プロローグ
季節は春。四月の陽気な空に広がる、柔らかい綿のように真っ白な雲から顔を出す太陽の光が僕たちの体を温かく包む。
――ということはなく。
「春なのに何でこんな寒いの!」
現実は、陰気な空が広がっており、灰色な雲から稀に顔を出す太陽は、僕たちはおろか進む道すらも照らしてくれてはおらず、むしろ本当に四月なのかと疑いたくなるほど広がる寒気は僕たちの体から確実に体温を奪わんとしていた。
そんな中、僕の隣を歩く女性は身を縮こませながら必死な形相でその寒さに抗っている。
「だから厚着してきた方がいいって言ったのに」
「今さら遅い!」
怒られてしまった。出かける前にあれほど言ったのに。
今年の春は例年と比べると強力な寒気が日本に流れ込んできているようで、ついこの間もここから遠くない地域で一時的な大雪が降ったこともあった。桜と雪のコラボレーションという、滅多にお目にかかれない光景に写真家の友人がやけに興奮して電話をかけてきたのは記憶に新しい。
「大体、ここ最近はずっと寒いって聞いてただろ。何でよりによってその服装なんだ」
今朝見たニュースでもキャスターにしつこいほど厚着を勧められた。
にもかかわらず、隣の彼女はその警告を(ついでに僕の警告をも)無視し、ブラウスにスカートなどという、見ているだけで体温が下がりそうな格好をして家を出たのだ。コートを着ている僕でさえ少し寒いのに。
そして案の定、冬に置いて行かれた寒気は容赦なく彼女の白い肌を包む。
「だってぇ……」
「ちょっと走れば? それなりにあったかくなるよ」
「疲れるしヤダ!」
子どもか。いや、子どもならむしろ元気に走っているかもしれない。
「うぅ、寒いよぉ……」
隣で寒さに耐えながらも小刻みに震える彼女を横目に歩く。自業自得だし仕方ないと思いつつも、なぜだか罪悪感に似たものを覚えてしまう。
「寒い……」
散々警告してあげたにもかかわらず、「四月に厚着するのは馬鹿だ」などと反抗したため、好きにさせた結果こうなった。
彼女目線では四月に厚着は馬鹿だそうだが、案の定、すれ違う人たちは一瞬、「え、この人寒くないの?」と言いたげな、可哀想なものを見る目を彼女へと向けている。それは、彼女が馬鹿であることを何よりも物語っていた。
「あー、寒い寒い。ほんと寒いねー」
一方、彼女の方は寒さでそれどころではないのか、周囲の視線などもろともせず、いちいち寒いことを僕にアピールしては無理をした作り笑顔でこちらを見てくる。
これはおそらく、『私がこんなに寒いって言ってんだから早くお前が着てるコートをよこしやがれ』ということだろう。なんか顔にそう書いてあるように見えた。
しかし残念ながら、僕は昔から察しがよくても自発的に行動は移さない性根の腐った人間のため、そんな言葉だけではとてもコートを貸してあげる気にはならない。
僕も寒いから元々貸す気もないけど。
「ほんと寒いね。コートを着てきて正解だったよ」
本当に寒いのだろうけど、過剰に寒いことをアピールしてくる彼女を横目に嫌味っぽく言葉を溢してみる。
「…………」
黙ってしまった彼女のほうをちらっと見ると、怒っているかと思いきや絶望に満ちた表情をしてただ目の前を見つめていた。普段ではなかなか見られない表情だし、これをうちの大学の連中が見たらどう思うだろう。
とりあえず、ただボーっと歩いている彼女が誰かとぶつかったりしないようにしっかり見守りながら隣を歩く。
そのような状態がしばらく続いていたが――。
「寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い――」
「怖いって」
突如立ち止まったかと思えば、壊れたラジオのように「寒い」と連呼しては死んだ魚のような目で僕のコートを掴んで顔を見つめてくるのだから不気味でしょうがない。それにとてもじゃないが、女性が見せるべき顔ではない。
「ちょ、離れなって」
「じゃあそのコート私にちょうだい!」
