第十八話 たった一つの誓い
俺が生まれ、育った故郷、南方地域のもっとも北端の街「ユトピア」に、俺は戦争が終わってすぐに帰った。帰ってきたのは夜中であったが、逸る気持ちを抑えられなかった俺は、宝石店「ブルム」の、その裏側へと赴いた。
表側は店になっているが、裏側は生活スペースとなっている。
そのことを知っていた俺は、ちょうどベッドの置かれた部屋の窓から中を覗いた。
「…………え?」
そこには、彼女の他に、もう一人、横たわっている誰かがいた。それは、俺よりも、少し若いくらいの、青年であった。
その夜、俺は街の宿屋へと訪れた。そこの店主と看板娘とは知り合いであったのだが、まったく気付かれる様子もなかった。
髪色が黒く変色したこと。それと、五年による戦場での殺しの日々で、顔つきも雰囲気も、以前とは全く異なっていたからであろう。
帰ってきた軍人が宿屋に泊ることもあまり珍しくはないようで、驚かれることもなく、割引され、淡々と対応された。
俺は次の日の夕刻まで、考え続けてきた。あの男はいったい誰なのか、もしかしたら、俺が見たのは、疲れてたから目に映った幻覚ではないだろうか。
夕日が上り、オレンジの光が顔にあたったところで俺は宿屋を出た。「ブルム」には向かわずに、実家へと赴いた。
家族は、死んだはずの俺が現れると、まったく疑うこともせずに、泣いて喜んでくれた。特に妹のクレアは、「お兄様! お兄様!」と連呼しては、泣きじゃくっていた。
俺にとって、それだけが、そのときの救いであった。
父と母、そして妹とともに夕飯を食べながら、彼女……ハンナの事情について聞いた。
ハンナは、俺が戦争に行ってからも、お店の経営を続けながら、病気の母の手伝いをしていたという。ハンナは、過労で日に日にやつれていったのだと。
もちろん、俺の母や妹も、できるときに手伝いはしていたが、それにも限界があった。
魔法師の父は言わずもがな、妹は軍人魔法師の教官としての仕事が増えていき、こっちに戻らないなんてこともあったらしい。母も母で、魔法教科書の著者であったから、日々進化する魔法と、戦争という情勢のため、教科書を作るという仕事は、家事をしながらでは大変なものであった。
そうやって、ぎりぎりの状態でやってきたある日、俺の死亡通知が届いたらしい。ハンナは身体的にも精神的にも限界となり、倒れた。そういう事情があって、ハンナの父は、彼女に別の男とのお見合いを勧めた。ハンナは最後の最後まで拒否していたが、ついぞ、新しい婚約を結んだという。
最後まで話を聞いて、俺は何とも言えない感情に襲われていた。
思わず天を仰ぐ。別に、彼女は俺を裏切ったわけではなかった。
自分本位な考え方をしていたのは、むしろ俺の方であった。そんなことは分かっている。分かっているのだが、胸に立ちこめる暗雲を晴らすことはできなかった。不思議と涙は出てこなかった。
「少しだけ、一人にさせてほしい」
言って、俺は食事の席を途中で立った。父と母、妹でさえ、止めようとはしなかった。止められるわけがなかった。
◇
夜の故郷の街を、一人で歩く。都会の街で、賑わっているはずなのに、誰もいない場所に放り出されたかのような孤独感が俺を襲った。そして、一体何を間違えたのか、そんなことを考えていた。
しかし、考えても考えても、明確な間違いなど出てこなかった。強いて言うのなら、そもそも全てが間違っていた。
少しばかり歩いていると、雨が降り出した。その雨は段々と強くなり、土砂降りとなった。歩く。ひたすらに歩く。人気はどんどん少なくなってくる。雨に、自分が進むことさえ、否定されているような気がした。
「…………………くそっ」
あの時、悪魔と契約してしまったから、俺は死んだこととなり、限界だった彼女は他の男と婚姻することとなった。しかし、あのとき、俺が契約者とならなければ、俺は死んでいただろう。
だから、どんな運命を辿っても、俺は彼女とは結ばれぬ結末を迎えるのは、決まっていたようなものだったのだ。
