セルジオ=ローバン ①
沈黙を守っていた夫サイドの話です。
なるほど、
彼女が医務室の“野ばらちゃん”か……。
俺が彼女と初めて出会ったのは
王宮の医務室だった。
訓練中の部下が怪我をして、
俺はその部下に肩を貸して医務室へ連れて来た。
部下連中の間で
誰が医務室に付き添うか
と、くだらない事で揉めていたので
さっさと俺が連れてきたのだった。
部下たちのお目当ては
3ヶ月前に医療魔術師として勤め出したこの子だ。
魔力量が高く、
医療魔術に特化した能力を買われて
王宮医療魔術師になったのだとか。
赤みのかかった茶色い髪に
透明度の高い琥珀色の瞳。
部下たちの評価によると
「綺麗な子なのに素朴で物静かな感じが、
一重の可憐な野ばらを連想させる」のだそうだ。
確かにとても綺麗な娘だ。
なのに純朴そうな空気感を醸し出し、
庇護欲を掻き立てられる。
これは部下たちが騒ぐわけだ。
年はまだ17といったか。
だけど先程から仕事ぶりを見ているがどうだ、
まだ新米医療魔術師であるはずなのに
落ち着いた様子でテキパキと治療を施している。
なかなか大した娘だと俺は思った。
手慣れた手つきで包帯を巻き、
小さくて白い手を負傷した部位にそっと当てる。
「どうか早く治りますように……」
彼女がそう言うと淡い光が発せられた。
「……!」
その瞬間、俺は息を呑んだ。
なんて事ないただのまじないだ。
それを行う医療魔術師と
行わない医療魔術師がいるという差があるだけで、
とくに特別な治療でもなんでもない。
でもその淡い光があまりにも美しく、
そして温かくて俺は目が離せなかった。
そしてそのまじないを掛けている娘の
優しげな表情がどうしようもなく心に焼き付く。
それからというもの
ふとした時にあの淡い光と彼女の顔が
脳裏に浮かび、落ち着かない。
どうしてもまた見たくて会いたくて
怪我をした部下や同僚が出る度に付き添った。
そんな日々を過ごしているうちに
ある事を耳にした。
『医務室の医療魔術師の娘が18歳になり、
例の如く王命により伴侶を充てがう事になった』と。
そうか……。
彼女も18になったのか。
どうりで雰囲気が大人びて来たと思った。
結婚適齢期に入り魔力を持つ誰かと添い、家庭を持つのか……。
そう思うと何故か嫌な気持ちになった。
どうしてだ、彼女は既に両親を亡くし、
一人で生きていると聞く。
その彼女が結婚して幸せな家庭を築く、
喜ばしい事の筈なのに何故か素直に祝福してやれない。
……そうか、俺は嫌なんだ。
彼女のあの優しい眼差しが
他の誰かに向けられる事が。
……7歳差か。
貴族間ではよくある年齢差だ。
しかし俺には殆ど魔力はない。
でも、ゼロでもない。
そこまで考えて俺はふいにおかしくなって
笑ってしまった。
今まで全く結婚に興味はなく
四男坊という事もあり、
このまま一生気ままに独身生活を送っていくつもりだった俺がまさかこんな事を考えるなんて。
よし。
決断してからの俺の行動は早かった。
侯爵系のコネで
高魔力保持者の伴侶候補に名乗りを挙げる。
そして周りに有無を言わさず初顔合わせをし、
幾度となく顔合わせを繰り返して
彼女の夫となった。
結婚式当日。
彼女の花嫁姿を見て、俺は神に感謝した。
気の利いた賛辞の一つも言えず、
ただ「キレイだ」としか言えなかったのが我ながら口惜しい。
そして結婚してからの彼女との日々はとても穏やかで幸せなものだった。
不規則な俺の勤務のせいで
家事の全てを任せてしまっているというのに、
彼女は嫌な顔ひとつしない。
それどころか
いつも美味い食事を用意してくれ、
俺がどんな小さな傷を負っても必ず気付いて、
あのまじないを掛けてくれる。
その時の彼女…アニスの優しくて温かな微笑みが
何よりも愛おしかった。
わかっている。
アニスは王命に従って俺と結婚しただけにすぎない。
それでも俺たちの間には
夫婦として確かな絆が育まれつつあると確信していた。
丁度その頃だ。
隣国に嫁いでいたイトコのグレイスが
帰国したのは。
表向きは前国王が身罷られた事により、
前国王の後宮は解散。
子の無い側妃を国に送り返すというものだ。
しかし事実は呪いに手を出し、
逆に呪い返しにあったグレイスを
放逐したというものだった。
向こうの国の対応は
命を奪わなかっただけマシだと思えというような
ものであったらしい。
もともと国力の差のある隣国との繋がりを得るための婚姻だった。
国王は溺愛していた王女を
側妃として嫁がせるのにかなり難色を示したが、
大国との縁続きという大事のために
泣く泣く娘を送り出した。
その王女が嫁ぎ先で虐げられ、呪いに手を出した。
国王の嘆きはそれは凄まじく、
隣国との国交を断絶するとまで言わしめたが、
王太子がこれをなんとか宥め、今はとにかくグレイスを元に戻す事を優先させるという事になった。
そんな中、
俺は伯父である国王とイトコである王太子に呼び出された。
グレイスが俺に会いたがっているという。
グレイスが幼い頃から
俺に好意を持っていた事は知っていた。
同い年で、
いつもよく一緒に遊んでいた一番身近な異性という事もあり、俺も同じ気持ちを抱いていたように思う。
明るくてよく笑っていたグレイス。
少し我儘だが無邪気なグレイスを誰もが愛していた。
隣国へ嫁ぐ日
想いを打ち明けられたが、
