強欲の侍女
「もうお辞めになりたいの?」
部屋の主であるお嬢様付き侍女の先輩、リリーは目を見開きパチパチさせた。
それから、「ちょっと早いんじゃない?」とマシュマロが転がるみたいに笑う。
とっても可愛いけれど、私は本気なのだ。ぐ、とドレスを握る。
「あなたこのお屋敷に来て、どれくらいだったかしら。1週間?」
「10日です。」
変わらないわよ、と先輩は椅子をこちらに寄せた。大人しく座ると、ポットの中身を静かに注いでくれる。茶葉のやさしい香りが広がった。
「何が不満なの?お給金はとても良いし、メイドや執事の皆さんも良い方ばかり。何より旦那様も奥様もとても素敵な方じゃない」
「でも、」
先輩は、茶器を持ち上げても音がしない。カップを持つ爪先はピカピカで、お嬢様の爪も驚くほど綺麗に整えられる事を知っている。先輩こそ、誰がどう見ても素敵な淑女だ。
「何よ、言ってみなさいな」
優しい声に顔を上げると、声と同じように優しい笑顔がこちらを見ていた。
それに促され、私は口を開く。
「お嬢様が…怖いんです」
紫の豊かな巻き毛に、青い宝石の採掘が自慢なこの国でも見たことがない、輝く青い瞳。
私はお嬢様の、その目が怖い。
「お、お嬢様に睨まれると、身体が竦むんです…」
目尻が吊り上がったブルーサファイアは、冷たい氷のようだ。
氷魔法が得意だと聞いて「ですよね」といたく納得した。未来の王妃、というより氷の女王と言われた方がしっくりくる、とは流石に言いすぎだろうか。言いすぎだな、とは思うが怖いものは怖いのだ。”怖い”という感情に理由なんてない。
”怖い”という最も原始的な感情を明確に説明することは難しい。
ただお嬢様に睨まれることが怖い。人に聞かれれば、わずか8歳の少女に何をと思われるかもしれないが、何度でも言ってやる。怖いものは怖いのだ。
「別に睨んではいないと思うけれど…」
「それは、先輩は私と違ってミスをしないからです!」
「あらやだ。私なんかお嬢様のドレスを破いたことだってあるわよ。」
「え?!」
「着替えを手伝うはずのドレスを踏んで、盛大に転んだの。起き上がってみれば、私が一生着れないような値段のドレスは廃屋のカーテンみたいになってたわ。」
思わず先輩の顔を凝視する。
侍女らしく、落ち着いた化粧を丁寧に施したこの完璧なレディが?
「先輩は生まれたときから完璧なんだ思ってました…」
「私は三姉妹の末っ子で、一番出来が悪かったの。このまま普通に夜会に出ていても、上流階級の方との縁談は難しいと考えた父が、"箔"を付けたいとコネを総動員させて、どうにかこちらのお屋敷の侍女にしていただけたの」
ころころと笑う淑女が、なんだって??まるで私ではないか。
あんぐりと口を開ける私に、先輩はにっこりと笑った。
「私が"完璧"に見えるのだとすれば、お嬢様のおかげだわ。」
「え」
「貴女、お屋敷に務めるのは初めてなのでしょう?辞めるのはいつでもできるけれど、伯爵家にお仕えできるなんて機会、次は無いかもしれなくてよ?もう少し頑張りなさいな。」
良い縁談の為に、と必死にこのお屋敷と私を繋いだ両親の努力を忘れるな。そう、言われているような気がして、私は恥ずかしくなった。
思わず俯くと、ぽんぽん、と優しく頭を撫でられる。
「…ドレスを破いて、お嬢様はなんて仰ったのですか?」
気になって、聞いてみる。さぞやお怒りになったのだろう、と背筋が凍るが、なんということだろう。
先輩は頬を染めて、微笑んだ。
「内緒よ」
「お姉様って呼んでいいですか」
めちゃくちゃ可愛かった。
お嬢様が倒れたのは、私がお屋敷にきて12日目のことだった。
