プロローグ
―――ピチョン、ピチョン―――
薄暗い小さな部屋に、何かが滴り落ちる音が響く。
その部屋には、膝立ちになり腕を抑える一人の若い青年と、その青年を取り囲む複数の男たちがいた――そして、取り囲む一人の男の手には一本のナイフが握られていた。
「何故――こんなことを…」
「何故、というのは君自身が一番知っているはずだろう」
腕に走る激痛に耐えながら青年は、自身を囲う男たち――正確にはナイフを持った男の後ろに立っていた中年の男――を睨みつけながらそう問うと、その中年の男はナイフを持った男を後ろに下がらせながら青年にそう告げる。
「―――まさか、あんなことのために」
「君にとってはあんなこと、その程度のことなのかもしれないが、私たちにとってあれは重要なんだよ。私だって正直、このような手段を好んでしたいわけではない。しなくて良い手段があるというのならそれを取る――実際、今回の件もこのような事態になることを回避する方法があり、私はそれを君に提案したじゃないか。あの時、私の提案を受け入れていさえすれば、このようなことにならなかったが、君はそれを断った。つまり、このような状況を招いたのは君自身ということだ」
「あんたたちにとってしか都合のいいあんな提案――誰が呑むか」
「…君は他の者たちとは違って、もう少し物分かりの良い優秀な人間だと思っていたのだが、どうやら違っていたようだな」
「ふざけんな…俺たちが今、ここにいることができるのは、仲間たちが命を賭けて戦って、ここを守り抜いてくれたからだ――そんなあいつらを、お前たちと違って必死に戦ったあいつらのことを、『あれ』呼ばわりするんじゃねぇ」
「勿論、彼らがここを守り切ったことは表彰はさせてもらう。民衆の意識を|真実《君しか知らない本当のこと》から逸らすための表向きの理由になるし、民衆はそういった話には目がない、メディアも視聴率や発行部数を手っ取り早く稼げる万人受けする記事を求めているからね――まさに、我々にとっても彼らにとってもWin-Winというやつだ…ああ、君は例外だよ。だって君は我々にとって不都合な真実を知っている人間なのに、こちら側に来てくれないのだからね。しかし本当に残念だ、君もこちら側に来ればもっと高みを目指すことができただろうに――所詮は君も正義の味方からは脱却できなかったということか…仕方ない、やれ」
その言葉を受け、後ろに下がっていた男がその手に持ったナイフを青年に突き立てるべく、再び青年に近づこうとしたその時―――
「そう簡単に…やられてたまるかよ」
ナイフが振り下ろされるよりも早く、青年は魔方陣を展開させ―――そして消えた。
「――逃げたか、まあいい。この環境下でとっさに、しかも負傷した状態で発動した魔法であればそう遠くへは行っていないはずだろう。お前たちは急いでこの周辺の捜索を行い、見つけ次第処分しろ」
「承知いたしました。現在、奴の家に向かっている者にも逃走したことについて伝えておきます」
「それについてはそちらに任せる。無論、わかっていると思うが情報漏えいにだけはくれぐれも気を付けてくれ。現時点においては我々が優位な立場的にいるとはいえ、周りに感づかれては少々面倒だからな」
「はっ」
中年の男の周りにいた者たちは、その言葉とともに部屋を出る。
「ここで彼を仕留め損ないはしたものの、この状況から考えれば奴は受けた傷はかなりのもの…もしかしたら途中でくたばっているかもしれんな」
そして中年の男もまたそう言い残すと部屋から出て行ったのだが、男たちが部屋を出た際に差し込んだ光が映しだしたのは、水たまりのように部屋の床に広がった赤い何かであった…