔。あなた方の溜飲も下がるのでは?」
男はそう言って、着飾った男にクラウスの顔がよく見えるよう、自身の体を軽くずらす。
着飾った男が無言でクラウスを睨みつけた。
ああ、とクラウスはようやく思い出した。
あの男はパウラの叔父だ……。
「紹介が遅れたな。こちらはエーベルハルト家の立会人だ。お前の処刑を見届けてくださる」
そうか……。
クラウスは非の打ちどころのない公爵令嬢、パウラ・エーベルハルトを公衆の面前で貶めた。これはエーベルハルト家に喧嘩を売ったも同然の行為で、王は彼らの怒りを治める為に、クラウスの処遇を彼らに委ねた――そんなところだろう。
「ご名答」
男がクラウスの思考を読んだかのように微笑んだ。
「王が命じたのはお前の追放まで。その途中で何かあったとしても、それは大した問題ではない。平民の行く末など、あの方の知るところではないから」
男は油まみれのクラウスに顔を近づけ、作りもののように美しい灰色の目を細めた。
「お前はまさか、自分の意思でここへ来たと思っているのか? いい気なものだな、平民のクラウス。追放される罪人が、護送車の馭者に本気で何かを命じられるとでも? お前はここへ連れてこられるべくして連れてこられた」
クラウスには返す言葉もなかった。
男はふと態度を軟化させ、打ち解けた様子でクラウスに囁いた。
「あの方も見届けないと帰れないんだ。ここは大人しく焼かれてやれ」
「い、いや、何を言っている」
とりあえず状況は把握したが、クラウスがやったことといえば、所詮は人前での婚約破棄である。それで焼かれるなど、どう考えても罰が重過ぎる。
「ディー……。まだ焼かないの……?」
「ヒルダ七歳ィッ! お前は恐ろしい子供だなッ!」
ヒルダはあどけない表情で、串に刺した芋を突き出した。
「芋を、焼きたいんだ」
「ヒルダ……。そんなことをしたら、芋に人間の臭い脂がしたたり落ちて」
男が膝をつき、子供の肩にポンと手を置いた。
「お腹を壊すよ」
「お前ら全員、飛び火して死ねぇ~~~ッ!!」
火刑の炎より先に、クラウスの身の内から噴き出る憤怒がクラウスを焼いた。
男はため息を吐いて振り返り、やれやれと肩をすくめた。
「クラウス、フローラが待っている。さあ、早く彼女のところへ逝こう」
――え?
クラウスの心臓が大きく跳ねた。
「フローラは……死んだのか……?」
「言ってなかったか? ああ、これはすまなかった。フローラは三日前、国境付近で惨殺された」
「国境、付近……?」
――王都ではなく? しかも惨殺?
「フローラは男と国外逃亡を図った。あと少しで国境越えというところで何者かに襲われ、命乞いも虚しく全身をズタズタに切り刻まれて死んだ。男共々」
男がしんみりと、クラウスが思っていた以上に詳しく教えてくれた。
フローラと一緒にいた男。
逃亡の際に頼った、隣国に住む親戚――ではないだろう。
そうか……フローラは、もう。
衝撃冷めやらぬクラウスの目の前で、男がパウラの叔父にぼやいた。
「困りますね……。あの女が令息たちから巻き上げた宝石やら債券やらの押収がまだだったのに。全部、行方知れずだ」
「それが?」
パウラの叔父が傲然と尋ねる。
それで愚かなクラウスにも分かってしまった。
フローラを手にかけたのは。
そして、その事実を把握しながら、エーベルハルト家の横暴を咎めもしないこの男は。
「ディートリヒ・ヘルマン――王家の影……!」
名を呼ばれた男が振り返ってにっこりと笑う。
「よくできました」
ディートリヒ・ヘルマン――特務機関、「王家の影」を統括するスパイマスターにして、あらゆる汚れ仕事を請け負う王家のイヌ。
クラウスは彼と面識がなく、容貌までは知らなかったが、密やかに囁かれるその名だけは知っていた。
ディートリヒは満足げな表情で、褒美だというように松明を近づけた。
クラウスはなりふり構わず叫んだ。
「ま、待てッ。早まるなッ! 俺にはまだ利用価値がある!」
「ほう。どんな」
「こ……このカオだッ!」
「ほう……?」
ディートリヒはゆっくりと首を傾げ、至近距離からクラウスの顔を覗き込んだ。無機質な灰色の目に見据えられ、クラウスがうっと怯む。確かに今はひどい顔をしているかもしれないが、元々クラウスは絵に描いたような金髪碧眼、女性受けする笑顔もお手のもので、素材としては悪くないはずだった。
「こっ、こういう顔は、色々使い道があるだろう? 交渉とか、潜入とか。俺は必ずお前の役に立つ!」
