僕の相棒
そいつはまだ僕が小さいの時に家にやってきたらしい。
元気でよく鳴く、まん丸お目目の可愛いやつだ。
僕は小さかったからその時の記憶はあまり無いけれど、まだ小さいのにお兄ちゃんみたいに頑張って世話をしようとしていたって後から聞かされた。
まぁ母の言ってることも間違いではない。
まるで本当の兄弟のように生まれた時から一緒に過ごして来たんだから。
僕もそいつも一緒に大きくなった。
身体の大きさは違うけど、それでも同じように成長した。
食べ物を散らかして怒られたり、追いかけっこしているうちに物を壊して怒られたり、一緒におねしょをして怒られたり…
そうやって怒られた後、そいつや僕はよく落ち込んだものだ。
その度に、僕はそいつに声をかける。
そうしたらそいつは少し嬉しそうにするからだ。
このやりとりは僕たちの中で定番のものとなっていた。
だけど何も怒られるばかりじゃない。
僕たちにも楽しい定番はあった。
それは散歩だ。
そいつは大の散歩好きだった。
毎日毎日散歩散歩と言うものだから、父は僕に頼んだぞ、と言ってよくそいつの散歩に駆り出されたものだ。
疲れ知らずで決まったルートもなく好きに歩き回るものだから、それはもう振り回されて大変だった。
草むらに入れば虫を捕まえて来て僕に見せびらかすし、水溜りを見つければ構わず踏み抜き、落ち葉が積もっていればその山に飛び込む。
雪なんて降った日にはもう大変だ。
そうやって僕たちはこの街の至る所を練り歩いた。
今日見つけたもの以外を見つけるために。
明日はもっと楽しい発見があるはずだと。
この街一つなんて大人からすれば小さな世界かもしれないが、僕たちは数え切れない冒険をし、発見をし、そして色んなものに出会った。
正直、この日課は大変だった。
僕もそこまで身体が大きくないから、そいつを制御するにも一苦労だったからだ。
それでも、そいつの楽しそうな顔を見てると嫌にはなれなかった。
いや、むしろそんな大変さを僕はいつしか手放せなくなっていた。
そしてそれは僕の家族も同じように感じていたようだ。
母も父もそいつも家族が一緒にいる時は本当に幸せそうにしていた。
いつも優しい母も、仕事で忙しくて大変な父も、決まってこう言うんだ。
お前たちが家に来てくれたから母さんも父さんもどれだけ大変でも頑張れるし、自然と笑顔が溢れてくるんだ。本当にありがとう。
僕はその時の家族の表情が大好きだった。
とても暖かくて、まるで一枚の写真のようにその風景は僕の頭に刻み込まれていた。
嬉しくて、楽しくて、こんな日々がずっと続けばいいのに。
そう思いながら僕たちは沢山の時を過ごした。
そうして気付けば僕は11歳なっていた。そして丁度その頃、そいつは急に足がふらつきだし、ぐったりとしてしまった。
母はすぐそいつを病院に連れて行くと支度を始めた。
僕も付いて行こうとしたが、母に家で待っているように言われた。
暫く食い下がっていたが、母の意思は堅く、なによりそいつのためにならないので、仕方なく留守番をしていることにした。
正直家で待っている間は地獄だった。
いつも元気で走り回っているそいつが倒れるなんて夢にも思わなかった。
母に連れて行かれるそいつを思い出す度に胸が締め付けられる。
あんな姿見たくなかった。
いつも元気を吸われているんじゃないかと思うほどだったのに、あの時のそいつは四肢を投げ出してまるで壊れた人形のようだった。
母が帰ってくるまでの間、何度も何度も廊下と部屋を行き来した。
母は気を紛らわすために僕の大好きなおやつを置いていってくれたが、全く喉を通らない。
寝ようともしたが、全く落ち着かない。
全身が寒い。
どっちが病気になったのかわからないぐらいに、僕は焦燥感に襲われていた。
そうして数え切れないほどの往復を繰り返した廊下にエンジンの音が響く。
僕は思わず部屋のドアを蹴破りそうな勢いで玄関を目指す。
結果を知って安堵したい気持ちと、結果を知ることによって理不尽に打ちのめされるかもしれないという不安の気持ちが入り混じった状態で玄関のドアの前に立つ。