お食事を召し上がらず、体調が悪いと早々にベッドに入られたお嬢様はそのまま熱が上がり、起き上がれなくなった。お医者様は「タチの悪い風邪だろう」と診断され、いくつかのお薬をだされた。
鋭い眼差しは瞼に隠され、お顔は真っ青なのにじんわりと汗が流れていく。眉は苦し気に寄せられ、うなされているのか時々小さく呻かれていた。
視線一つ、指先一つで侍女やメイドを動かす女王様が、まるでただの、かわいそうな8歳の少女だ。
ーお屋敷は、灯りが消えてしまったように重苦しく、物悲しい。
「このままでは旦那様と奥様まで倒れてしまうわ…」
奥様付きの侍女は、そう言って泣きそうに顔を歪めた。
旦那様と奥様は、お嬢様のお側を決して離れず、何度も声をかけ、汗を拭いて差し上げていた。
「お食事もまともに取られないのよ…」
そう嘆くメイド、そして侍女や執事は、何度も水差しやタオルをつける水桶を取り換えたり、汗で髪が張り付かないように髪をまとめたり、旦那様や奥様のお食事やお仕事の書類を運び続けた。
お嬢様が怖い。でも、もう一度あの宝石のような瞳に睨まれたい。
変態じみているが、思わずそう願ってしまうほどに、お嬢様はお辛そうだった。
屋敷に再び火が灯ったのは、3日目になってからだ。
「…水がこんなにおいしいなんて…」
丸2日、ベッドで朦朧としていたお嬢様は、3日目になってようやくご自身で水が飲めるようになった。
時間をかけて、コップ一杯の水を飲んだお嬢様は、ほう、と息をつく。
それを見守る旦那様や、奥様、メイドや侍女も一緒に息をついた。
そこからは少しずつ、身体を起こす時間が長くなり、お食事をとられるようになった。ミルクで柔らかく煮込んだパンを、煮込まずとも召し上がれるようになる頃には頬は薔薇色で、唇はうっとりするほど愛らしい桜色、ブルーサファイヤは力強くも冷たく、つまりはすっかり、いつも通りのお嬢様に戻っていた。
私の願い通り、冷たく睨まれる日々である。
目を覚まされてからのお嬢様は、ベッドの側に活けた薔薇を、よく、ぼうっと眺めておいでだった。
お嬢様の眼と髪とよく似た、青と紫の薔薇は瑞々しく美しい。
寝込まれたお嬢様へ見舞いの品として、王子殿下が贈られた薔薇をそうして眺めるお姿は、1枚の絵のようだ。婚約者の贈り物に見惚れるだなんて、まるで普通の女の子のようだなあ、などと微笑ましく思う。
そんな、お嬢様がいつも通りの生活を送るようになったある日。一人の来訪者があった。
対応をした執事は「殿下の遣いの方だ」と、1枚の手紙をお嬢様に渡すように言った。
さぞやお喜びになるだろうと、まるで自分の手柄のように喜び勇んで手紙をお渡ししたが、お嬢様は、にこりともせず「そう」と言っただけだった。聞けば、殿下の来訪を告げるものだというのに。
私はまた何かしてしまったのだろうか。
がっかりした私は、こっそりため息をついた。
さて、お嬢様の髪は、絹のように滑らかだ。
香油を使い、毎晩丁寧にとかして、朝になればクリームを使ってまとめる。
ちなみに、淡い紫色をした極上の絹に触れる、私の緊張は計り知れない。
侍女であれば誰もがそうだろうが、僅かな痛みすら与えるわけにはいかないし、お嬢様の気に入らない髪型にするわけにもいかない。
くどいようだが、私は心底あの目が怖い。お嬢様のあの目に睨まれると真冬の海に飛び込みたくなるような、無一文であろうと逃げ出したくなるような気になるのだ。あの目で見られることが無いように、死ぬ気で挑まなければならない。
戦地に赴く騎士のような気持ちで、私は髪型を考える。
と、お嬢様がため息をついた。
それに思わず肩が揺れる。視線を上げると、鏡に映ったお嬢様は眉を寄せていた。
すみません速攻でやります!すぐさま終わらせます!
