もしも優しい令嬢でなければ
私がもし、優しい令嬢でなければ、こんな茶番はしないだろう。
「あの、本日はお招きいただきありがとう存じます」
「えぇ、よくてよ。あなたとはお話ししたいと思っていたの。私とあなたはこうやってお茶をするのは初めてよね。迷惑じゃなかったかしら?」
「いいえ、迷惑だなんてとんでもない!今社交界でも婚約の件について、噂になってるもの。そんな話題の方とお茶できるなんて嬉しいわ!」
「あらあら、もう噂が流れているの?嬉しいわ」
「……もしかして、どんな噂かご存知ないの?———きゃあ!」
開始後5分。
こちらを馬鹿にしたような笑みを浮かべる彼女に思わずカップを持つ手が滑る。ちなみに、この紅茶は冷めているので火傷の心配は無用である。
「あら失礼。手が滑ってしまいましたわ」
「しゃ、謝罪してくださいまし!私に紅茶がかかっているのよ!」
令嬢の悲鳴に駆けつけた侍女数人が必死にドレスについた紅茶を布で拭いている。あら、顔は自分で拭くのね。
それを横目で見ながら、ふふと笑う。初めてこんなことをしたけれど、意外に愉快なものね。
もしも、私が心優しい令嬢でなければ、こんな状況になんかなってないであろう。
もしも、私が優しい令嬢でなければ、私を貶めようとした方を屋敷に招いてあげたりなんかしないだろう。
その証拠に、彼女のドレスを拭いているのは彼女が連れてきた侍女のみである。この家の者は微動だにしない。その様子にあちらの侍女は不審な表情を見せるものの、発言はしない。侍女にお茶会のイベントに口挟む権利などないからである。
何故この家の者が動かないのかって?
そりゃ私が動けと命令してないから、それに尽きる。この家の者は優秀なので、私が彼女を招待した理由も、私がつい手を滑らせてお茶をこぼした理由も分かっている。
「謝罪?むしろ貴女がお礼を言う方だと思うのだけれど」
入れ直してもらった紅茶を口に含んで、味わってから嚥下する。
うん、やはり私はこの味が好きだ。さっき入れていたのは、彼女の好きな銘柄であって私の好みではなかったのよね。
無礼者にそんな配慮は必要ないとの意見も多かったけれど、私は優しいので明日の出立を祝って、好きな銘柄を飲ませてあげようという配慮である。お祝いというか、餞別になるのかしら。
「貴女にお礼?おかしいでしょ!私は紅茶をかけられたのよ!」
「ええ、これからはめったに飲めないと思うと貴女が可哀想だから、全身で味わって頂こうと思って」
ある程度は拭き終えたのか、そそそと侍女が元の位置に戻る。
「は?どういう意味よ」
「あらあら、口調が荒ぶっていてよ。……あぁ、もう今から練習されているの?でもそのような口調はさすがにやりすぎ、だと思うわ。大変よねぇ、この歳から修道院に入るなんて」
服装から始まり日々の生活、その全てが違うんですものね、と彼女に微笑む。修道院はだいたい、貴族の女性が入るとすれば、特殊な事情があることが多い。家の派閥の関係で幼少期に数年入るだとか、未亡人になって行き場がないからだとか、そういった理由がほとんど。
そういった、ある種の避難所のような役割を果たしているのがこの国の修道院なんだけれど、稀に目の前にいる彼女のような存在もいる。つまり、この年頃の令嬢が入るとなれば訳アリなのは一目瞭然で、あまり歓迎されないことが多いと聞く。
もしも、私が優しい令嬢でなければ、
「だから!あなたはさっきから何を仰っているの?!」
「あら、まだ聞いてないのかしら。貴女、明日に修道院に向けて出立するのでしょう?」
こんなに懇切丁寧に説明なんかしていないであろう。
「き、きいてないわよ!どういうことなの!」
「品のない方の声は耳に障るわね。———貴女、あんな噂を流してお咎めなし、なんてあり得ると思っていたの?」
携えていた笑みを消して彼女を見ると、先程まで威勢が良かったのが嘘のように縮こまった。
「『横取り』?いいえ、私とカルヴァン様は幼少期から結婚を誓った仲よ。『権力を振り翳し』?いいえ、そもそも、私は彼と1つしか爵位が変わらないのだけれど」
私は優しいが故に舐められやすいのだ。だから私の婚約者との婚約に対して不名誉な噂を流されたのだ。
『元々愛し合っていた1組の恋人たち。その美しい男を権力を振り翳し横取りし無理矢理婚姻関係となった者』だったかな。ああ、くだらない。
本来、貴族社会に属する者は、爵位が上の者にはお茶を文字通りぶっかけるなんて無礼は出来ないし、かといって下の者にはこんなことする前にさくっと社会的な死を与える。基本的には圧力をかけて実家ごと社交界から追放することが多いのだけれど。ちなみに、もし上の方々に不名誉な噂等流された場合には、自分の派閥の上の方にお願いしてどうにかしてもらうのがセオリー。
同じ派閥の上の方が噂を流した張本人、なんてこともありうるけれど、それを被害者が聞く術はない。なぜならすでに社交界から追放された後だから。
閑話休題、繰り返すが、私は優しいのだ。社交界から追放はもちろんだけれど、でも実家ごと追放は可哀想でしょ?
