第二話 全てを捧げるほどに大切な人
「魔法式、限定解除」
ぼそりと呟き、何もない空間にルナは手をかざした。すると、空間に歪みが生じ、そこに人一人が通れそうな穴が空く。その穴に向かって、二人はゆっくりと歩を進めていく。
そして通り抜けた先には大きな洋館があった。場所は山の上。普通なら観光地レベルに目立つはずだが、全体を認識阻害の魔法によって結界を張っているので、一般人は認識することもできない。魔法師であっても、この洋館の建設を手伝った元部隊の仲間以外には認識できないだろう。
ルナは中に入ると、革で覆われた、赤色の、いかにもな椅子に腰をかけた。緊張を解き、ゆっくりと息を吐く。ようやく一息つけるというものだ。顔につけていた黒の仮面も外す。この仮面にも認識阻害の魔法が掛けられている。いつ、どこで敵に遭遇するかも分からないので、身元がばれるわけにはいかなかったし、緊張を解くことも許されなかったのだ。
眉間に手をあてていると、遠慮がちにとなりに並んでいたサニィも椅子に座った。
「先に風呂、入ってていいぞ。俺はまだ少しやることがあるから」
「ですが……」
「まだ遠慮してるのか? 疲れてるだろ? ゆっくり入っていいからな」
分かりました。と、律儀に応えてサニィは風呂場へと向かった。
少女がシャワーを浴びる音が聞こえてきて、ルナは懐へと手を伸ばした。黒のローブの内側ポケット。そこには懐中時計があった。
サニィには嘘を吐いてしまった。やること、なんて今日はもうない。ただ、少しだけ一人になりたかったのだ。少しだけ、過去に浸っていたかったのだ。
「ハンナ……」
懐中時計を開くと、写真が挟まれていた。そこには、戦場に行く前、八年も前の十五の自分と、隣で優しく笑う、女性の姿が白黒で印されていた。
白黒の写真でも、その色は鮮明に思い出せる。サニィとは異なる、宝石のように煌びやかな金髪。その髪は地面すれすれまで伸びている。白のワンピースを着た彼女と、照れ臭そうに笑う自分は、幸福を体現しているかのように見える。
「………………」
懐中時計を閉じ、それを抱きしめるように、胸にあてる。そのまま目を閉じる。切なさが込み上げてくる。なぜなら、その相手には二度と会うことはできないのだから。
いや、できない、というのは正しくないかもしれない。
ルナ・ヴァ―クハルトが彼女に会うことは、許されないのである。
◇
暖かな空気で満たされている。
「アレンさん、そろそろ起きてください」
重たくなった瞼を開ける。
肌身離さず、腰にさしている刀はない。服装も、高くも、安くもない。素朴な服を着ている。これは制服だ。このしがない店の、制服。けれど、肌に馴染むこの服が、俺は好きだった。だって、これは彼女が縫ってくれたものだから。
「お昼休みはもう終わりです。お客さん来てしまいますよ。掃除は済ませておきましたから」
「ああ、ごめん。迷惑かけちゃったね」
「そんな遠慮はいりません。私はあなたの妻なのですから」
彼女はそう言いながら、店の制服を恥ずかしげもなく脱ぎ始める。俺は気恥ずかしくなって目を逸らす。はあ、という溜息が、彼女の口から発せられるのが分かった。
「もう、何年一緒にいると思ってるんですか。いちいち恥ずかしがるのは止めてください」
「な、ハンナだって、その敬語の癖抜けてないじゃないか」
「これは口調だから直しようがないのです。あなたのそれは結婚してからさらに悪化しているようにも見えますよ」
「し、仕方ないだろ。ドキドキするもんはするんだから」
俺はバツが悪くなって目を逸らす。結婚、妻、といったって、俺はまだ十五歳だ。親の都合で結婚が決まって、しかも相手が好意を寄せていた幼馴染ときたもんだから、思春期真っ盛りな俺は彼女の手前、緊張の連続であった。
「はあ、あなたときたら、欲情ばかりするくせに、「そういったこと」はこれっぽっちもしようとしてくれないのは、どうしてなのかしら」
