欠けた器のレゾンデートル
ふと、思い立って普段面倒臭がってやらない掃除をしていたら、流しの下から欠けたコップが出て来た。
なぜ取ってあるのか、という疑問はむしろ私が聞きたいくらいで、特に思い入れがあるわけでもなく精々実家にいた頃から使っていたという程度だ。
器と言えばまだニコニコ動画が隆盛期だった頃にご飯がない事を少しずつ訴えかけてくる猫という動画があった。
これ自体はタイトル通りに肥満の猫が空っぽの銀の皿を主張しているだけの動画だが、これの子作品としてこの動画に投稿されていた哲学者風味に猫の主張を意訳したコメントをアテレコした作品があり、声の独特さも相俟って非常に笑える作品だったと記憶している。
その台詞の中に器のレゾンデートルという台詞があった。
器のレゾンデートル、存在理由とは物を満たす事であり、存在理由を満たすべきという猫の主張、つまり銀の皿に飯を盛れという遠回しな要求の中で出て来た言葉だ。
……では欠けてしまって物を満たすことが出来ないコップの存在理由は失われてしまったのだろうか。
全ての欠けた器に存在理由がないかと考えるとそれは違うと思う。
欠けたら欠けたで砕いてモザイクの破片にしたり、また昔の窯業跡の斜面に捨てられた失敗作の器は博物学的な価値も持つからだ。
しかしながらそれらは器としての存在理由ではなく、器が欠ける事で生じた陶片や、失敗作として利用される事なく残された遺物としての存在理由だ。
やはり器としての存在理由は消失しているだろう。
そして、器としての終わりと同時に陶片として、あるいは遺物としての存在理由が発生したという考え方ができる。
レゾンデートルとは調べてみるとそもそも自分自身の在り方について考える事から生じて来た言葉らしい。
なので翻って人間について思索を膨らませてみると欠けた器と同様に、死んだ人も人としての存在理由を失い、新たに死人として、より具体的に言えば死体として、あるいは語られる故人としての存在理由を持つようになっているのかもしれない。
語られる故人としての存在理由というのはそのものつまり彼らが生きていた頃の話が伝播し、他の人々へ影響を及ぼすことだと私は考える。
自由は死せずとは誰の言葉だったか。当人が言った言葉ではないという話もあるが、死人に口なし、語られる故人としては当人が言ったことにしておいた方が話題性や訴求力があり、より存在理由に沿った力を発揮できて好都合なのかもしれない。
語られるのは何も故人だけの話ではない。当然生きていても語られる局面はあるだろうし、もっと言えば実在しない個人達はここなろうで日々誕生し続けて数々の物語を生んでいる。
非実在人物は人権も持たないしそれ自体は思考する事も意志を表明する事もないのだから人としての存在理由を満たす事も出来ないが、彼らを動かす語り部にはこう生きて欲しいという意志があり、彼らの生について考究する思考があり、語られる彼らの人生に笑ってみたり泣いてみたり、影響を受ける読者がいる。
人ではないが限りなく人に近い行動をし、語られる個人としての存在理由を満たすことが出来る非実在人物。彼らも語られる個人という事が出来るだろう。
語られる個人の存在理由は語り部に語られ、人々の心に根付き、影響を及ぼすことによって初めて満たされる。
より多くの人々に影響を、あるいは少数であってもより深く人々に影響を及ぼす事が、非実在人物を生み出した語り部が彼らにしてあげられる一助なのかもしれない。
さて、こんな所で少しは供養になっただろうか。
君も心置きなく欠けた器の次の生、陶片としての生を歩んで欲しい。出立は多分来週の水曜日の朝だと思う。
リハビリ