俺はそれに応えるわけにもいかず
ただ静かに見送った。
その後
隣国で王の寵愛を受け
何不自由なく暮らしていると聞き、
複雑な気持ちになりながらも安堵した事を覚えている。
その彼女がこんな事になって帰国するとは……
俺は呼び出しを受けて王宮へ向かった。
最初に出迎えられた王太子に、
変わり果てた姿に驚かないで欲しいと頼まれた。
覚悟をしてグレイスの待つ部屋へ向かう。
そこには無邪気で明るかった
かつての面影は全くない、
変わり果てたグレイスがいた。
禁忌とされる呪いに手を出してまで憎んだ相手に呪い返しに遭い、
自らに降り掛かった呪いに蝕まれ精神も肉体も病んだ女がそこにいた。
結局その日は大した会話も出来ず、
その二日後にまた王宮のある部屋へ呼び出された。
グレイスの侍女長を務める女性に案内されて
部屋に入る。
その時にその侍女長が俺にこう言った。
「幼い頃からグレイス様は本当に貴方の事を慕っておられました。
私は貴方様ならグレイス様を元のお姿に戻して下さると信じております。
どうか、どうかグレイス様の事をお願い致します……!」
この国の臣下として
またはグレイスのイトコとして
出来る限りの事はするつもりだ、
とだけ言っておいたが何故かその侍女長は
貼り付けたような笑みを向けるばかりだった。
「……少し、扉を開けておきます」
侍女長はそう言う。
当たり前の話だ。
なぜそんな事を言うと訝しんだその時、
不意に名を呼ばれた。
「……ジオ?」
振り返るとグレイスがこちらを見ながらゆっくりと椅子から立ち上がった。
先日会った時よりは少し落ち着きを取り戻したのか
その表情には感情の表れが見て取れた。
先日は人形のように無表情だったのだ。
あんなに明るく、
屈託なく笑っていたグレイス。
一体隣国で何があったんだ。
そんな事を考えながら敢えて明るくグレイスに微笑む。
昔のように。
その瞬間、グレイスが胸に飛び込んで来た。
辛そうに、悲しそうに、
まるで何かにしがみ付いていないと
消えて儚くなってしまいそうな自身の身を必死に
保とうとしているようだった。
ただ嗚咽を漏らしながら泣くグレイスを
俺はただ、抱きしめ返してやる事しか出来なかった。
もちろんそこに恋情などはない。
敢えて言うなら幼な子をあやすような感情だ。
しかし、まさかそれを
侍女長によって知らず誘導された
アニスに見られているとは知りもせずに。
そしてその日のうちに
グレイス付きの騎士へと任命された。
昼間は精神のリハビリを医療魔術師と共に見守り、
夜は仲間と共に時折凶暴化するグレイスを抑える。
感情の波、浮き沈みが激しいグレイスの側から片時も離れられなくなり、
家に帰れない日々が始まった。
俺の他、数名の騎士や王宮魔術師も
そんな状態になっているのに
まさか俺だけ帰してくれとは言えず、
アニスに会えないもどかしさを
彼女への手紙へとぶつけるしかなかった。
手紙は王女宮の事務方に渡すと各方面へ届けてくれる。
男のくせに女々しいと仲間に揶揄われながらも、
3日に一度は手紙を書いていた。
アニスに会いたい。
彼女の作った美味い飯を食べたいし、
優しく微笑む顔を見たい。
そんな事ばかり考えていた時に、
報せを受けた。
アニスが着替えを持って訪ねて来てくれたという。
しかし近衛の詰所に来たのは昼前くらいで、
その間ずっと待合室で待ってくれているというではないか。
なぜ早くに知らせない!
俺は夕方近くになってようやく
知らせた侍女長に殺意が湧いたが
今はそんな事に構っている場合ではなかった。
全速力で走り、
王女宮から近衛の詰所のある王宮へ向かう。
ノックをし終わらないうちに扉をあけると
そこに会いたくてたまらなかった彼女がいた。
あぁ…彼女だ、アニスだ。
俺半ば呆然としながら彼女を見つめていたが、
名を呼ばれて我に返る。
着替えの礼を言い、
待たせた事と帰れない事を詫びる。
不平不満を口にされても文句は言えないのに
彼女はそうはぜず、ただ俺の体を気遣ってくれる。
しかもアニスは俺の頬に出来た小さな傷に気付き、
あのまじないを掛けてくれた。
温かくて柔らかなアニスの手に触れられ、
俺の理性は吹き飛んだ。
普通に考えて
職場の待合室で、しかもまだ明るい時間になんて有り得ない。
でも止められなかった。
もちろんアニスが嫌がれば死ぬ気になればやめられる。
でもぎごちなくも彼女が応えてくれた瞬間、
もう我慢など出来るはずもない。
野獣のように二度も求めてしまい、
後で自己嫌悪に陥った事は情けなくて誰にも言えない。
そんな中、
庭園を散歩中のグレイスが不意に転びそうになる。
思わず手を繋ぐ形になってしまった時に
無表情だったグレイスが微笑んだ。
まるで呪いが掛かっていない、
昔のような屈託のない笑顔で笑ったのだ。
侍女長の啜り泣く声が後ろから聞こえる。
俺もどこかほっとして
そのまま手を取り、エスコートしながら庭園を散歩し続けた。
これが足掛かりになって、
グレイスが元に戻っていければいい。
そうすれば家に帰れるかもしれない。
そんな事を思いながら
また日々を過ごしていた俺に
伯父が、国王がとんでもない事を
言い出したのだ。
「今のお前の妻には別の者を添わせる。
だからどうか、グレイスをお前の妻に迎えて欲しい。お前の側でなら、
あの子はきっと穏やかに暮らせるだろう」と。