ひい、と上がりそうになった悲鳴を飲み込み、思考する。
お嬢様は、顔立ちがきつ、女王のよ、冷た、凛々しくていらっしゃるので、少女らしくお可愛らしい印象にしたい。
よし、と気合いをいれた私は、上半分の髪をとり、両側を三つ編みにしてから束ねた。
リボンは、黒いベルベットにしよう。紫との対比が美しい。
でも、これだと印象が強いかもしれない。雰囲気を柔らかくしたい、とアクセサリーケースを眺め、それから目に映った青い薔薇を花瓶から抜き、タオルでしっかりと水気を取る。
お嬢様がずっと眺めていらした薔薇だ。婚約者とお会いになる日に、婚約者が贈った薔薇はぴったりではないだろうか。
水が落ちない事を確認し、青い薔薇を数本、リボンの上に差し込んだ。薔薇の青と紫の髪の淡い色を、黒いリボンが引き締める。
芸術のようなコントラストだ。なんの変哲もない茶色の髪の私には、実現のしようもない、お嬢様にしかできない美がここにあった。
お嬢様は怖いが、間違いなく絶世の美少女なのだ。
満足、というかその美しさにうっとりしながら顔を上げた。
氷漬けにされるかと思った。
弓形の眉を寄せ、氷のような青が険しい色でこちらを睨みつけている。死ぬ程怖い。
「お、お嬢様、お待たせ致しました。」
後ろ姿が正面の鏡に映るように、大きな鏡を持ち上げる。声もだが、手もちょっと震えている。情けない。
お嬢様は、鏡を睨みつけるように観察し、はあ、とまた溜息をついた。
それに、おもしろいぐらいに身体が跳ねる。
すると、お嬢様の目が、すう、と温度を下げた。
「…あなた、新米とはいえその態度はいかがなものかしら。」
さあ、と血の気が引く。
ミス、とか失敗ではなく、"私"が主を不快にさせたのだ。
「淑女たる者、感情を表に出すことなかれと、わたくしは育てられているわ。あなたもいずれは身分のある方の奥様になりたいと、我が伯爵家にきたのでしょう。ねぇ、例えば貴方の夫になる方が本音を隠して振舞っても、あなたの顔を見たら筒抜けになるんじゃ意味がないのではなくって?」
お嬢様は正しい。
反論の余地などない、完璧な正論だ。
両親や旦那様のおかげで、私はこの屋敷で暮らし、学び、お嬢様のお側にあるのに、不平不満ばかりで、ついにお嬢様を不快にさせた。
「少なくとも今の貴女と一緒に夜会に出たいとは思わないわ」
ああ、まったくもってその通りだ。
「だからってあんな言い方しなくてもいいじゃない!反論できない正論なんてもう暴力よ!!」
真っ青な顔をする私を哀れに思ったのか、いや、これ以上は仕事ができないと思ったのだろう。部屋へ戻るように侍女頭に促され、私は自室にいた。
一人で部屋にいると、悔しいやら情けないやらで、涙が止まらない。ハンカチは3枚目だ。
お嬢様は、氷の化身のような眼差しで仰った。「わたくし、必要の無い我慢は大嫌いなの。わたくしの侍女でいる事が耐えられそうになければ、お好きになさってね。」…だって!!
そりゃあ私は間抜けで無能で淑女どころか侍女の仕事すら全うできない駄目な女だけど、そんな言い方しなくたっていいじゃないか。クビならクビっていっそストレートに言ってほしい。
ひどい。あんまりだ。
辞めてやる。今度こそ辞めてやる。私の器なんてたかが知れてるのに、分不相応な縁談を望むなんて、そもそも前提がおかしいのだ。なんでこんな思いをしてまで、あるともしれない”最良の縁談”とやらの為に我慢をしなくちゃならない。親の努力とか、もう正気重い。期待が重い。自分の娘なんだから、度量くらいわかるだろう。逃げたい、逃げ出したい。
「うううう~」
ちっとも報われない。こんなに頑張ってるのに!