「な、なんだよ、「そういったこと」って」
「何って……、それはセッ……」
「ああ! 言わなくていい! 俺たちにそういうのはまだ早いって!」
「もう結婚して一年になるのに、早いってこともないと思いますが。あなたの行動には合理性が欠けています」
「合理性とかそういう問題じゃないの! 心の準備の問題なの!」
「あら、心の準備と言いましたら、私はとっくの昔にできていますが」
そう言って、着替え終わった彼女は不敵に笑った。俺は妙に照れ臭くなって、そそくさと立ち上がった。
「よし、じゃあ仕事に戻ろうかな!」
「仕事が終わったら、ゆっくりとお話しをしましょう、あなた」
彼女は木製の買い物籠を持って、玄関の前まで歩いた。俺は目を逸らしながら手を振る。
「行ってらっしゃい」
今日の夕食はなんだろうな、なんて呑気なことを考えながら、仕事に取り掛かった。
数週間後。
彼女は悲しそうな表情で、俺を見つめる。
たくさんの人が、俺たちを見ている。涙を浮かべる者、心の底から喜んで、笑顔を投げかける者、旗を振る者。
しかし、俺にとっては、この空間は、俺たち二人だけのものだった。
精一杯の笑顔を浮かべて、今度は彼女がこう言うのだ。
「行ってらっしゃい」
俺は、その言葉には答えられなかった。「行きたくない」なんて言葉が、喉まで出かかっていたから。
北方と南方の戦争は、激化を極めていた。
政府の招集で、俺は戦場へと駆り出された。彼女の声を聞いたのは、それが最後だった。
〇
「は、ハン、な……………」
額には大量の汗が浮かんでいる。瞼からは幾筋もの涙が流れだしていた。ルナは懐中時計を握った右手を、前に突き出していた。
「はぁ、はぁ、はっ……」
息が苦しかった。頭痛がする。視界がぐにゃりと歪んでいる。今、自分はどこにいるのか。立っているのか座っているのか、そんなことさえ分からなくなる。
「ルナ様!」
誰かに右腕を掴まれた。ルナは反射的に利き手ではない左手で腰に下げた軍刀を掴む。その瞬間、視界が明瞭になり、状況が思い起される。
「サニィ、か。すまない。また俺は……」
「私のことはいいのです。ルナ様は、大丈夫なのですか」
「問題ない。悪い夢を見ていただけだ。……その、なんだ。俺は何か言っていたか?」
「いいえ、何も」
「そうか」
ルナは懐中時計をしまうと、廊下を見た。これから湯を浴びる気にはなれなかった。
「な、なあサニィ。明日、久々の休暇だし、どこか遊びに行かないか?」
最近さらに迷惑をかけてしまっているように感じるパートナーを少しでもねぎらおうと思って放った一言であったが。
「え……? ルナ様がお出かけするというのならば、もちろん地の果てでもお供しますが。お疲れではないですか本当にいいんですか?」
望外に喜んでもらえているようだった。普段あまり表情にでないだけあって、ワクワクが分かりやすく伝わってきた。
「俺のことなら大丈夫だ。そうだな、巷で話題になってるケーキ店とかどうだ? タルトが絶品だと話には聞いたが」
「けぇき……。たると……」
子供の彼女が、さらに幼くなったみたいで微笑ましかった。ルナはついでに回る店を決めておこうと張り切って紙とペンを取り出したが、ぐらりと体を揺らしてしまった。
「相当、お疲れのようですね。今日はもうお休みになって良いのでは?」
「あ、ああ、そうだな。そうさせてもらうよ」
未だに痛みの残る頭を押さえながら、ルナはベッドへと入った。遅れて、サニィが入ってくる。ぴたりと密着してくる彼女の頭をなで、背中に手を回した。
――ああ、なんてあたたかいのだろう。
鼻を擽るような、太陽の匂いを嗅いでいるような気分だ。
さらさらと流れる彼女の髪を右手でなぞりながら、左手で抱き寄せる。
自分よりも一回りも二回りも小さな彼女に、ルナは子供のように甘えているようだった。
壊れないように。
傷つかないように。
失わないように。
ルナは彼女を優しく抱きしめた。