「絶対やだ」
「あ、言い方間違えた。貸して!」
「やだ」
「ぶぅ……」
いつまで経っても、人というのは変わり続けるものだ。今目の前にいる彼女にしても、出会った頃はこんな性格ではなかった。
なんというか、以前に比べると雰囲気が一段と柔らかくなった気がする。
「自業自得なんだから我慢しなさい」
「…………」
そこはかとなく不満げな目つきで頬を膨らませながらこちらを睨みつけてくるが、ちっとも怖くない。
それに彼女は多少我が儘な部分もあるが、それもまた彼女の可愛らしいところでもある。無論、口が裂けても本人には言えないが。
「私のこと好きじゃないの?」
「好きだけど」
「えっ!」
突然、素っ頓狂な声を上げたかと思えば、目を見開いてこちらを見つめてくる。その目には、信じられない、といった感情が浮き出ていた。
「急に何だよ」
「い、いや、いつもは好きじゃないとか言ってくるのに……」
そういえば、普段からあまり言っていなかったかもしれない。
好きじゃない、と言った記憶はないが、最近は特にパソコンにばっかり構っていたせいで毎回曖昧な返事をしていたような気がする。
彼女の方を見ると、顔を赤らめて、手をもじもじとさせていた。
――なんだか、懐かしい。
「……しょうがない」
負けた、と思いながらコートを脱ぎ、それを彼女に着せた。念のためコートの下に厚めの長袖を着てきたので多少は大丈夫だが、確かにこの気温だと彼女のような格好で外を出歩くには厳しいかもしれない。
「えっ、あ、ありがとう……」
「何で急にかしこまるんだよ」
「いやぁ、ほんとに貸してくれるとは思ってなかったから」
「じゃあ返せ」
「ふふっ、やだー」
そう言うと、嬉しそうに僕のコートに身を包んだ。
「あったかいねー」
そう言って彼女は満面の笑みを見せる。しかし、それは決して先ほどのように作られたものではなく、彼女の心を投影したものに違いなかった。
「それなら良かったよ」
「うん!」
そういうと同時に手を差し伸べてくる。つなげ、ということなのだろう。
僕も静かに左手を差し出す。すると、その手はすぐに冷たい感覚に包まれる。
ちょっと悪いことしちゃったな、と心の中で反省した。
「どうしたの?」
「え、いや、何でもないよ」
「もしかして、私と手をつないで緊張してる?」
「いや、そうでもないかな」
「ふふっ、相変わらず素直じゃないところは変わらないねー」
曇りのない笑顔でそう言った彼女を見て、僕は五年前のことを思い出していた。
今考えてみても、誰にも信じてもらえないような、非現実的なあの出来事。
客観的に見れば、決して現実的ではない事象に対して“運命”という言葉で結び付けることには誰もが違和感を覚えると思うし、それならまだ“奇跡”と言った方が納得されると思う。
でも、やっぱり僕にとっては奇跡ではなく、運命として心に残っていて――。
「どうしたの? やっぱり寒い?」
「あ……、何でもないよ」
「そう?」
目を合わせると、彼女はにっこりと笑った。例えるなら、子どもを温かく見守る母親のような、そんな眼差しだった。
「な、なんだよ」
「なんでもないよー」
未だに、彼女には謎の部分が多い。「ただの気分屋」ということだけは間違いないが、彼女のことを完全に理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「あ、そういえば」
彼女は突如真面目なトーンで語りかけてくる。
「あの二人に言うことは決めたの?」
「え? ああ、もちろん」
「なら良し! 現地まで競争ね! レッツゴー!」
「あ、ちょっ待てって!」
僕は、感謝を伝えなければならない。
あれから五年という月日が流れ、今なお僕の世界の見え方は変わり続けている。
不器用で、まだまだ他人との接し方にはわからないことも多いけど、
でも、もしあの日、あの不思議な出来事がなければ、
――今の僕は、いなかったと思うから。