そろそろ4枚目のハンカチが必要だ、と思ったところで、コンコン、とふいにノックが響いた。
無様な自分を見られたくない。
無視を決め込む私をどう思ったのか、ノックの主は無遠慮にもドアを開けた。
「…大丈夫?」
それでも掛けられる声も、眼差しも、こちらを心配していることが一目瞭然で、抱えている茶器からは優しいジャスミンの香りがする。追い出すなんてできるわけもなく、私は間抜けな顔を晒した。
「せんぱい…」
「ほら、顔を拭いて。泣かないの。」
やわらかいピンクのハンカチに、優しく顔を拭われる。幼い子供のように扱われても少しも嫌な気がせず、私はえぐえぐと鼻をすすった。
「お嬢様に叱られたんですって?」
「や、やめろって、やめろっていわれましたあ」
惨めったらしく訴える私に、先輩は「お嬢様は辞めろとは仰らないわよ」と仕方ない子供を見るように笑った。
「お嬢様はご自分に厳しいように、他人にも厳しくていらっしゃるから中途半端な仕事を嫌われるけれど、努力をするものを見捨てたりなさらないわ。去っていく人間を引き止めたりしないだけ。」
でもそれって当たり前よね、と先輩は美しい指先で紅茶を淹れる。
「だって、お嬢様は私達侍女と四六時中一緒なんだもの。誰だって、自分のことを嫌う人間と一緒にいるのはつらいわ。私が家に帰ってほっとするのは、私を愛してくれる人達がいるからよ」
目の前に、静かに紅茶が置かれた。
「せんぱいは、わたしをしかりにきたんですね」
しゃくりあげながら言うと、先輩は「いいえ」と優しく微笑んだ。
「私はお嬢様が大好きだけれど、貴女の事も大好きよ。だから辞めたいと言うなら貴女が後悔しないように、続けたいというのならお嬢様を理解してほしい。それだけよ。」
自分で考えろと、自棄になるなと、穏やかに言われている気がした。
私は、先輩が置いたカップに視線を落とす。
白磁のカップから、優しい香りの湯気が上がっている。先輩は、茶器の音が私のささくれだった心を波打たせないよう、いつにもまして丁寧にお茶を淹れてくれた。カップの中身は、私が心を落ち着けられるようにと選んでくれたジャスミン。
私が何を思っているか、どう感じているかを考え、涙が止まるようにと心を尽くして用意してくれた優しさが私を包んでいる。
カップの中、紅茶に映った私は、とんでもなく不細工だ。
理解、など。
いつだって私は自分を慰めるのに必死で、自分が満足する事だけを考えていて、お嬢様を理解しようと思った事など、一度もなかったのではないか。
ねえ例えばあの時、お嬢様は何を思って薔薇を見つめていたの。
あの時、本当に私を睨んでいたの。
王子の来訪を、なぜお喜びになれなかったの。
ぜんぶぜんぶ、いつだって私が主人公だった私には何もわからない。
なんてお粗末。なんて不細工。
「わ、わたし、お嬢様と、は、はなしがしたいです。」
自分が恥ずかしくて、ぼたぼたと涙を落とす私に、先輩は「顔を洗ってからになさい」とやっぱり笑った。
お嬢様ときちんと話がしたい。
とは言っても、私はただの侍女にすぎない。冗談でも「へい、おじょうちゃん私とお茶しようぜ」なんて言える相手ではないのだ。どうすれば、とソワソワしながらお嬢様を観察する日々である。
お嬢様は、「言いすぎてごめんね」なんてしおらしい事を言わない代わりに、「出ていけ」とも仰らなかった。
私の顔を見て「まだいるの?」と嫌味の2つや3つや4つ覚悟していたのに、昨日の非礼を詫びても「なんのことかしら」と、それより早く髪を結べと催促された。
手が震えないように、声に感情がでないように、私は「はいお嬢様」と笑顔を乗せて答えた。上手にはできなかったかもしれない。
でも、お嬢様は睨むことも、ため息をつく事もなく、「よろしくね」と、なんと、小さく笑ったのだ!
少女らしさなど皆無の、悪役みた、女王のような格調高い小さな笑みだが、笑顔は笑顔だ。
私は張り切った。
やっていけるかもしれない。未来の王妃の相応しい侍女に!
と、調子に乗ったのがいけなかった。
私の目の前には、うっかり躓いたせいで葡萄ジュースまみれのドレスがあった。
なんで葡萄ジュースって?
