納車
注文の翌週、祈利は三度城下のバイクショップを訪れていた。ついに納車である。店頭在庫の車体だったので、即日受け取れる物と思っていたが、引き渡しの為の整備やポジション出しに時間が必要との事で、翌週末のこの日となった。金曜日の夜、会社からの帰路の足取りが妙に軽かったのは気のせいではないはずだ。
楽しみなあまり、開店早々にお店に到着してしまい、引き渡しの用意が出来ているか心配したが、既に準備万端に整えられており、店長さんに見透かされていたようで恥ずかしい。
バックヤードから店長さんの手に引かれて出てきたバイクは、LOOK オプティマムプラス。当初考えていた予算よりだいぶ脚が出てしまったが、やはりバイト少女改め、タヌキ少女の勧めがどうしても思い出されてしまい、他のバイクにしようという気にはもはやなれなかった。
サドルの高さを微調整し、基本的な操作のレクチャーを受けると、いよいよ引き渡しとなる。晴れて自分の物となって最初に握るまっさらなバーテープの感触に、改めて喜びと緊張を覚えた。
最後に念の為もう一度だけ女性のアルバイトが最近居なかったかと尋ねるも、やはり心当たりは無いと言う。
新車を携えて、お店を後にする。店舗の出口までわざわざ店長さんが出てきて、丁寧な見送りまでしてくれた。確かに自転車の値段を思えばそれくらいしてもバチは当たらないと思うが、なんだかこそばゆい思いをした。
ここから自宅まではJRで一駅、地元のローカル鉄道なら3駅ほど離れている。まずは初めてのロードバイクに慣れる為にも、少しだけ遠回りをして帰る事にした。
クロスバイクに乗る時に使っていたヘルメットを被り、出で立ちは一般的なスポーツウェア。まだ自転車用のジャージ、特にレーサーパンツと呼ばれるスパッツのようなものを着る勇気は持てなかった。
足元はスニーカー。ビンディングシューズと言う自転車用の靴を使うと良いと教わったが、それはシューズとペダルを連結して使用すると言う代物で、ロードバイクそのものが初めての祈利には荷が勝ち過ぎる。まずはバイクに慣れてからステップアップを試みる事とし、現状では一般的な自転車と同じフラットペダルにスニーカーとなった。
車道を走るのはまだ少し怖い。歩道をゆっくりと西へ、琵琶湖を目指して走る。城のお掘り沿いに進めば、程なくして湖岸へとたどり着く。この街にやってきて3年と半年。何度か気まぐれで琵琶湖を見に来た事もあったが、今日ほど美しく見えた事は無い。天気や時間帯よりも、やはり気持ちの問題だろう。望まない異動でやって来た街で鬱屈とした週末のせめてもの気晴らしに見ていたこれまでと、新しいロードバイクを相棒にして訪れた今日では、見え方も違うというものである。
せっかく気分も良いし、カフェかあるいは、湖岸のホテルのどれかにラウンジくらいあるだろう、日の高いうちからアルコールという訳にもいかないが、お茶ぐらいしていこうかと思案を巡らせる。
近くにお茶をするのに良い所がないか調べようとスマートフォンを手にした時だった。湖岸道路を一台の自転車が走っているのが見えた。車道を走るロードバイクだ。スピードがそれなりに出ているはずだがそれを感じさせないのは、ペダルを漕ぐ動きが洗練されているからだろう、祈利よりも熟練した人のようだ。
祈利の前を通り過ぎるその一瞬、その人の横顔には見覚えがあった。あどけなさや幼さをまだ残した少女の容貌に、大きな丸眼鏡。あの日のタヌキ少女に他ならない。
「あの娘だ!」
慌ててLOOKを走らせ後を追う。ロードバイクにはまだ慣れていないとは言え、クロスバイクなら多少は乗っていたし、運動は得意な方だった、きっと追いつける。祈利はそう考えた。しかし、さして急いでいるふうにも見えないはずのタヌキ少女は視界からどんどん小さくなっていく。教わったばかりのシフト操作でギアを上げ、ペースを速めようと試みるが、ペダルが重くなるばかりで少女との距離は縮まらない。祈利は必死に後を追っているというのに、少女の後ろ姿は事も無げに自転車を走らせてるだけ、むしろ楽しそうにすら見える。手品か魔法でも見せられているかのようだった。考えみれば、祈利がタヌキ少女に化かされるのはこれで二度目である。
「待って!ねぇ、待ってったら!!」
声をあげるも距離が遠いのか、風切り音にかき消されてしまうのか、少女には届かない。ならば立ち漕ぎだと、サドルから腰を上げてみたが、僅かに距離が縮まったかと思ったが長続きせず、むしろ疲れて速度が落ちた分遠ざかってしまった。
もう追いつかないか?
諦めかけたその時、天は祈利に味方した。いや、天使は二人を祝福したと言った方が良いかもしれない。前方に現れた信号機が赤になり、少女が速度を落としたのだ。
祈利はこの機を逃すまいと最後の力を振り絞ってペダルを踏みつけ、距離が近づいた所でもう一度叫ぶ。
「待って、お願い!私、貴方にお礼がしたいの!!だからお願い、こっちを向いて!!」
流石に気づいてくれたようで、バイクのカラーリングと揃えた薄緑のヘルメットを被った頭がこちらを向いた。ハッとした表情のそれは、確かにあの日、祈利に自転車についてのレクチャーをしてくれたメガネの似合う少女の顔だ。
「お姉さん!?」
目を白黒させた少女に追いついた祈利は息も絶え絶えで声も出せない。その様子を察したのか、少女はバイクのボトルケージからボトルを抜くと
「あの、良かったら…」
と、祈利へと差し出す。息を荒げたまま声にならない声で答えながらコクコクと首を縦に振り、ボトルをひったくるように受け取ると、一気に飲み干した。余りに慌てて飲み込んだおかげで果たして中身が何だったのかすら分からない。ボトルの底に僅かに残った物を改めて口に含むと麦の香ばしさが鼻を抜け、どうやら麦茶だったらしいと気付かされた。
「ありがとう、助かった」
ようやく人間らしい機能を取り戻し、改めて礼を告げボトルを返す。差し出されたボトルに、少女は一瞬躊躇い、頬を染めてはにかんだ仕草を見せるが、やがて大事そうに受け取ると、胸元で大事そうに抱え込んだ。
2台のバイクを歩道に上げ、改めて二人は向かい合った。
「あの、お姉さんのLOOK、もしかして…」
「そう、貴方に選んで貰ったからそれにしたの」
喜ばしい報告をしたはずだが、何故かタヌキ少女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「なんだかすいません、高価かったですよね、それ」
人を化かすはずのタヌキは随分と殊勝な事を言う。確かにこのLOOKは50万円以上の値がつけられていて、同格のバイクの中でも高価な部類に入る。大衆向けブランドの物なら近い仕様で10万円近く安価なモデルも存在した。
「とんでもない、貴方のおかげで、私はこれからとても素敵な自転車に乗る事が出来る。私一人ではきっとこれは選べなかった。改めてお礼をさせて」
少女の右手は、未だに祈利が返したボトルを胸元で抱えていたが、左手は所在なさそうに降ろされていた、それを両手で包んでこちらに引き寄せ、礼を述べた。
「あの、あのあのあの、手、手が、お姉さんの白くて柔らかい手が…」
「ん?あぁ、手?つい勢いで…嫌だった?」
そう言いながらも、祈利はけっして少女の左手を離そうとしない。気づけばそこは風光明媚な湖の畔。静かに寄せる小波と、揺れる水面で絶えず形を変える陽光を背に、二人は見つめ合った。