もうこの時にはエンジンの音なのか自分の
心臓の音なのかが判断できなくなっていた。
そして玄関が開かれた時、僕は連れて行かれた時と同じ姿をしているそいつに思わず後退りする。
玄関で震えている僕を見て母は口を開いた。
大丈夫。
ちゃんと治るから。
そう言って優しく僕に笑いかけた。
僕は本当にぺたっという音を立ててその場に崩れ落ちた。
状態は違うが、そいつも僕も同じように四肢を投げ出していた。
母が僕に声をかけるまで気を張りすぎていて気が付かなかったが、よく見ればだらんとはしているが表情は穏やかだった。
薬がしっかり効いて寝ているだけのようだ。
そんな安心しきった僕を見て母はこう続けた。
ずっと元気だったから大丈夫かと思っていたけど、こうなってもおかしくない歳だった、でもこれはちゃんと治るから大丈夫、と。
その言葉を聞いて段々と足の力が戻ってきた僕は、寝床に移されたそいつの顔を覗きに行った。
倒れた時とは打って変わって幸せそうな顔をして寝ている。
本当に手のかかるやつだ。
僕は小さくため息をつきながらそいつの横を陣取る。
いつもと同じような顔に戻ってきているそいつを見て、僕はまたそいつと楽しい日常に戻れるんだと、今までの日々を噛み締めながら眠りについた。
しばらく経った後、母の言った通りにそいつはいつもの元気を取り戻した。
またいつもの日常が始まる。
散歩散歩とはしゃぐそいつを見ていつも通り父は僕に声をかける。
仕方ないなと立ち上がった僕はその笑顔の下へと向か––––
あれ。
急にそいつの笑顔が消える。
ドスッという衝撃と共に左半身に冷たさを感じる。
何が起きたかよくわからないが、この目はそいつの顔だけをずっと捉えていた。
そいつの目にどんどん水が溜まっていく。
やめてくれ。
僕はもうそんな顔を見たくないんだ。
だから早くそいつのもとへ行かないと。
あれ。
後脚が動かない。
前脚もピクリともしない。
尻尾も口も鼻も何一つ動かない。
そいつの母と父を呼ぶ声を聞いて僕は理解した。
そうか、僕はもう。
そいつと僕では同じ様に生きられない。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
だけどその時が来て初めて強くこう思ったんだ。
僕もそいつと同じ––––
◇
目が覚めた時には真っ白な部屋の中にいた。
ここはどこなんだろう。
何があったのだろう。
ぼんやりとした意識の中、記憶の糸を辿ろうとする。
何か長い、長い夢を見ていた気がする。
本当に気がしただけで、その記憶も即座に霧散してしまう。
周りから情報を得ようと僅かに開いた瞼から周囲を見渡してみると、先程は気が付かなかったが、どうやら何か透明な箱に入れられているらしい。
遠くからピッ、ピッ、と一定のリズムを刻む音がするような気がする。
口にも何か着けられている感覚がする。
そう、感覚だ。
僕は徐々に僕を取り戻す。
霧がかかっていた記憶も晴れてくる。
そして浮かび上がってきたのは悲痛な顔をしている––
そうだ。
僕は倒れたんだ。
だからあいつはあんな顔をしたんだ。
なら早く立ち上がらないと。
だが、僕の身体はその想いに何一つ応えてくれなかった。
身体が全く動かない。
何度強く命じても、まるで自分の身体ではないように黙りこくっている。
しかし幸運にも先程から動かし続けている目だけはまだ僕の身体であってくれていた。
少ししか開いていない瞼をもう少し開くだけでも途轍もない疲労感があった。
だけどそれでも動く。
動くのなら動かさないと。
いつこの目も僕の身体じゃなくなるか分からないから。
そうして渾身の力で部屋を見渡しているとそいつと目があった。
そいつはまたすぐに涙を浮かべ、大声で母と父を呼びに行く。
3つの足音が大きく音を立てて近付いてくる。
一番最初に覗き込んで来たのは強くて逞しい人影。
父だ。
いつも大きな声で力強く笑って、僕たちの生活を支え続けてくれた、そしてなにより僕を選んでくれたのも父だった。