夜会のドレスをお選びになっているお嬢様の目が静かに伏せられていたので、お疲れのようだとお声をかけたのだ。
「お飲み物をお持ちしましょうか?」
お菓子やケーキの方がいいかしら、と悩みながら問うと、お嬢様は一つ瞬きをして、ありがとう、と頷いた。お疲れのご様子だし…熱い紅茶よりもお嬢様のお好きな葡萄ジュースがいいかもしれない。
「葡萄ジュースはいかがでしょう」
「まあ、素敵」
ふ、とお嬢様は微笑まれた。やだめちゃくちゃ可愛い。
猛烈なやりがいを感じた私は、メイドを呼び、そして葡萄ジュースを受け取った。
ああ、それが。
お嬢様の持つ色彩が引き立つよう選ばれた色なのだろう、薄い氷のような、ブルーのドレス。この年の子供のものにしては珍しくリボンが少なく、小さなダイヤやパール、銀色の刺繍が大人っぽい品の良いデザインだ。そこに真っ白の大きなリボンが愛らしさを足している。
これは、お嬢様の為だけに仕立てられた、お嬢様の美しさと愛らしさを最大限に引き出す、そういうドレスだ。
紫色の大きな地図がど真ん中で主張をしていいものじゃない。
「もっ、申し訳ございません…!!!!」
死んだ。殺される。クビどころの騒ぎじゃない。我が家のお取り潰しだってありえる。
辞めたいなどと思い上がっていた私はちゃんとわかっていなかったようだが、この方は第一王子の婚約者なのだ。将来はこの国で一番偉い人、というかこの国そのものになるお方の隣に、唯一並び立つ事を許されているお方なのだ。
終わりだ。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「申し訳ございませんお嬢様!!」
床に頭を付ける私の隣で、侍女頭が同じように額をつけ、謝罪を口にした。
私はここで、ようやく、本当にようやく気が付いた。
私は、なんの責任も取れない小娘なのだ。
私が不敬を働けば責任を取るのは先輩で、侍女頭で、お父様やお母様だ。私は自分のしでかした事の責任すら取れないのに、こんな、
「悪いのはわたくしよ」
透き通った声が言った。
「アマンダの体調が悪いことに気が付いていたのに、知らないふりをしていたの。転んでしまうほど、熱が高いのではなくて?」
アマンダって誰だ。私だ。
お嬢様は私の名前を覚えていらっしゃった?え?体調が悪い?熱?誰が?……私が?
毛足の長い絨毯を、目を見開いて眺めてしまう。
瞬きすらできない私に、お嬢様が続けた。
「アマンダ、無理をしなくていいわ。部屋で休みなさい。マクロエラ、丁度新しいドレスが欲しかったの。ルシエラを呼んで。それから、侍女に無理をさせたとお母様に知られたら叱られてしまうから、今日の事は内緒にしておいてね」
ルシエラって、あの、今をときめく超人気デザイナーだよね?依頼は数年待ちって聞いたけど?!
え、待って部屋で休めって、え、内緒って???
わからないことだらけだけれど、なんでもないように言うお嬢様が私を庇ってくださった事だけは流石にわかって、だから、だから、
だから
「ねぇ、やっぱりこのドレス、派手すぎじゃないかしら?」
「いいえ。貴女様は王妃になられるお方。そして強欲と呼ばれたご令嬢ですもの。どちらかと言えば地味なくらいですわ。」
貴女本当に言うようになったわね、と半眼でこちらを見たお嬢様は、鏡をもう一度見て「それより」と眉を寄せる。
「地味?それはマズイわ…ねぇ、やっぱり」
「どちらかと言えば、です。どうぞ自信を持ってください。お嬢様の為だけに、あのルシエラ様がおつくりになったドレスですもの」
キラキラと輝くペリドットのネックレスを後ろで留めながら言うと、鏡の中のお嬢様のお顔が緩んだ。
「…そうね」
くすぐったそうに笑うお嬢様は、出会った8歳のころよりもずっと、少女のようだ。
大変なのはきっとこれからで、今日はお嬢様にとっての新しいスタートかもしれない。でも、今までで一番お嬢様は幸せそうで、自信に満ちていて、幼い少女のように愛らしかった。
ああ、”お嬢様”とお呼びするのも今日が最後だ、と思うと視界が揺れる。
涙が零れそうになるのは、感情を抑えることがこんなにも難しいのは、何年ぶりだろう。
「…お嬢様」
「なあに、アマンダ。」
「…どうしてあの時、私をお見捨てにならなかったのでしょうか」
「…あの時?」
一体いつの話だ、と首を傾げられて、いつだろう、と思う。
辞めたいと泣き言を言っていた時。直接しかられた時。ドレスを台無しにした時。懲りずに失敗を重ねた時。
指折り数えればキリがない。どれとも言えず黙りこんでしまうと、お嬢様はふん、と鼻を鳴らした。
