迎撃
序盤は思いがけない形で始まった。
午後二時。父や兄たちを見送ったあと、二階に上ったルゼットは、屋根裏部屋のドアを開けていつでも逃げ込めるよう準備を整え、弟たちを連れてベランダに出た。
「父さんたちは……まだか」
町の外れにあるルゼットの家の二階からは、オアシス前広場から西側が間近に見える。
オアシスの周囲は草地に囲まれ、その向こうには畑が続いている。奥にはルゼットが翼を伸ばした丘があり、そして西の防壁はそのすぐ裏だ。ざっと見渡しても、三人の姿はまだ見当たらなかった。
リグレが好奇心いっぱいに聞いてきた。
「ねえ、あのあと何を話したの?」
ルゼットは苦笑した。こんなときでもチビッ子は元気だ。
「翼についての注意を少しな」
「動かすの大変?」
カイルがそっと背中の翼に触れてきた。天真爛漫なリグレに比べてカイルは慎重派だ。
「まあな。けど練習すれば慣れるさ」
「僕たち、見てていい?」
「もちろん。自分のときの参考にしろよ」
笑って頷くと、カイルは嬉しげに微笑み、リグレが「早く見たいなぁ」とぼやいた。
それがいつになるかは見当がつかない。すべてを片付けるとなれば数日はかかるだろう。
(いくら素早くったって、一日や二日で終わるわけないし)
漠然した不安を覚えながらオアシスのほうに目をやったとき、すぐ下からルゼットを呼ぶ声が聞こえた。手すりから下を覗くと、そこには見慣れたシャツにベストにズボンの姿があった。隣には踝丈のスカート姿もある。
「タジール! イリシャ!」
「見つかるとやばいんだ。入れてくれ」
ルゼットはすぐに階下に降りて玄関を開け、二人を招き入れると、戸板を閉めてから向き直った。
「なんでここに。東の空き地に行ったんじゃなかったのか?」
すると二人は顔を見合わせ、そしてこちらを向いた。
「だってよ。ひでーじゃんか」
タジールが俯き、イリシャが言葉を継いだ。
「聞いたわよ。あのいけすかないバルボがウルクさんを勝手に妬んだあげく、村を裏切って『外』の敵をここに連れてきたんですって?」
「そうみたいだな」
「勝手な人よね! それなのに『それはバルボを追い詰めたウルクがいけない、彼の一家をここに住まわせたのは間違いだった』とか言って、このカタがついたら出ていってもらおうなんて言い出す人がいるのよ。大人ってわけわかんないわ」
ああ、とルゼットは悟った。多分、その人たちはもともと反対派だったのだろう。
「ふざけんなってんだよ」
タジールは憤ろしげに顔を歪めた。
「もちろんうちの親やイリシャんとこや、バール先生とか、ウェジン先生に親しい人は反論したんだけど、ウッドリーさんところの職人たちがやたらウェジン先生をこきおろしててさ。時間が経つにつれて嫌な雰囲気になってきて」
「ルゼットたちが来ないから呼んでくるって言ったら『冗談じゃない!』とかいってあの人たち怒るのよ。最後はうちのお母さんまで『先生やお兄さんたちのそばにいるほうが安心かもしれない』とか言い出すし」
「あんまり頭きたから大人の集会が始まった隙に抜け出してきたんだ。おまえは双子のお守り役なんだろ? オレたちも一緒にいさせてくれよ」
まっすぐな目線を向けられ、胸がいっぱいになる。
先ほど診療所で明るみに出た、自分たち一家への厳しい眼差し。ルゼットは思った以上に自分が落ち込んでいたのだと自覚した。
「ありがとう……すげー嬉しい」
なんとか言葉を声に出すと、二人は満足そうに笑った。
その笑顔だけで胸の傷が癒されていく。だからルゼットは「でも」と続けた。
「ここはマジで危ないかもしれないから戻ってくれ。今ごろおばさんたちが心配してるよ」
「嫌だよ。あんな気分わりぃ連中のいるところ、いたくねぇもん」
「そうよ。それにウェジン先生が請け合ってくれたんだもの。どこで待とうと同じよ」
無条件の信頼が嬉しい。しかし楽観してはいけない気もする。
「そうだけど。でもさ」
なおも説得を試みようとしたとき。
「兄ちゃん。お父さんが何か始めたよ!」
階段の上から呼びかけられ、ルゼットは今から二人を戻すのは危ないと考え直した。
「よし。じゃ、一緒にいよう。危なくなったらおれが守るからな」
二人に階段を登るよう手招きする。
「オレたちだろ?」
ルゼットの後ろに続いたタジールが言い、「あんたは自分のことをまずしっかりやりなさいね」とイリシャに突っ込まれる。
