チェーン交換
チェーンが古くなって来ているのは、少し前から気づいていた。次のアルバイト代が入ったら換えようと思っていたが、いよいよそれを待っている余裕も無い程に、バイクは不調を訴え始めてしまった。
変速が決まらないどころか、走っている最中にもガチャガチャとチェーンが別のギアへと落ちかけてしまう。こんなになるまで整備を怠ってしまった自分に嫌悪しながら、今走っている場所から近い専門店をスマートフォンで検索してみると、幸いにも、今の状態でも何とか移動出来る程度の距離に1軒のお店が見つかった。
メガネを人差し指でついと持ち上げてかけ直し、自転車の進路を変えた。滋賀県の北東部、目の前に広がっているのは、傾きかけた陽光を反射させてキラキラ光る、日本一大きな湖、琵琶湖。その湖岸をぐるりと巡る道路、通称さざなみ街道を、1台の自転車、ロードバイクが駆けていく。それを操るのは、大学1年生 半田真留子。
彦根城近くのプロショップに駆け込むと、幸いにもチェーンの在庫はあり、お財布は痛むが無事に必要な部品を手に入れる事が出来た。交換作業はどうするのかと店員さんに問われ、近くの公園ででも作業すると告げる。手持ちの携帯工具にはチェーン切りも付いているので、作業は可能だ。
すると奥に居たもう一人の店員さん、店長さんだろうか?その人が「本当はダメなんだけど」と付け加えた上で、お店の作業場と工具をを使って良いと言う。ジャージを汚さないようにと、作業用エプロンまで貸してくれた。バイクの状態と、こちらが貧乏学生である事を察してくれての事だろう。丁寧にお礼を言い、作業を始めさせて貰う。最初は不安げにこちらを気にしていた二人の店員さん達だったが、真留子の作業が始まると、迷いなく的確に作業を進める様子に「なるほど」と納得してそれぞれの仕事に戻って行った。
全て世は事もなし。後は交換作業を終え、再び場所を借りた礼をして店を出る。そのはずだった。
「あの、すいません…」
綺麗なお姉さんという言葉がこの上なく似合う女性がそこに居た。お姉さんはどうやら真留子を店員と勘違いしているらしく、ロードバイクを見立てて欲しいと言う。
元来、人見知りが激しく、高校卒業まで友達らしい友達も出来なかった身の上。誤解を解く間もなく真留子が説明をする羽目になってしまった。
話し始めて最初こそ緊張したものの、お姉さんとの会話は思いのほか楽しかった。そもそも、真留子がする自転車の話をまともに聞いてくれたのはこのお姉さんが初めてだった。誰かとの会話をこれ程楽しく感じたのは何時以来だろうか?
ただ唯一困ったのは、お姉さんとの距離が縮まる度に良い匂いがして、ドギマギしてしまう事だった。香水でもつけているのか、はたまたお姉さん自身からのものか、常に花のように柔らかな香りが常に真留子を惑わし続ける。更に身動きした時には髪がフワリと舞って、リンスの残り香までもが真留子を襲う。
それだけでも落ち着かないと言うのに、極めつけはクイックレリーズとスルーアスクルの違いを説明した時だった。ハブ、自転車のホイールの車軸付近を指し示すと、お姉さんはどれどれと身を屈める。するとゆったりとしたブラウスの胸元から、チラリと淡い緑のブラが見えてしまった。その時間はほんの一瞬。しかし真留子の脳裏には生涯忘れない記憶として焼き付いた。真留子が身に着ける機能一辺倒の物とは違う、レースがあしらわれた女性らしい一品だ。
思わぬ光景に、目が泳ぐ。「こっちはここで固定するの?」とお姉さんに聞かれ、はっと我に返るが、思考の片隅にはずっと華やかなレースの装飾が残り続けた。
最後に真留子の好きな、お姉さんへのお勧めを問われ、LOOKと答えた。幸いコンフォートモデルの実車があり、お姉さんの用途にもぴったりだ。最後は慌ただしく別れる事になってしまい残念だったが、自分のような人間には縁の無い人だなとと思い直す。