そいつが大きくなるまではよく遊んでもらっていた。
やはり血筋だろうか、父はそいつと同じように僕と遊ぶ時はまるで子供の様だった。
やがて僕たちは成長して、父に悪戯をして遊ぶ様になったが、いつも笑って相手をしてくれていた。だけど、本当に危ない時は真剣に怒ってくれる、僕たちの規範。
そんな父が今では頼りなさそうに顔を歪めながら僕の方を見ている。
違うんだ。
僕が見たいのは。
次に顔を覗かせたのは母だ。
いつも優しくて、暖かい、月並みだけどそんな母。
物腰が柔らかくて、僕に話しかける時はいつも身を屈めてくれる。
気遣いに溢れていて、人の心を1番に考えている。
何があったとしても母の腕に包まれれば、全てが優しくなる。
そいつはよく母に抱きしめられて幸せそうに寝ていた。
僕も一緒に寝ることがあったが、そこは本当に幸せな場所だった。
そんな母が今は表情を強張らせ、一瞬足りとも見逃すまいと、しっかりとした視線をこちらに向けている。
そうしていなければならないと、自分を縛り付けているように。
違うんだ。
違うんだ、僕は。
最後に顔を覗かせたのはそいつだった。
一瞬誰だか分からないくらいに顔を変形させて僕を呼んでいる。
声も途切れ途切れで何を言っているのか余り分からない。
段々と意識も朦朧として来たのかもしれない。
今までの思い出が頭をよぎる。
そいつとは、本当に色々あった。
沢山の時間を共に過ごしたはずなのに、今となっては昨日のことのように感じる。
永遠であれば良いのにと思った日々ももう終わりを迎える。
それは僕が一番よく分かっている。
こればかりは、どうしようもない。
生きている以上、どうしようもないことは必ずある。
だけど。
だけど、抗えることだってある。
だから僕は。
僕は。
最後の精一杯の力を振り絞って小さく吠えた。
そよ風に掻き消されそうなほど小さな声。
実際父と母には届かなかった。
だけどそいつは。
そいつだけは僕の声をしっかりと捉えていた。
そいつは驚いたような顔をして、泣くのをやめた。
そして何かを理解したような顔をした後、涙を拭い、強い目で僕に頷いた。
そいつはすぐさま父と母の口に両手の人差し指を入れ、横に引っ張る。
困惑する父と母だが、そいつは僕を指差して必死に訴える。
笑って。
あいつはそうして欲しがっている。
あいつはそう言ったんだ。
震えが止まらず、途切れ途切れの声で必死に訴える。
俺みたいに、笑って。
そういってさっきまでへの字だった口を無理矢理上へ向ける。
父と母は目を点にして僕を見る。
そいつは必死に頑張ったんだ。
今だって耐えきれずに何度も口がへの字に戻ってしまっているけれど、それでも諦めずに何度も必死に上へ向けようとしている。
僕がそれに答えないわけにはいかない。
だから。
後一言だけ。
ーーー。
きっと他の人が見れば今のこの風景は切り取った写真のように何も変わっていないように見えたかもしれない。
しかし、十数年間共に生きてきた家族ならば。
あらゆる感情を共有するように過ごした家族ならば。
一緒にいるだけで幸せで大切で大好きな家族ならば。
その瞬間は何よりも鮮やかで強い想いが駆け巡ったように感じたはずだ。
本当は声なんて出ていなかったのかも知れない。
僅かに口が動いただけなのかも知れない。
けれども、僕の家族全員を決意させるには十分だった。
あの情けない顔をしていた父も。
強張った顔で僕を見つめていた母も。
顔をぐしゃぐしゃにして僕を呼んでいたそいつも。
お互いの顔を強く見つめ合い、一度頷くと一斉に僕の方を向いた。
そこにあったのは
あぁ。
まるであの時の。
君だけが。
君だけが僕の想いを拾い上げてくれた。
やっぱり君は僕の最高のー
◇
あいつがいなくなって6年。
俺は進学校に進学し、学年順位で1桁台を取るほどに勉学に励んでいた。
俺の夢はなんて言ったって医者になることだから。
医者といっても人間のじゃない。
動物のお医者さん、獣医だ。