(ようは下に降りなきゃいいんだよな)
いざとなったら屋根の上に登るさと割り切り、ルゼットは二人の心遣いを受け取った。
ベランダに出ると、外の様子が様変わりしていた。
「あれ、雨雲?」
タジールの声に空を見上げると、一面が灰色の雲に覆われていた。空気中の湿度も上がっている。
「雨季にはまだ早いのに」
イリシャも驚いて空を見る。するとリグレが黒い瞳を煌めかせてイリシャを見上げた。
「違うよイリシャねーちゃん。父さんが仕掛けてるんだよ」
「先生が?」
「イリシャ姉ちゃん、あっち」
カイルがイリシャの袖を引っ張る。明るくてやさしいイリシャは弟たちのお気に入りだ。
二人に挟まれてイリシャが手すりに寄り、ルゼットもタジールと並んで外の光景に目をやった。オアシスの縁にある大きな岩の上に、空豆ほどに見える白衣のウェジンが立ち、オアシスの中に接地したらしい三本の太い土管に両手を差しのべている。
何をどう操作しているのかは見えないが、電信柱ほどもある土管からは水が勢いよく天に向かって吹き上がり、それは霧のようになって大気に昇っていた。その霧状の大気が上空に厚い層になってわだかまり、にわか雲の様相を呈している。
「すごい。この雨雲はウェジン先生が作ったのね」
「先生って、ホント不思議な技術をいっぱい持ってるよなぁ」
二人の感嘆の声に、ルゼットも興味深く見守りながら応じた。
「昔、あちこち転々としていたらしいからな」
時々驚かされる。
おっとりとして優しげな父の持つ妙技の数々は、多くが昔住んでいた場所で普通に使っていた技術なのだという。
「壊れかけてた電気塔もあっさり直して、いよいよ危なかったみんなの家の電灯、明るくしてくれたんだよな」
「使い方がわからなくてお蔵入りしていた機械も全部知ってて、どんどん使えるようにしてくれたのよね」
耕運機とか、脱穀機とか、とイリシャは名を上げ、タジールも頷いた。
「なのに出ていけなんてよく言えたもんだ」
ルゼットはそれらの会話を聞きながら、ふと『外』ではそうした声がもっと多かったのではないかということに気がついた。よその土地を転々としたというのがその証拠だ。
(父さんもウルク兄さんも、だからここに残ることに執着しているのかもしれない。おれたちにそんな経験をさせたくなくて)
三人の物慣れた態度を見れば、武装集団の襲撃そのものを重く見ている節はない。それでも居場所が定まらなかったのは、それだけ余所者に対する世間の目が厳しかったのではないだろうか。
「あっ、ウルクさんだ」
タジールの声に心を引き戻され、ルゼットはいつのまにか俯けていた顔をハッと上げた。
ウェジンのいる位置から左の斜め上、西門に近い防壁の上空に、翼を大きく広げたウルクが緩やかに旋回している。そのさらに向こう、丘の頂上付近には、ジェトリが旋回していた。空の上から見ると、オアシスの端にいるウェジンを頂点に、防壁に沿って三角形になるような布陣になっているはずだ。
吹き上がる霧で視界が妨げられてくる中、まるで風に乗っているような兄たちの飛翔に状況も忘れて見入っていると、二人が突如、動きを止め、同じ方向を向いた。
ドォーンッッ!
直後、地に響くような地鳴りと同時に防壁の向こうの空が赤く染まった。
「あっ!」
「『外』からの攻撃だ!」
リグレとカイルが空を指差して叫ぶ。たくさんの何かがヒューッ! と音をたてて向こうから飛んできたそのとき。
バリバリバリッ!
空を割る音とともに、辺りが光に包まれた。
「見て!」
イリシャが鋭い声を上げて空を指差す。それを見たルゼットは「あっ」と絶句した。
兄たちの翼が青白い光を帯び、大きさを増している。
(あれが、ジェト兄の言っていた最終形態なのか)
ウルクの翼からジェトリの翼へ、その間にわだかまる雲へ。無数ともいえる青白い稲妻が、バリバリと音を轟かせながら網の目のように空間を埋めていく。そこに敵から放たれた赤い火球が次々に捉えられ、瞬時に白い光を発して爆発した。
それはいわば、無数に泳ぐ魚の群れを丸ごと捕らえる漁師の大網、いかなる爆弾をも通さぬように仕掛けられた稲妻の網だった。
「すげえ……っ」
タジールのつぶらな目が驚きに見開かれる。そうしているうちにも、赤い火球は次々に青い稲妻の綱に触れて白光を噴き上げ、薄暗くなっていた上空は一気に光の乱舞する明るい空間へと姿を変えた。
バリバリバリッ! ビシッビシッ!