クラウスは必死で言い募るが、ディートリヒの心はあまり動かされなかったようだった。
「王子様――」
ディートリヒは憐れむような苦笑を浮かべた。
「お前は本当に、世間知らずだなァ……。お前程度の顔の男は、世の中に掃いて捨てるほどいるんだよ」
クラウスが止める間もなく、美しい男は今度こそ足元の薪に火をつけた。
§
煙がもうもうと立ち上り、クラウスが激しく咳き込んだ。彼は涙を流しながら懸命に何かを訴えようとしていたが、それは意味を為さない息漏れとなって、逆巻く煙の中に消えた。
やがてクラウスは力尽き、がくりと頭を垂れた。
「窒息です。大人しくしていれば、もう少し息をしていられたと思いますが」
ディートリヒが淡々と告げる。
「陛下の誠意です。エーベルハルト家とは、今後も良い関係でいたいと」
「しかと」
立会人は尊大に頷いた。
二人から少し離れたところで炎がクラウスの足元を包み、舐めるように這い上がっていく。
ディートリヒは門の方へ手を伸べた。
「後はもう焦げるだけですので。さ、門までお送りしましょう」
立会人は首を振ってその申し出を断った。
「いや、せっかくだ。最後まで見届けさせてもらおう」
「そうしたいなら止めはしませんが。ここは風下です。臭いが」
「ゲフゥッ!」
エーベルハルト家の立会人は、人の肉が焼ける臭いを明らかに嗅ぎ慣れていないようだった。香水を染みこませたハンカチを取り出し、鼻と口を慌てて覆う。
「人の肉の焼ける臭いは、染みついて取れないものなんです」
ディートリヒは苦笑し、立会人を再び促した。
「さ、綺麗なお召し物を台無しにするのは忍びない。門まで送っていきましょう」
「……そこまでおっしゃるなら」
立会人は今度は大人しく従った。美麗な衣裳を駄目にしてまで見届けたいものでもなかったようだ。
ディートリヒに恭しく見送られ、エーベルハルト家の豪奢な馬車が粛々と門を出ていった。
「さすがにご本人は来なかったな……」
ディートリヒがぽつりと独り言ちる。
クラウスの処刑も、フローラの惨殺も、パウラ・エーベルハルト本人の強い意向があったと聞く。
彼女が味わった感情は当然、それを味わわせた者の命で償われるべきなのだろう。高貴なお嬢様の気分なるものは常に他人の命より重い。
「おっと。考えごとをしている場合じゃなかった」
ディートリヒが中庭に取って返す。クラウスの消火は既に済んでおり、彼には人工呼吸が施されているところだった。
「どうだ」
「命に別状はありません」
あの飾り立てた孔雀に粘られた時は「どうしよう。ちょっと困ったな」と思ったが、まあ大丈夫だったようだ。
麻酔を仕込んだ煙を派手に焚き、クラウスの意識を早々に失わせて仮死状態にする。人の肉が焼ける臭いは、薪の中にあらかじめ入れておいた死体の腿で代用。さすがに火をつけない訳にはいかなかったから、クラウスには防炎剤をたっぷりと浴びせ、耐火ブーツも履かせていたが、完全に無傷とはいかなかっただろう。
ディートリヒは気絶しているクラウスに屈み、彼の顔の上で囁いた。
「さあ、王子様――生まれ変わりましょう?」
§
カタカタと揺れる馬車の中で、クラウスが微かに身じろぎした。
目を開けた彼の視線の先には、対面の座席で丸まって眠っているヒルダがいる。
クラウスの頭はディートリヒの膝に乗せられ、肩にはディートリヒの上着がかけられていた。
「う……」
クラウスの視線が足に向かい、裸足の足に包帯が巻かれているのを見る。クラウスは息をのみ、慌てて身を起こそうとした。
「――シ」
何か言いかけるクラウスの唇に、ディートリヒはいち早く指を当てる。クラウスが驚いて目を上げ、二人の視線がぶつかり合う。
「お前が生きていることは、この馬車の中だけの秘密だ――」
きっちりと後ろに撫でつけられた、プラチナブロンドがはらりと一筋、額にかかる。ディートリヒが醸し出す親密な雰囲気の中で、ディートリヒとクラウスが呼吸を忘れたかのように見つめ合う。
一秒、二秒、三秒………。
落ちた――。
クラウスが泣きながら抱きついてくる。ディートリヒは彼の背に手を回し、労わるようにさすってやる。
「よしよし。怖かったな……」
クラウスはこれよりディートリヒの忠実な駒となるだろう。彼に命じられれば何でもやる駒に。
――俺にはまだ利用価値がある! このカオだ! こういう顔は、色々使い道があるだろう?