彼女の御実家は大層優秀な後継がいるという噂があるのだから、その妹である彼女も同じ家庭教師を師事している可能性が高い。
で、あるなら今回の行動は彼女の気質によって引き起こされたもので。持って生まれた気質のせいで自分の家族諸共社交界から追放されたら彼女もつらいだろう。だから、これは温情なのよ。
くだらないとは分かっていても、やはりここは彼女より上の爵位の家に産まれた人間として、やさしさを、懐の深さを見せるのが大切である。
「さあ、お客様のお帰りよ。案内して差し上げて」
「ちょ、ちょっと待って。あ、あなた本当にそれだけが理由で……?」
全身で味わっていた紅茶が冷めてきて寒いのだろうか、はたまた別の理由か。彼女は震えながら口を開いた。
はて、それ“だけ”とは?幼子がするように、こてんと首を傾げてみせる。自分より爵位が上の者を噂で蹴落とそうとしたのだ。しかも私の愛しいカルヴァン様に恋横暴して。
「あらやだ、あなたまだ自分の罪に気付いていないの?」
「つ、罪って言ったって、ちょっと噂を流しただけよ!」
「ああ、もう、ほんとあなたの声って耳が病気になりそうね。ええ、そうよ。たかが噂で、私はあなたのことを知りもしなかったけれど、大嫌いになった。私のカルヴァン様が落ち込んだのよ、あなたのくだらない噂話のせいで」
「……え」
「その罪を、修道院で懺悔して赦しを乞いなさいな。そして、私の目の前に二度と姿を見せないでいただける?」
おそらく、今。自分のしたことの重大さに気付いたのであろう。私が今手にしたカップのようにサッと顔が白くなった。
——いやいやいやいや、私、本当に知らなかったのよ。好きになった相手はカルヴァン様。婚約者候補がいたなんて知りもしなかった。それに、カルヴァン様に聞いても『婚約者はいないよ』と言うからてっきりフリーなんだと思ったのに。友達同士のお茶会で、カルヴァン様との出会いから好きになった経緯を話して盛り上がっていた。
そこに、悪意は一切なかった。婚約発表を貴方たちがするまでは。いや、婚約発表をしてからも別に悪意なんてなかった。私はお茶会の話の種として面白おかしく話していたのだ。もう少しで、私が婚約者になれたのかもしれない、と。その種は大いに盛り上がり、見事に花を咲かせてくれた。数日後、気付けばあんな噂になっていたのだ。でもそんな噂、本当によくある。だから特に火消しなんてせずに放っておいた。別に嘘は言ってないからね、私。周りが勝手に誇張しただけだし。それが私が全て発信したようになっていたけれど誤差の範囲でしょ、と楽観視をしていた。
こんな結果になるなんて、誰が思うだろうか。
ちょっとした噂を流しただけなのに、修道院に入る?いや、でも、嘘よねさすがに。だってそんなこと親が承諾するわけがないし。——
我が家の侍女が彼女に退席を促す。放心状態の彼女は言われるがままに立ち上がり、無意識下のうちでもさすがは貴族令嬢。カーテシーを行い馬車乗り場の方へと歩いて行く。
どこかふらふらした歩き方をする彼女を見ながら、紅茶を飲む。やはり美味しいわ、この銘柄。
ああ、そうだ。彼女にもう一つ伝え忘れていたわ。
「そういえば、伝え忘れていたのだけれど」
まだ私の声が聞こえる範囲だったのだろう、ゆっくりと振り返る。特に聞こえなくても家に帰ればわかるこ
とだから、聞こえなくてもいいんだけれど。
「今回の修道院行き、あなたの御両親も当然知っていてよ」
「……うそ、でしょ」
あらまあ。私、そんなくだらない嘘は言わないのに。私は優しいから、彼女が家に着くまでの間に覚悟を決めさせてあげる。だって、このままだと御両親に確認して、そこで本当の絶望が来るわけでしょう?そんなの可哀想じゃない。最後の家族のひと時なのだから、絶望している時間がもったいないわ。
「本当よ。むしろ、温情を施してくれたと感謝されたわ。だから、疑心暗鬼ならずに帰りなさい。ちゃんと、明日の修道院到着までは我が家の護衛も数人貸し出すから安心なさい」
「い、いやよ。嘘よ。嘘にきまっているわ。だってそんなこと」
「本当よ。だから貴方は何も心配しなくていいの。安心して明日からの生活を送れるわ」
本当は分かってるわよ、修道院行きが嘘って思いたいんでしょう?でも残念、そちらは本当なの。だってこちらも舐めた噂を立てられて怒っているのよ。それを私の温情、つまり優しさでそこまで譲歩しているのだ。
彼女が連れて来た侍女が崩れ落ちた彼女を支えながら、しかし引きずるようにして馬車乗り場へもう一度歩きだす。
馬車に乗り込んで、出発する。
見送ると、残っていた紅茶を最後まで飲む。
——この銘柄も、彼女に味合わせてあげるべきだったかしら。
カチャリと小さな音を立ててティーカップは受け皿へと戻った。