第二話:ヒールボタンは遠いまま
荒野に立ち込める霧を、ダイのグレートソードがわずかに切り裂いた。
――命中。
かすり傷とはいえ、ホブゴブリンの体力ゲージが、ほんのわずかに減った。
今回は、ちゃんと戦えている。手応えがある。
「おおお!? ダイ、いい感じじゃん!」
モニター越し、持ち主であるリカの声が聞こえる。やけに嬉しそうだ。
相手は、いつも通りのホブゴブリン。
だがダイにとっては、何度目かの挑戦だ。
この戦闘を生き延びられるかどうか、それが全て。
――しかし、事態はそう甘くなかった。
「が、はっ……!」
回避が間に合わない。敏捷が足りないのだ。
ダメージ表示とともに、体力バーが赤く染まる。残りHP、わずか7%。
あと一撃で終わる。終わってしまう。
(今だ、今しかないぞ、リカ! 使え! その回復薬を!)
ダイは心の中で叫びながら、インベントリを確認する。
《ハイポーション×24》
使える。使えるはずだ。ここで使えば、まだ戦える……!
だが、ゲーム音痴のリカが繰り出したのは――なぜか飛行特効スキル《ジャンプ斬り》。
当たるわけもなく、空振り。そして、ホブゴブリンの反撃の頭突きを食らい……。
――戦闘不能。
画面はモノクロに染まった。
* * *
その夜。PC前の椅子が無人になってから、五分が経過していた。
レストエリアで棒立ちしていたダイは、静かに額に手を当てる。
(なあ……俺が悪かったのか? いや、悪くないよな……?)
独りごちる声には、どこか切実な響きがあった。
(俺、ちゃんと警戒もしたし……ポーション、24個もあるじゃん……)
どうやらリカは、いつもの夕食タイムのようだ。
戻ってくるまで、少なくとも十五分はある。
貴重な自由時間だ。
ダイはすぐさまインベントリを開き、ショートカット登録リストを確認――そして、絶句する。
(……登録されてない、だと?)
そこに《ハイポーション》の姿はなかった。
使えるわけがなかったのだ。回復薬は、どこにも繋がっていない。
夜風がレストエリアを抜ける。
誰もいないベンチで、旗がかさりと揺れた。
遠くの屋台では、NPCの商人が誰もいない客に向かって、機械的に声を張り上げている。
「本日の特価品は〜、魔法水晶〜、ひとつ二百G〜」
静かすぎるその空間に、風と虚ろな声だけが響いていた。
(……そりゃ、とっさに使えるわけないよ……!)
早速、《ハイポーション》をショートカット登録しておくが、果たして残念なご主人は使ってくれるだろうか……
うなだれていても、時間は止まってくれない。
ダイは立ち上がり、視線をレストエリアの屋台に向けた。
この隙に、やれることは全部やる。それが、彼の生き残る唯一の手段だ。
* * *
NPC商人の前に、闇に紛れて現れる黒髪の剣士。
ダイは、ひとつのアイテムに目を留めた。
《女神の治癒符》――それは、死と隣り合わせの者だけが価値を知る、最後の切り札。
HPが30%を下回った瞬間、自動で発動し、35%回復してくれる保険アイテム。
(……これだ)
効果は一回きりで、再使用には三十分のクールタイム。
価格も非常に高く、普通の冒険者には高嶺の花。だが、今のダイには、必要な支えだった。
(幸い、ドロップ品はある。売るほど、ある)
ラック偏重のステ振り――リカの悪趣味に振り回される一方で、唯一得た恩恵。
売却アイテムだけは、それなりに手に入っていた。
換金。購入。設定。偽装。
ダイは治癒符を《素材》タグに変更し、インベントリの奥にひっそり格納した。
オート使用設定も忘れずにONにする。
(……どうせリカは、素材欄なんて滅多に見やしない)
全てが終わった頃、リカがようやく席に戻ってきた。
「よーし! 今度こそリベンジ!」
そしてまた、ホブゴブリンとの戦いが始まる。
以前と同じように、ダイは攻撃を食らい、徐々に体力が削られていく。
だがその時――
《女神の治癒符》が発動しました。HPを35%回復。
淡い光が、彼の身体を包む。
ダイは、その場に踏みとどまった。
「おお!? なんか勝手に回復した!? ラックか!? これラックか!?」
(……違う。違うけど……ありがとう、ラック)
この戦闘は、ギリギリの末に勝利した。
初めて――ダイは、リカの“回復ミス”を無効化できた。
少しずつでいい。
気づかれずに、こっそりと。
わずかな時間をつなぎ合わせて、今日を乗り切る。
たとえ、持ち主が何一つ気づいていなくても。