第五話 氷の微笑と、心のセカイ
不可解。不可能。非現実。
そんな言葉が、ルナの頭の中をぐるぐると回った。
だって、首の切れない人間なんて、いるはずがないのだから。
「残念だったね。ほら、首って急所じゃない? だったらそこに魔法式を仕込ませて、認識阻害魔法で隠しておくなんて、当然のことだろう?」
「…………」
もちろん、ルナにだってそんなことは分かっていた。斬る直前の感触に、例の氷を感じ取ったから。その氷が、魔力を消すものだというものなら、威力が著しく低下するのも、理解できた。しかし、軍刀で斬っても、切れぬ肌など、普通に考えてあり得るはずがないのだ。
「ふふ、まだ不服そうだね。だったら一つ、私の秘密を教えようか」
敵はそう言うと、服の中からガラス管を取り出した。コルクを引き抜くと、中で紫色に発光している液体を、一思いに呑み込んだ。
ビリビリと、空気が変わるのをルナは感じた。敵の魔力が増幅していく。ただ、そこにいるだけで、地面に足を縫いつかれたかのような感覚に陥る。足が、言うことを聞かない。
「ねえ、君は私との闘いの最中も、いろんなことを考えて動いているみたいだったけど……、それはまったくの無駄だったとおもうよ?」
「貴様、何を――?」
「想像したこともないだろう? 例えば、今戦っている敵の目的が、ただの離脱だなんてことは」
引き裂かれんほどに口角を釣り上げたロックは、右腕を高く掲げた。そこには魔法式が描かれる。かつてないほどに巨大で、濃い魔力の、魔法式が。しかし、その標準は、あきらかにおかしかった。
「幻実を、消却せよ」
魔法式が青く光る。
風と共に出現したのは氷の柱であった。それは、魔法式から一直線に撃ち込まれた。ルナにもサニィにも当たらず、それは、光の壁に直撃した。
不可視の壁が、波のように揺れる。
膨れ上がる隔離魔法の障壁は、やがて硝子が割れるかのように、カシャンという音と共に破散した。
「はは、これで私は自由ってわけだ」
「させ、るか!」
ルナは地面を蹴り上げてロックへと斬りかかった。身体強化の効果は、未だ健在であった。ゴムのように弾かれた体が、風と同化するほどの速度で、敵へと迫る。
しかし、敵は心底面白そうなモノをみるような目で、笑っているだけであった。
「切り札というのはね、最後までとっておくものさ」
彼のそんな軽口が耳に入った、その瞬間。
ルナは青白い光と、巨大な魔法式を、足元に見た。
「な――っ!」
ドガァァァァアアアアアアア!
サニィの耳に入ってきたのは、幾千もの氷の槍が、礼拝堂の天井を貫く轟音であった。
温度差によって生じた白い霧が、やがて晴れる。そこには、氷に頭から足まで貫かれ、串刺しにされた主人の姿があった。目に、胸に、腕に、足に、槍は貫かれていた。再生能力があるはずの彼は、意識を失っているかのようであった。
「ルナ様! ルナ様!」
サニィが駆け寄ろうとするが、それをロックの手が阻んだ。サニィは自身に向上魔法をかけ、振り切ろうとするが、ルナの速度に適応していたロックにとっては、赤子を捻るかのように簡単に処理することができた。ロックは幼いサニィの顔面に拳を叩きこむと、そのまま首を絞めて地面に叩きつけた。鼻が折れたサニィの鼻からは、おびただしい量の、赤黒い血が流れだしていた。
「ぐ……あ……」
「君、確かに戦力としては魅力的だけど、君自身はそこまで強くないよね。さっきも大して働いていなかったし」
ロックはそう言うと、さらにサニィを地面に押し付けながら、その首を強く締め上げた。嘔吐くサニィの鳩尾に、重ねて拳を叩きつける。
「――はっ、はっ、はっ、おぇぇぇえ」
サニィは胸の中に入っていたものを吐き出すと、体を痙攣させて、視界が真白に曇っていく感覚に陥った。そして、体に施していた魔法の一つが、ぷつりと切れるのを、回避することができなかった。
「――ん?」
それは認識阻害魔法。それもある特定の部位にだけ、掛けていたものだ。
「その耳、そうか、君もエルフの一族だったのか! あっはっは! こりゃあいい! あの魔力だ。さぞ良い家の生まれなんだろう! これはいい素材が手にはいった! 『紫』も夢じゃないな!」
ロックは高らかに笑いながら、気絶したサニィを持ち上げると、ゆっくりと出口へと歩き出した。
「この子は私の開発室に連れていく。場所はここからずっと東にいったところだ。助けたいなら、そこまで来い。まあ、無理だとは思うがね」
ふはは、と笑みを浮かべながら、男は礼拝堂の出口から、行儀よく出ていくのであった。
俺が目覚めた場所は、不思議な空間であった。
故郷のような懐かしさを覚えると同時に、未開の土地に来たかのような、妙な不安も感じる。あたたかさや、心地よさを感じると同時に、冷たさや孤独を感じる場所でもあった。
そこは闇夜である。地面もなければ、空もない。そこにポツンと浮かぶように置かれた椅子に、俺は座っていた。力を入れても、歩くことはおろか、立つことすらできない。
「ああ……」
顔を上げると、真っ暗な空間に、一つだけ異様なものがあった。
それは一筋の光。星の輝き。
その光は温かくて、やさしくて、いつでも、永遠に照らしてくれそうで。
けれど、絶対に手が届かない場所に、それがあることは理解できた。
「やあ、ひさしぶりだね、ルナ。どうだい? この場所は気に入ってもらえたかな?」
ふと、星に気を取られていた俺は、後ろに立っていた存在に気づかなかった。肩に触れられて、振り返ると、そこには少女と見間違えるような美貌を持った、美少年が立っていた。
「貴様は――、」
「私の名前は『烏狩』。君の、君だけの悪魔だよ」
闇夜に溶けそうな、長くきれいな黒髪と、一本の角、漆黒の両翼をもった少年は、そう言って笑いかけた。