ええ。勿論ですとも、王子様。
クラウスには確かに利用価値があった。
まずはこのカオ。そして、王太子としては凡庸だったかもしれないが、この年齢の男子としては平均以上の知識と教養。加えて国際情勢にもある程度通じており、数か国語に堪能。
何とも見切りが早いことだ。かけたコストも回収せずに切り捨てるとは贅沢の極み。
王が要らないというのなら、ディートリヒはイヌらしく、この残飯をありがたく頂戴することにしよう。
クラウスには持って生まれた美貌ばかりでなく華もあった。
彼が笑えば、そこだけ光が当たっているように明るくなった。
それが仇となった。
本来ならば王がその身に受けるべき注目を、まだ年若い彼が掻っ攫っていく。彼を伴った外遊では、行く先々でむしろ王が添え物のようだった。
王は彼に冷淡となった。
王宮という閉ざされた世界の住人達は皆、絶対的な権力者の態度に倣った。
愛に飢えた孤独な王子が、分かりやすく示された好意にのめり込むのはあっという間だった。
「お前に伝えたいことがたくさんあるんだ……」
途中で孔雀に邪魔をされた、さっきの話の続きをしよう。
杭に縛りつけられ、身動きの取れないクラウスの耳に、ディートリヒが吹き込んだ話の続きを。
王と貴族社会がクラウスに何をし、どう扱ったか。ディートリヒがこれから何度でも、母犬のように教えてやろう。
先ほど植えつけた小さな小さな不穏の種が、クラウスの体の隅々まで根をはり、滴るような果実をつけるまで。
お前だけを蹴落として、澄ました顔で笑っている連中をこのままにしておく訳にもいくまい?
ああ、王子様。実に見事な金髪だ――。
染めさせようかな、なんて思いながら、ディートリヒはヒルダと同じ明るい金髪を撫でる。
クラウスはここから国一つ隔てた南の王国にやることにしよう。
彼の顔が知られていないというのもあるが、本人の気質的にも南の風土が合っている。丁度よかった。あの国と国境を接する小国が、つい最近、市民革命を経て共和国となったばかりだ。面白い話題には事欠かないだろう。
クラウスの任務は何も知らず、知ろうともせず、退屈しきっている南の貴婦人たちからカネを巻き上げること。ついでに少々、内情も探ってもらうとしよう。この国より先に倒れるかもしれない古い王家の最後のあがきは、ディートリヒら革命軍にとって大いなる学びとなるだろうから。
ディートリヒにはもう一つの顔があった。
――この子だけは、助けて。
ディートリヒの心の奥底に在る、遠い過去。
――腹の子共々始末せよ。
足下の雪もまだ解け切らない寒い日のこと。
例の女がいるという情報を得て、粗末な小屋に乗り込んだ時には、赤ん坊は既に生まれていた。
――陛下も適当なことを……。
月足らずにしても、あまりにも早い。想定外だったが、腹にいようが外にいようが、やることは同じだった。
生まれたての小さな赤子は泣きもせず、ほわほわと不思議そうにディートリヒを見ていた。
脆く柔らかいその腹を、今から軍靴で踏み潰されるなど、想像もしていないようだった。
金髪ではあったが、瞳の色は王家によく出る青ではなく、明るい茶色だった。
その当時の王が見初め、無理に手折った女の瞳と同じ色。
女は片田舎の領主の私生児だった。
領主家の者は彼女の腹の子の父親が誰かも知らず、まるで罪人を追い出すように彼女を放逐した。
馬鹿共が。
お陰でディートリヒは彼女の足取りを追うのにかえって苦労した。
たった一人、孤独に出産したばかりの女は衰弱がひどく、何もしなくてももう死ぬと分かった。
女は意識が混濁しているようだったが、その明るい茶色の瞳がディートリヒを捉えた時、彼女は天使を見たかのように安堵の表情を浮かべた。
「この子だけは、助けて」
誓ってそんなつもりはなかったのに。
かさかさの唇が紡いだ言葉に、ディートリヒは頷いていた。
見ず知らずの女だった。
言葉らしきものを交わしたのもこれが初めてだった。
ディートリヒは女の苦しみを終わらせてやり、赤ん坊を抱き上げた。
「……女の腹を刺せ」
腹の子共々、手にかけたように見せかける為に。
この日から、ディートリヒはただ忠実なだけのイヌではなくなった。
彼が七年かけて密やかに、じっくりと育てた革命軍と市民感情は、いよいよ熟成の時を迎えつつあった。
ああ本当に、この婚約破棄はいい出物だった――。
フローラが持っていた無記名債券の束は、彼女がエーベルハルト家の手の者に追いつかれる前に回収した。
エーベルハルト家のやんちゃのせいで、宝石その他、すべて回収不能になりましたと素知らぬ顔で報告すれば、今は彼らと揉めたくない王は黙って受け入れた。
報告の半分は本当だった。処分に困る宝石は泣く泣く諦めたのだから。
降って湧いたようなこの臨時収入にほくほくしながら、ディートリヒはもうひとつの収穫物、彼の手の中に落ちるべくして落ちてきた可愛い駒の背を撫でた。
クラウスはこれから汚泥の中を生きていくことになるだろう。
傷つき汚れたクラウスは、先に逝ったフローラを羨む日すら来るかもしれない。
けれど、王子様。
そんな時は、このディートリヒが今みたいに優しく抱いてあげましょう。
あなたがまた何度でも汚泥の中に戻っていけるように。
「ん……ディー……」
いつの間にか目を覚ましたヒルダが、寝ぼけながら抱きついてくる。
ディートリヒは笑って二人を抱き寄せた。
ぼくのかんがえた最強にかっこいい王家の影(裏切るけど)
ミステリ好きにはなろう婚約破棄劇場の裏側がこんな風に見えています