場所を借りた礼を店長さんに告げようとするが、接客が続いており、簡単にお礼を述べるにとどまってしまった。向こうも手を挙げて答えてくれたので、意図は伝わっただろう。
店を出ると、目の前には観光名所と名高いお城がそびえていて、観光客と思しき人たちが楽し気に歩いていた。そんな街の様子を横目に、メンテを終えたばかりの愛車で車道に出て帰路へとつく。ビアンキ ビゴレッリ。10年以上のモデルで、真留子が高校時代にやっとの思いで手に入れたロードバイクだ。
日も傾きかけた道を東へと進路を取った。自宅まではまだ100km近くの距離がある。このまま走り続けたいところだが、体力も限界が近い上、明日は大学の講義とその後にはアルバイトも控えている。次の最寄駅で電車に乗ろうと決めた。
夕日に追われて走るこの時間が真留子は好きだった。一日のほぼ全てをサドルの上で過ごし、脚はかなり気だるい。それでも何故かずっとこうしていたいと思う。
先に見えるのは駅の灯り。かつては街道の宿場として栄えた場所だが、現代では静かな田舎町の地方駅。人影は無く、利用客は真留子一人のようだ。
駅前で輪行袋を広げて、バイクをパッキング。慣れていないと中々に骨が折れる作業だが、真留子は事も無げに自転車を袋詰めしてしまった。小さな彼女の体で自転車の入った大きな輪行袋を担ぐ姿は、袋に脚が生えて自分で歩いているようにさえ見える。改札を抜けてホームに立つと、いよいよ辺りは夜の帳が降りてきていた。
名古屋行きの列車を待つ間、今日の事を思い出す。既に何度も走ったルートだったが、それでも琵琶湖の光景と、そこを愛してやまないビアンキで走る喜びは、真留子を虜にする。チェーン落ちを多発させてしまった不徳は反省の限りだが、親切な店員さん達のおかげで早期に最低限の出費で対処出来たのは僥倖。そして何より、素敵なお姉さん。
やがて到着した列車に乗り込み、車内の片隅に輪行袋を置かせてもらうと、幸いにも座席には余裕があり、窓際に座ってようやく一息つく事が出来た。
並走する国道を流れるヘッドライトを目で追いながら、再びお姉さんの事を思い出す。クロスバイクからのステップアップと言っていたが、あの人は自転車を買うのだろうか。買ってくれたら嬉しいなと思う。普段から利用している地元のお店ならそこでお姉さんが自転車を買えばいずれ顔を合わせる事もあっただろうが、旅先で立ち寄っただけのショップで出会った人だ、もう会うことも無いだろう。その顛末を知る事は出来ない。
それでも
と、願ってしまう。あんな素敵な人と一緒に走れたら、きっと楽しいだろう。そうありたい。自転車は日本では実にマイナーなスポーツだ。特に近年は車体の価格は高騰の一途で、入門モデルでも一通り走れるようにバイクや身の回りの用品を揃えれば、10万円近い費用がかかる。高校を出たばかりの学生である真留子の身近に、一緒に走ってくれるような友達など出来ようはずももない。真留子の愛車も、高校生時代に家族を説き伏せ、ようやく手に入れた物で、それも中古車。そもそも人付き合いが苦手な真留子に誰かをサイクリングに誘うような事も出来ず、これまでずっと一人で自転車に乗ってきた。
それ故に焦がれてしまう。共に自転車を愛し、笑い合える仲間と走れる事を。ましてや、それがあのお姉さんのような素敵な人だったらどんなに幸せだろうか。
鉄道独特の振動に身をゆだねながら目を閉じて想いを巡らせる。まぶたの裏には、青空の下でお姉さんと湖岸道路を走る姿を夢想していた。叶うはずの無い、遠い、遠い幻想。少なくとも、この時の真留子にはそうとしか思えなかった。