あの出来事がきっかけではあったけど、元から俺は動物が好きだった。
だからこそ今、獣医への道を歩めていることがとても嬉しいんだ。
何年かかるか分からないけれど、必ず獣医になって、多くの動物たちを助けたい。
少しでもあいつに受けた恩を返すために。
これから俺たちと同じ道を辿るであろう多くの人々や動物たちのために。
どんな病気でも必ず治せるように、なんて傲慢なことは言わない。
もちろん可能な限りの努力は惜しまない。
けれどもこの世の中にはどれだけ努力してもどうしようもないこともある。
どうしようもないことはあるけれど、抗えることだってある。
だからこそ少しでも長く。
1秒でも長く一緒に居られるように。
そのわずかな時間が、家族にとっては永遠の時間になるはずだから。
そんな想いを胸に、俺は見慣れた帰路に着く。
あいつには色々迷惑をかけたものだ。
この辺り一帯をいつも連れ回してたっけ。
街の風景は少しずつ変わって行っているけれど、この街の至る所に記されたあいつと過ごした記憶の跡が見つかる。
万物は流転する、そんな言葉があるように、変わらないものは何一つない。
あいつとの記憶も時間が経てばもしかしたら実際のものとは違いが出るのかも知れない。
だけど、形は変われどこの暖かい繋がりだけは、俺の心にしっかりと絆という楔で打ち込まれている。
それほどにもあいつは俺の一部だった。
それほどにも俺はあいつの一部だった。
そうして記憶の跡を追う内にその跡が一番刻み込まれた場所に辿り着く。
ただいま。
そういってドアを開くが、俺の声は反響するばかりだった。
俺の親は共働きだから、帰った時に誰もいないのは珍しくない。
だけど、未だに違和感を覚える時がある。
この家に反響する音が一つであることに。
そんな思いを横目に、俺は居間のドアを開ける。
街と違って変わっていないはずのこの場所だけど、変わってしまった街よりも大きく違って見える。
そう見えてしまう自分が一番変わっていないという滑稽さに少し笑いながら軽くため息をつく。
冷蔵庫の冷えたお茶で喉を潤し、キッチンから居間を眺める。
そんなことを考えていたからか、少し昔のことを思い出す。
普通の人にとっては自宅の居間は取り立てて特別な場所ではないと思う。
俺も普段はそうだった。
だけど、俺にとって特別になる時があった。
それは病気になった時。
いつもは自分の部屋で寝ているのだが、病気になった時はここに布団を敷いて寝込んでいた。
身体は辛いけど、なぜかその特別感が好きで、むしろ楽しみでもあった。
俺が遅めの麻疹にかかって倒れた時も、勿論ここで寝込んでいた。
流石にその時は楽しむ余裕はなかったけど、あいつがずっと一緒にいてくれた。
暖かかった。
苦しかったが幸せでもあった複雑な時間だった。
そんな風に回想している間にコップに注いだお茶も飲み干してしまった。
俺はまた一つため息をつき、自分の部屋へ荷物を置きに行った。
鞄を机のそばの床に置き、机に向き直る。
そこには開きっぱなしになっている参考書が机中に散らばっていた。
俺は今でこそ学力もそこそこある方になったが、別に元々頭が良い訳でもない。
だからこそこういったところで巻き返すしかないのだ。
正直ちょっと気が重いところもある。
凡人が医者になるのは並大抵の努力ではない。
あれだけのことがあったのに未だに踏み留まりそうになることもある。
だけどその度に、無意識に俺は誰かに背中を押された気分になる。
きっとこの家が。
きっとこの家に刻み込まれたあいつとの記憶が。
俺を後押ししてくれている。
いや、俺を引っ張って歩いてくれている。
まるであの時と真逆だな、と思い、俺は少し笑った。
深く深呼吸をすると俺はいつものように席に着く。
散らばっている参考書を並べ直し、ノートを開く。
そして頬を両手で挟み込み、気合を入れ、机と向き合う。
きっと俺はこの夢を叶えることができるだろう。
俺にはあいつがいるから。
あいつとなら叶えられる。
そう強く確信している。
だってあいつは。
俺の最高の相棒なんだから。