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『五十年目の理解』

作者: 小川敦人

『五十年目の理解』


雨の降る土曜日の午後、私は神田神保町の古書店街を歩いていた。

齢も七十を越え、もう定年退職してから五年が経つ。週末になると、つい昔の学生時代を過ごしたこの街に足が向いてしまう。

傘を片手に、しっとりと濡れた石畳を歩きながら、五十年前のあの日々を思い出していた。

当時の私は、一浪することも許されず、第一志望の法学部への夢を諦めて、都内のさほど名の通っていない私立大学の経済学部に入学した全く熱心な学生ではなかった。


古書店の軒先で雨宿りをしていると、店内の経済学のコーナーに目が留まった。

「シュンペーター入門」という文字が、薄暗い店内でかすかに光っているように見えた。

その隣には「現代貨幣理論(MMT)の基礎」という本も並んでいる。なぜか心が惹かれ、店内に足を踏み入れた。


「若い頃には全く理解できなかったものが、今になって見えてくることってあるものですねぇ」

店主らしき白髪の男性が、静かに語りかけてきた。私と同じような年配の方だ。

「ええ、まさにその通りです」

私は微笑みながら答えた。

学生時代、私は経済というものを麻雀のルールのように理解していた。

誰かが儲かれば、必ず誰かが損をする。持ち点は決まっていて、それが参加者の間で移動するだけだと思い込んでいた。

授業で教授が説明する資本主義の成長理論が、どうしても腑に落ちなかったのはそのためだ。

パイは決まっているのに、どうやって全体が大きくなるのか。その疑問が若き日の私の頭から離れることはなかった。


本を手に取り、ページをめくる。シュンペーターの理論が、五十年前の私の疑問に明確な答えを与えてくれているように感じた。

特に「信用創造」の概念は、私の麻雀的な経済観を完全に覆すものだった。

銀行は単に通帳に数字を記帳するだけで、新しいお金を生み出すことができる。

この事実を知った時の衝撃を、今でも鮮明に覚えている。

これは麻雀とは全く異なるルールだ。麻雀では決して新しい点数は生まれない。

しかし経済では、信用という形で新しい価値が生まれ続けるのだ。

そして、その信用創造は「創造的破壊」と密接に結びついている。古い産業が衰退し、新しい産業が台頭する。

その過程で必要となる資金を、銀行システムが信用創造という形で供給する。

銀行の通帳への単純な記帳が、経済の新陳代謝を可能にしているのだ。

この循環こそが、資本主義の持続的な成長を可能にしているのだ。


私自身、商社マンとして働いた四十五年の間に、この理論が現実の経済でどのように機能しているかを目の当たりにしてきた。

高度経済成長期、バブル期、そしてその崩壊、デフレ時代、そして現在のデジタル革命。

その都度、銀行による信用創造が新しい産業の成長を支え、経済の新陳代謝を促してきた。


MMTの本も手に取った。現代貨幣理論もまた、私の若き日の麻雀的発想を否定するものだった。

自国通貨を発行できる政府は、理論上は際限なく支出できるという考え方。

これも麻雀の持ち点制とは真逆の発想だ。


店主は私の様子を見ながら、ゆっくりと話しかけてきた。

「麻雀荘で学んだ経済学と、実際の経済の動きは随分違いますよね」

その言葉に驚いて顔を上げると、店主は昔を懐かしむような表情を浮かべていた。

「私も若い頃は同じように考えていました。でも経済は、もっと創造的なものなんですよ」


雨はいつの間にか上がっていた。夕暮れの街に、どこからともなく若者たちの笑い声が聞こえてくる。

彼らもきっと、今は理解できないことに悩み、疑問を抱きながら生きているのだろう。

私は五十年前、この同じ街で、麻雀の卓を経済の教室と混同していた。

その誤解を解くのに、半世紀もの時間がかかった。しかし、それは決して無駄な時間ではなかった。


家に戻り、書斎の窓から夜空を見上げる。星々が、五十年前と変わらない輝きを放っている。

机の上には、今日購入した二冊の本が置かれている。

若き日の麻雀的発想は、今や懐かしい思い出となっていた。

夜が更けていく中、私は静かにページをめくり始めた。

五十年の時を経て、ようやく向き合える経済理論との対話。それは、まるで若き日の自分との対話でもあるような気がした。

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