「わたくしのセリフだわ。あれだけ嫌々仕事をしていたのに、結婚が決まっても出産をしても辞めなかったのだもの。あなたこそ、どうして強欲な我儘令嬢を見捨てなかったのかしら?」
「……」
べつに、嫌々仕事をしていたわけではない。
ただただ怖かっただけだ。
今思えば、8歳の少女に完璧な主を求める方がどうかしている。私はきっと、「やっぱり駄目だ」と思い知る事が、そう思われる事が怖かったのだ。
「…私の方こそ、なんて我儘だったのかと、恥じています。」
だって、貴女はそれでも、完璧であろうといつだってもがいていたのに。
「…私、知ろうともしていませんでした。お嬢様が毎日、何時間も勉強をなさっていた事。ご自身が納得いくまで、何十時間も何週間も、王家の図案を刺繍していた事。捻挫してもダンスの練習を止めなかった事。お嬢様が、完璧な伯爵令嬢になろうと努力をしていた事も、王妃教育を必死でこなしていらっしゃった事も、まるで知ろうとしていなかったのです。」
私の努力なんて、お嬢様の努力に比べたらゴミみたいなものだった。努力とすら呼べない中途半端なものだった。
後悔に震える私に、お嬢様はまたフン、と鼻を鳴らした。
「馬鹿ね。知られないようにしていたのよ。」
「…それはまた、なぜでしょう。」
お嬢様は、水を注いだグラスを受け取りながら、今度はくすりと笑う。私が大好きな、女王の笑みだ。
「その方がカッコいいじゃない。」
なんだそれ。
思わず笑ってしまうと、ノックの音が響いた。
侍女仲間がドアを開ける為に移動するのを眺めながら、呪文を唱える。花と苺を浮かべた水を冷やそうと、私が最も得意な氷魔法を、デキャンタにかけた。
なんとびっくり。
お嬢様に倣って魔法を真面目に学び始めると、笑えることに私も氷魔法が得意だったのだ。あの日の複雑な感動は忘れられない。
お嬢様と違って、こまめに魔法をかけないとあっという間にぬるくなってしまう程度の魔法しか遣えないけれど、それなりに役に立つので気に入っている。
「あら、ルシエラどこに行っていた、の…」
不自然に止まったお嬢様の言葉になんだろうと顔を上げると、きらびやかな集団がそこにいた。
先頭にいるのは、流行を生み出すマジシャンと呼ばれる超絶人気デザイナー、ルシエラ様だ。毛先が青い、ブルネットの髪が華やかな美女は、「みんなを連れてまいりましたの」と微笑んだ。
「私たちのお嬢様の結婚式ですもの。みんな思いはひとしおですのよ。」
ふふ、と笑うルシエラ様は心底嬉しそうだ。
「侍女だったあの日、お嬢様が夢を応援してくださったから今の仕事ができているし、お嬢様がいつも私のドレスを着てくださったから、一流の仲間入りができたんだもの。感謝してもしたりないわ。」
ルシエラ様はそう言うと、真っ白のドレスに身を包んだお嬢様をうっとりと眺めた。
すると、ブロンドの髪を複雑に編み込んだ優しい目の夫人が、歩み出てゆっくりと頭を下げる。
ああ、その美貌も、仕草も、昔と何一つ変わらない。
「ご無沙汰しております、お嬢様。ああ、本当にお美しい…」
顔を上げた彼女には、大粒の涙が浮かんでいる。お嬢様は、立ち上がって両手を取った。
「リリー…。来てくれたのね。」
一緒にお嬢様にお仕えしていたかつての先輩は、勿論です、と涙を零した。
「お嬢様のおかげで、今や私も騎士団長の妻ですもの。義弟がお嬢様のお側にいれて、私がいないなんておかしいわ。」
ふふ、と美しく笑う先輩は、殿下やレイモンド様と一緒に伯爵家に来られた騎士団長と恋に落ち、3児の母になった。暴れん坊の天使たちを育てながら通いの仕事はさすがにつらいと、数年前にお嬢様のお側を離れたのだ。最後まで名残惜しそうに、愛おしそうに、お嬢様を見詰めていた瞳が、忘れられない。
私は、淡いピンク色のハンカチを、そっと先輩に差し出した。先輩はそれを受け取って、顔をほころばせる。
「…立派になったわね。」
「…先輩と同じです。努力を欠かさないお嬢様に、王妃に、相応しい侍女になりたいと、いちから本気で学び直しました。ーお嬢様のおかげです。」
ふふ、と笑う私もこう見えて文官の妻である。
殿下やレイモンド様ほどのイケメンじゃないけれど、そこそこのイケメンで、家柄はとびきり良くて、お嬢様の侍女として働くことを許してくれる、最高に器のデカい旦那様だ。のんびり生きていたあの頃であれば、こんな良縁には巡り合えなかっただろう。
先輩は、「だから言ったでしょう」とばかりに得意げに笑った。
再会に喜ぶ私達の隣では、お嬢様がルシエラ様とルーカスと笑いあっている。
…って!ちょっと待って!そのひとはまずいって!!!
