46 放課後
十分もしないうちに校門まで戻ってきた。
自転車禁止の敷地内へそのまま乗り入れ、立ちこぎでぶっちぎる。
下校途中のカップルが慌てて道を開けた。マラソンをしていた体操服を追い抜く。途中呼び止めるような教師の声が聞こえた気がしたが、無視して突っ走る。
第二体育館の前でチャリを乗り捨て、靴を脱いで中へ。入ってすぐ脇にある狭い階段を上がり、二階へ。階段の踊り場まで来ると、上からがやがやとした声と、
多くの人の気配がした。
階段を登りきるや、熱気が立ち込めてくる。
上の階では汚いリングを取り囲むように人が座っていた。ざっと見て十数人ほど。制服だったりジャージだったりと装いはバラバラ。
顔を見渡すと、どっかで見たバカそうな面ばかり。昨日階段でやりあっていた連中の姿もある。女子も二、三人いるみたいだった。
肝心のミキの姿はどこにもなかった。
かわりに隅っこで一人縮こまっているスマ彦の姿を見つけた。
スマ彦含め連中の視線はリングの上に注がれていて、誰も俺が現れたことに気づいていないようだった。
「ぶはは! おい金子っち! 手出せよ! 一発ぐらい返せよ!」
「またチクリマンっていわれるぞ!」
周囲から声が上がる。
リングの上では、半袖の体操服にグローブを付けた二人が向かい合っていた。
そのうちの一人は、以前に俺が揉めた相手――金子だった。
「入った入った! 効いてる効いてる!」
「うはは、容赦ねえ~。おいあんまり顔やんなよ」
試合なんてもんじゃなかった。片方が一方的に腕をふるって殴りつけていた。金子は頭を両手で抱えて打撃をしのいでいるが、足元はフラフラだった。その姿からは、まったく戦意を感じられない。
「金子てめえやる気あんのかよまじで! 殺すぞ!」
外から投げ込まれたペットボトルが金子の背中に当たった。
立て続けに怒声とヤジが飛ぶ。ときおり女子の声援と笑い声が混じる。誰も止めに入ろうとするものはいなかった。
ミキの話ともスマ彦の話ともずいぶん違う。
姫ロワとやらは企画倒れになったのかもしれない。あんなもんに参加しようとするやつなんて、そうおいそれといるとは思えない。
きっと金子は無理やり引きずり出されたのだろう。前にしつこく誘われた、という話をミキから聞いていたが、今のあいつにそんな気概があるとは思えない。
連中は別のおもしろネタを見つけたか。たとえば試合にかこつけて、気に入らないやつをボコすリンチとか。
バチン、と小気味いい音がして、金子の体が崩れ落ちた。
笑い声とも歓声とも取れぬどよめきが上がった。金子を倒した野郎が、両手を上げてポーズを取っている。
騒ぎの中、俺は歩きながら靴下を脱ぎ捨て、リングに上がった。たわみきったロープをまたぐと、肩で息をしながらうずくまっている金子に近づく。
「かして。右だけでいいから」
聞こえているのかいないのか、金子に反応はなかった。意識が朦朧としてろくに前が見えていないのかもしれない。
俺はテープを外して、グローブを金子の腕から引っこ抜く。
「おいなんだよてめえ、なにやってんだよ」
「邪魔すんな」
リングの周りから罵声が飛んできた。
俺は無視してグローブを右手に装着する。
「誰? あいつ」
「知らねー。どっかの勘違い野郎じゃん?」
どこかで見たような既視感に襲われていた。まだ中学に上がる前の話だ。勝手に親父に組まれた試合で、リングにあげられたときもそうだった。
そのときもこうやって野次が飛んできた。けれど俺はなんとも思わなかった。野次なんかよりも、あとで親父に殴られることのほうがずっと怖かった。
俺たちは嫌われていた。それは親父が嫌われていたからだ。
頑固で口下手で、周りからの人望もない。そのくせ変なところで子供みたいに正義感の強いやつだった。
せっかく仕事が決まっても、筋が通らない事があるとすぐ上と揉めてやめてきた。
帰ってきたら仕事の愚痴を言って、酒を飲んで、ものに当たって、ときには母親や俺に当たって。
特別酒が好き、というわけでもなさそうだった。酒でも飲まないとやってられない、という感じだった。
親父がいつも何を楽しみにして、なんのために生きていたのか、俺にはわからなかった。
けれどあるとき、一度仕事で使うトラックの中を見せてもらったことがある。中に異世界に転生する小説だのマンガがいっぱい積んであった。どれも最強、無敵、といった謳い文句がならんでいた。
あの親父が本なんて読んでいるのが意外だった。
なんでこんなにいっぱいあるの? って聞いたら、「ムカつく悪者をぶっ倒すのがすかっとしておもしれーんだよ」と言ってうれしそうに笑っていた。