ドォーンと鳴っては打ち上げられ、網に捕らわれて白く弾ける火球の群れ。
空間を埋め尽くす光の乱舞に、イリシャも、そしてリグレもカイルも、まるで魅了されたように動かない。
ルゼットは密かに身震いした。
(兄さんたちの言ってたのはあれだったんだ。おれたちの翼は、ただ翔ぶためにあるだけじゃないんだ)
目の前では、今しも網の目をかいくぐるところだった赤い火球が、ジェトリの翼から追うように飛び出した稲妻に捕まり、一瞬後には白光に変わって湖面を照らす。
(あれが翼の本当の力。おれに守れと言ったのは、やつらに襲われるようなことがあったら翼で攻撃しろってことなんだ)
ルゼットは右の脇腹を探り、そこに先ほどの豆粒のような感触があることを確かめた。
やがて間段なく撃ち込まれていた火球の群れが勢いを減らし、間もなく防壁の向こうからは何も上がらなくなった。
どうやら砲弾を撃ち尽くしたようだ。
すると今度は防壁の向こうから地鳴りのような音が響き、ドォンと何かが炸裂して西門が爆破された。
「西門が!」
タジールが叫ぶと同時に武装集団が怒号の混じった歓声を上げながら突入してきた。
「や、あいつら望遠鏡でも持ってたらヤバい。みんな伏せろ」
ルゼットのかけ声で四人が床に伏せる。その間にも戦闘車や自動二輪車、肩に機関銃を構えた男たちを乗せたトラックなどが続々と爆音をたてて入り込み、先頭を走る一群が緩い傾斜の農地を登り始めた。兄たちが翼から光を繰り出すものの先ほどのような威力はなく、敵は雷撃をかいくぐりながら進んでいく。
自身も床に伏せ、頭だけ持ち上げて戦況を窺っていたルゼットは、先ほどのウェジンの言葉を思い出して意図を悟った。
(そうか。父さんはわざと攻撃を手控えて、連中を全員中に入れようとしてるんだ)
先頭の車の窓から身を乗り出した男たちが機関銃を乱射し始めると、それを合図に他の戦闘車からも次々に火花が噴き上がった。
ドドドッ! ドウドウッ! ドォーン!
銃とは思えないような太い筒状の火器からも火球がどんどん撃ち込まれ、納屋の並ぶ一角から土煙が上がる。
「まだかなりの武器を持ってるようだぜ」
同じく首を持ち上げて見ていたタジールの声が上ずった。
「みたいだな」
彼らは想像以上のスピードで農道を突き進み、最後尾が門の中に入った頃には先頭車両の攻撃が住宅地に届き始めた。
ウォォォ――ッ!
男たちの喚声が聞こえてくる。
(ヤバい。このままじゃ、父さんが)
オアシスに目を凝らすと、岩の上のウェジンは空に向かって片手をまっすぐに上げていた。何をと思うまもなくそれが振り下ろされる。すると。
ザバァァ―――ッ!
「えっ⁈」
一体どんな手妻を使ったのか、西側の上空にわだかまっていた雲が、一気に滝となって下に落ちた!
うわああぁぁ――っ!
武装集団から驚愕の声が上がる。たちまち地面が水嵩を増し、傾斜地からなる農地は一瞬にして逆巻く大河に様変わりした。
ルゼットと同時に立ち上がったタジールが手を打って叫んだ。
「一網打尽だ! 先生すげぇ!」
「だから三人で足りるのか……っ!」
戦闘車が立ち往生し、自動二輪車や小型のトラックがこぼれ落ちた人間ごと西門へと押し流されていく。これなら多くが西の防壁前に流され、農地から上には上がれないだろう。
余波の水がこちらにも遡ってくるのが見える中、イリシャがブルッと身震いした。
「なんだか凄まじいわ……」
すかさずタジールが宥める。
「村を守るためだ。あのぐらいしないと」
「そうは言っても気分のいいもんじゃないよな。リグレ、カイル」
ルゼットは弟たちに呼びかけながらイリシャの肩を軽く後ろへと押し、「先に部屋へ行っててくれ」と彼女を促した。
しかし父たち三人の迎撃はそれで終わりではなかったのだった。