そんな結末が決まっていたのなら……、俺だけじゃなく、彼女も傷ついていたのなら、俺は彼女と出会わなければよかったのではないか。そんな考えが消えてくれない。
思えば、あの地獄のような戦場で、彼女の存在は幾度も俺を助けてくれた。彼女と会いたい。その気持ちは何度も窮地から救ってくれた。対して俺はどうだ? 俺が戦争に行って、彼女に何かしてあげられたか。
答えは否である。俺が戦争に赴いている間、彼女は傷ついただけであった。
彼女のために何かしてあげたい。今度は、俺が、彼女のために。そういう気持ちはある。けれど、また、俺が動くことで彼女を傷つけはしないか。そんなことも考えてしまう。
ああ、目眩がする。どうすればいいのか、俺はどこに向かえばいいのか、分からなくなる。右を行っても、左を行っても、真っすぐ進んだとしても、間違いのような気がした。
「…………ん?」
立ち止まって、ふと考えた。
ここは、本当にどこだろう。
一瞬疑問が浮かんだが、「ああ」と思い出した。入り組んだ細い道、衛生的にも、ゴミが散らかっていたりと汚らしい。ここは路地裏だ。幼い頃、彼女と家を飛び出して、こんなところでかくれんぼしていたっけ。
今、考えてみると、本当に馬鹿みたいなことをしていた。こんな、あからさまに治安の悪そうな場所で子供だけで遊ぶなんて危険すぎる。小さい頃、親にこっぴどく怒られていた理由が、今になって分かった。
もう、帰ろう。こんなに強い雨が降っているのに帰って来なかったら、家族が心配する。これ以上、家族まで不安にさせるわけにはいかない。
そう思い、振りかえって、歩を進めようとした、その時である。その一瞬、その瞬間だけであった。
あの戦場で嗅いだような、人の血と腐った肉の臭いがしたのは。
「……なん、なんだ? これは……」
臭いに不信感を持ち、俺はその元を探した。その正体は、路地裏の奥の奥、その建物と建物が挟まれた側面の壁に、吊るされていた。
ざっと見積もっても二十人を超えるほどの子供の遺体が、逆さまに吊るされていた。死体の足は縄で縛ってあり、根本の部分は太い釘で壁に固定しているようだった。
この数と、遺体の腐り具合から考えると、もっとひどい臭いがしなくてはおかしかった。それに、人目につかない場所であるとはいえ、誰にも気づかれていないのは不自然であった。
つまり、こんなことができるのはよほど高度な魔法を扱える魔法師でしかないわけで。
その事実に気付くのが、俺は少しだけ遅かった。
右方から襲ってくる、巨大な蛙口に反応することができなかったのだ。
――これは、形態変化の魔法、蛙と、巨大化の重ね掛け。
喰われる寸前、俺は冷静にそんな分析をしていた。噛み千切られたって、どうせただ痛いだけだ。死にやしない。殺せるのなら、いっそ殺してくれ――、
しかし、その願いは、結局叶えられることはなかった。
パチンと鳴った指の音は、雨音にかき消されることもなく、しっかりと耳に届いた。
「よう、久しぶりだな」
聞きなれた、渋い声。見上げると、巨大な蛙の上に仁王立ちする、趣味の悪い髪の毛と髭の男がいた。
「隊長…………」
蛙の身体は黒い炎で燃え、いずれ小さくなり、人の形に戻ってから灰となって消えた。
俺の右の瞳からは、抑えていた涙が、一筋流れていた。
◇
「なるほど、な。大体事情は分かった。んで、これからお前はどうするんだ?」
俺が隊長に連れられた場所は、路地裏からそう遠くにはない、地下にある酒場であった。ワインは良さそうなものが並んでいるが、やけに埃っぽい。そして煙草臭い。ここはまともに経営している場所なのだろうか。そんな疑問が浮かぶ場所であった。
「分から、ないんです。彼女のために、何か、しないといけないような気はするんですけど……。何をすれば、彼女のためになるのか、それが分からないんです」