「なぜルーカス様が?ここが何処かご存知ですか」
いやいや冷静に冷静に、と私は胸中で何度も唱えてその男と向き合う。
短く刈ったダークブロンドに、彫の深い顔立ち。一目で鍛えられている事がわかる、長い手足に人懐こい笑顔。手っ取り早く言えば、ワイルドなイケメン。騎士団のメンバーにいそうな彼は、驚くことなかれ。宝石の加工職人だ。
「花嫁の控室だろ。俺の最高傑作の完成を見に来ちゃ悪いのかよ」
首をすくめておどけるルーカスに、殺意が沸きそうだ。
「…完成を見ていないわけがないでしょう。貴方が完成したとお持ちになったネックレスとピアスを、お嬢様は身に着けておいでなのですよ。」
ぶん殴るぞこの野郎、とねめつけるように言うと、ルーカスは「おい、冗談だろ」と笑った。
捩じり上げるぞ。
「アクセサリーは、身に着けてこそだ。しかもこれは、お嬢様の為だけに俺が加工し、お嬢様と編み出した魔法をかけ、お嬢様が最高の美人になるようデザインしたものだ。いいか?つまり、お嬢様の耳に、首にあって初めて完成するんだぜ?芸術家の気持ちがわからないのかよ。大体、お嬢様のおかげで今や緑の宝石もこの国の名産の一つだぞ。次はピンクの宝石をつくろうかと思っているところなんだ。礼くらい言わせてくれ。」
「礼なら宝石をお持ちになった時に済んでいるでしょう。」
おしゃべりなこの男がお嬢様にあまりに馴れ馴れしくするものだから、私は頭を引っぱたきそうになる自分を抑えるのに苦労したのだ。
魔王が来たりてブリザードをふかしたらどうしてくれる。
お嬢様のお怒りモードの眼差しを再現できるよう、つとめて冷静に。怒りを込めて、ルーカスを睨みつけてやる。
「夫となる方より貴方が先に此処にいる事が問題なのですよ。こんなところをあの方に見られたら」
「誰に見られたら困るんだ?」
あ、終わった。
終わった終わった。終了ですよ。
いつの間にそこにいたのか、飛び込んできた美声に背筋が凍る。
腰がくだけるような甘い、歌うような響きを、私は知っている。そこらのお嬢様方であれば歓喜の悲鳴を上げて失神するところだろうが、舐めてもらっちゃ困る。伊達にお嬢様の侍女をしていない。
私は知っている。
これは、怒って、いらっしゃる。
「やあ、ルシエラにリリー。久しぶりだね?」
「王子殿下に置かれましてはご機嫌麗しゅう。」
「本日の良き日にお招きいただき、恐悦至極に存じます。」
表情が無いのに声が優しいのが心底怖い。ルシエラ様と先輩は、顔色一つ変えず優雅にお辞儀をしてみせ、「それでは」と扉を目指しやがった。え、うそ置いて行かないで。
裏切者!と気持ちを込めて二人にお辞儀をすると、で?と無条理な声が響いた。
「君は、誰かな?」
やっだ知ってるくせに☆とか言ってはいけない。お嬢様とこの男が、一緒に宝石の加工についてあれやこれやとやり取りするようになってから、ずいぶんと気を揉まれていると存じ上げておりますよ。とかも言ってはいけない。
ルーカスは、殿下に視線を向けられ、一瞬眉を寄せたがニヤリと笑った。
「加工からアクセサリーの作成まで宝石に関することはなんでもござれ。加工職人のルーカス・チェイスと申します、殿下」
こいつ神経荒縄か。
「作品は間違いなく史上最高の傑作だ。満足したので私は帰りますよ。」
ルーカスは、女子が我を失いそうな素敵な笑顔をお嬢様に送り、丁寧に一礼をして背を向けた。
「じゃあなフィーネ」と、とんでもない爆弾を落として。
あいつ神経有刺鉄線か。
さてここで居たたまれないのは、私達現役侍女である。
退室しろと言ってもらえないかなー、とちらりとお二人を見ても無駄であることは経験上知っている。すでに二人の世界だ。
「フィーネ?」
「彼の悪ふざけですわ。」
へえ、って何その声怖い怖い怖い。冷たいのに甘い、とんでもなくセクシーなのに凄く邪悪だ。
怪物かな?