正式に離婚が決まったあと、親父はその時住んでいた貸家にトラックで荷物を取りに来た。ひとりで荷物を積み終わったあと、親父は「俺みたいになるんじゃね―ぞ」といって去っていった。最後に見送ったのは、背中を丸めたやけに小さい後ろ姿だった。
親父がいなくなったあとで、玄関近くの棚の上に数冊の本が積んであるのを見つけた。親父は大量の本を紐で縛ってまとめていたが、それだけ忘れていたらしい。
特にお気に入りだったのか、何度か読んでいるようだった。作品自体は最近の物ではなく、かなり古めのものだ。
どうしてか、俺はそれを捨てずに取っていた。わざわざ一人暮らしのアパートにまで持ってきていた。家に置いておくと、母親か誰かに処分されると思った。
それをこの前手にとって、初めてちゃんと読んだ。柄にもなく読書をしたというのは、これのことだ。読み終わって、そして思った。
親父は飲んだくれの運ちゃんなんかではなく、正義を貫く最強の騎士になりたかったのかもしれない。
子供を助けて死んだ親父は望み通り、異世界に転生できただろうか。いまごろ最強の騎士になれているだろうか。けどあれってトラックに轢かれないと駄目みたいだから、まあ、厳しいか。
そもそも女子供を殴るようなやつは、転生どころか地獄行きだろう。本当なら一生守って、愛すべきはずだった相手を、母親を、とことん悲しませた。
俺が学生のときは結構ヤンチャしてた、とも言っていた。ガキの頃から細々と悪いこともやってきたに違いない。
最後にちょっといいことしたからって、全部チャラになんてなるわけがない。それはきっと親父だって、自分でよくわかってたはず。
だから親父は、俺を騎士にしようとしたんだろう。
悪者に負けない、最強の騎士に。
やっぱりとんでもないクソ野郎だ。自分の叶えられなかった望みを子供に押し付けるクソ親父。
――そんなんじゃ強くなれねえぞ、もっと肉食え肉!
けれど俺も親父の望みを、何一つとして叶えてやれなかったクソ息子だ。
飯だけ食って、図体だけでかくなって、なにか役に立ったのか。親父を喜ばせること、なにかひとつでも、してやれたか。
あんなに怖かった親父の顔も、今は風化しかけている。
そのとき感じた怒りも、痛みも、恨みも、時間が経てばいつかは消えていく。別のものにすり替わっていく。
生きてすら忘れられそうだった親父は、このままきっと誰からも忘れられる。
俺だってきっと忘れる。あれだけ嫌だったことも変に美化して、捻じ曲げて。
あいつはほとんど何も残さず死んだ。
だから俺が、何もしてやれなかった俺が、存在を証明してやらないといけないと思った。あいつがなんのために生きていたのか、どうだってよくなる前に。
俺にはどうしようもないクソ親父がいたっていう証明を。
「あれ? お前、この前の腰抜け野郎じゃん」
リングの上で声援に応えていたやつが近づいてきた。誰かと思えば、この前ユキと一緒に中庭で出くわしたツーブロック野郎だった。よく行き合う。
しかしかわいい彼女がいるというのに、こんなとこで弱い者いじめとは。なるほど下でわーきゃー騒いでる女が、愛嬌ある性格美人の彼女か。
「なんだお前、勝手にグローブはめて……ああ、この前言われたの根に持ってんのか? やっぱニセモンじゃ満足できなかったって?」
「どうでもいいよ。いいからかかってこいよ」
「お前マジでやる気? ぶはは、冗談だろ。なあ飛び入りだってよ、こいつもついでにやっちゃっていい?」
周りで歓声が上がった。
面白そうな獲物が飛び込んできて、盛り上がっているようだ。
「そんでおめぇはどけよ早く、邪魔だよ」
かたわらにうずくまったままの金子を足蹴にしはじめた。リングから落とそうとしている。
静止をかけようと一歩近づくと、相手はいきなり振り向きざまに腕を振るってきた。
反射的に体が反応していた。斜め前に腰を落としてかわす。がらあきの懐に右のボディブローを叩き込んだ。小気味いい音がして、相手の体が前のめりになる。そのまま腹を押さえながら、膝をついた。
「ほら、早くかかってこいよ」
うずくまったツーブロックを見下ろしながら言う。
向こうは顔をしかめるばかりで、なかなか立ち上がろうとしない。何度か咳き込んだあと、苦悶の表情を浮かべながら悲鳴のような声を上げた。
「……な、なんだよお前、いきなり出てきやがって! なんのつもりだよ!」
「俺か? 俺はムカつく悪者をぶっ倒すのがすかっとしておもしれーんだよ」