正直な気持ちをそのまま伝えた。自分の行動を他人に委ねるような、幼稚な発言だ。二十にもなる正真正銘の大人が言うようなことじゃないのは分かっていたが、この人に小手先は通じないと思っていたから、思ったままを告げることにしたのだ。
俺の言葉を受けた隊長は、虚をつかれたように素っ頓狂な声を上げてから応えた。
「……驚いたな。アレン、お前はまだ、その人のために動こうと思うのか? もう関係ないだろ?」
「関係があるとかないとか、そんなことこそ、俺にとっては関係のないことなんです。だって、俺は今まで、彼女に沢山の幸せをもらったから。今度は俺が返さなきゃ、そうしなければ、俺自身が、許せないんです」
彼女に助けてもらったことは多々あるけれど。やはり、思い出すのは、彼女と結婚してすぐのことだ。あんなに幸せだと思える日々は、きっともう二度と訪れないだろう。そう、思えるほどに、彼女にはあまりに多くのモノを貰いすぎた。
だから、彼女の助けになりたいと思うのだ。見返りなんていらない。彼女が幸せなら、あのときのように笑ってくれるのなら、それだけで俺は充分なのだ。
彼女の事情を知るまでは、昨日の夜、彼女の隣にいる男を見た時は、こんな風には思えなかった。けれど、今なら本気でそう思える。
問題なのは、それをどうやって実行するかなのだが――、
「お前の気持ちは分かった。なら、意志ある隊員に仕事を与えるのが、隊長の務めなのだろうな……。アレン、これを見てくれ」
そう言って、隊長は戸棚の奥から、どっさりと書類を引っ張り出した。その中の一枚を取り出し、俺の前に置いた。
「これは……?」
「これは、この街の犯罪率のデータだ。先月の分と今月の分、見比べてみろ」
そんな情報どこから得たんですか、なんて無粋なことは聞けなかった。この男は、目的のためにはなんでもするような人だというのを知っていたから。俺は言われた通り、その書類に書かれた数値を順に見ていく。
「な!? 五割増!? なんでこんなことに……!」
「戦争が、終わったからだ」
「……え?」
隊長の発言に、思わず聞き返した。その意味が、よく分からなかったから。
隊長は、俺の反応を説明待ちと見て、言葉を続けた。
「戦争が終わって一カ月。南方の、もっとも北端に位置し、もっとも栄えるこの街には、亜人も、かつて戦った軍の魔法師の多くも、ここに住むようになった。そして、そんな奴らの一部は、魔法を使った犯罪をするようになった。強盗、殺人、強制売春。それらの犯罪を、魔法を使って強行したり、隠蔽したりするようになった……。警察の魔法師たちも、完全には対応しきれていない」
「そんな、ならどうすれば……」
「そのために、俺たちがいるのさ。俺たち、「影の狩人」がね」
「影の……狩人……」
聞きなれない言葉だ。組織名のようだが、何かの、隠語だろうか。
「警察のやり方はぬる過ぎる。あんなやり方じゃあ、いつまでたってもこの街は狂ったままだ。俺たち「影の狩人」は、かつて俺の部隊に所属していた契約者、軍に所属していた優秀な魔法師で構成されている。標的を殺し、迅速に事件を解決する。事前に解決ができるなら、事件前に標的を殺し平穏を守る。闇を持って闇を討つ。ゆえに、影の狩人だ」
写真付きのリストを渡される。契約者はもちろん、魔法師も、見たことのあるような人ばかりであった。
「お前にも、俺たちに加わってほしい。言っておくが、これは命令じゃない。戦争は終わったんだ。お前が生きたい道をいけばいい」
どうする?
そう言われたとき、俺は迷わず隊長の手をとった。
許せなかったからだ。俺と、彼女が、あの戦争で傷ついて、戦ったというのに、それを荒らす存在が。疲弊から少なからず解放され、平穏な日常を歩もうとしている彼女の邪魔となる存在があることが。これから未来を生きる彼女の危険とも成り得る存在が、あることが。
だから、俺は戦うことに決めたのだ。彼女の平穏のために。彼女の幸せのために。
彼女の、未来のために。
全てを捧げるのだと、誓ったのだ。