対するお嬢様は、冷静だ。
いつもと変わらぬ涼しいお顔。それどころか、うっすらと唇は弧を描いている。
「結婚式間際に言うことが、男の話ですの?その前に言うことがあるのではなくって?」
やだめっちゃ可愛い。
氷の美貌そのままなのに、甘えるような、でもツン、とした声が可愛い。ギャップがたまらない。
さすがの殿下もこれはクリーンヒットだろう。
お嬢様の策だとわかっていても、いろんな意味で抗えないはずだ。
「…世界で一番、綺麗だ」
お嬢様にもクリーンヒットだった。見事なカウンターだ。
悔しいのか、お嬢様はぷいと顔を逸らす。"可愛い"が爆発しそうだ。
純白のドレスに包まれたお嬢様の腰をそっと抱く殿下は、これといって表情を浮かべているわけではないのに、この上なく嬉しそうなのが伝わってくる。もうなんか色々抑えられないのかもしれない。お互いがお互いを溺愛しまくってるカップルなので。
二人の謎な意地の張り合い、殿下曰く"悪戯"は、大概が殿下から仕掛けられるじゃれあいだ。
「フィリア」
小さく、殿下が何度か名前を呼ぶと、お嬢様は”渋々”といった仕草で視線を合わせた。
殿下はそれに満足そうに眼を細め、愛を歌うように囁く。
「緑の薔薇を用意したんだ。君こそ、言うことがあるんじゃないか?」
お嬢様は、一度だけ目を大きくして、
それからにんまりと猫のように笑った。
愛されるために生まれてきた上等な猫のように、シニカルでまろい笑み。
「式まで待てない悪戯ボウヤには、まだ早いわ。」
殿下は、
嘘みたいに、口をへの字に曲げた。
私達のいる場所で、殿下が表情を変えるのはとても珍しい。敗北に彩られた不満そうな顔は、確かに子供のようだった。
そして、お嬢様は、その扉の前で殿下と並び立つ。
長く広がるドレスの裾を整え、私は立ち上がった。
長い睫毛に彩られたお嬢様のブルーサファイアは、緊張と喜びを浮かべている。お嬢様が何年も何年も努力を続け、そうして掴み取った未来へ続く扉だ。
あの頃の私なら、ここにいることはなかっただろう。
あの頃の私なら、今、お嬢様がどんなに必死な思いで立っていらっしゃるのか、わからなかっただろう。
私はもっと知りたい。
お嬢様が、どんな王妃になるのか。お嬢様が殿下と導いてくださるこの国は、どんな景色なのか。
「…フィーネリア様」
お嬢様は、静かにこちらを見て、ゆっくりと瞬きをした。
この、一瞬。
「私、姫と王子の御子様のお世話までさせていただきますからね。」
鋭いブルーサファイアが瞬き、優しく細められる、
奇跡のように美しい一瞬。
この一瞬を、最後まで見ていたい。
世界一素敵な旦那様と子供に恵まれて尚、私は恋をするようにお嬢様を想う。
「私、強欲な侍女なんです。」
欲深でない女など、人間など、この世にいるものか。
その日、大勢に祝福され、強欲の令嬢は王子の妃になった。