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ウェジニールの翼  作者: 木柚 智弥
リンドフェンリルの空へ
16/16

終章~リンドフェンリル


 ああ……気持ちいい。

 長椅子の上に枕を置いて寝そべっていたルゼットは、湖面を渡ってくる風に目を細めた。

 眼下にフレシ湖を望むこの高台は、王城の敷地内で一番気に入っている場所だ。自室の露台から直接来られるし、当番の兵士がいないので誰にも見咎められないのがまたいい。

(今が一番いい季節だよなぁ)

 顔をなぶる風は、うららかな春半ばの午後にしては冷たい。しかし体温の高い今のルゼットには心地よく感じられる。

 高台の真ん中に一本だけ生えた(いちい)の大木の下、展望用の洒落た長椅子から景色を眺めていると、背後の建物のほうから「使徒様ぁ」と呼ぶ声がした。

 昨年から侍女に加わったコルトだ。

(やべ。今日はあいつが部屋当番だったか)

「使徒様! やっぱりここにいらした。陛下が探していらっしゃいますよーっ」

 ルゼットの行動に関して恐ろしい勘と嗅覚を持つコルトは、もぬけの殻の寝室を見てすぐに居場所を特定したようだ。

 下の回廊からだとかなりの勾配になるはずの坂道を、コルトは一気に駆け上がって長椅子の脇に立った。多少、息を切らしてはいるが、たいしてヘバってはいないようだ。

(まあ、キレートの妹だからな)

 今や近衛軍の副将になったキレートの家系は、男女の別なく様々な武芸を仕込むのだそうで、(くるぶし)までの紺のワンピースに白いエプロンといった侍女のお仕着せが可愛らしいコルトも、小柄な十五歳女子とは思えない身ごなしで大の男を投げ飛ばす。『ルゼットの侍女にピッタリだ』と国王自身が抜擢したツワモノだ。

「もー、午睡はお部屋でといつもお願いしているのに。こんな風の当たるところに、しかもシャツ一枚だけでいらっしゃるなんてバレたら私が叱られます。中にお入りください」

「ちゃんとズボン穿いてるぞ」

「揚げ足を取らないでくださいっ」

 膨れっ面のコルトにルゼットは笑った。

「あいつはそんなことでおまえを叱ったりしないよ。きっとここに来るから目を瞑っててくれ。ついでにいい加減、名前で呼べ」

 枕に頭をつけて横から見上げると、腰を屈めたコルトがシャツの袖をクイクイと引っ張った。

「使徒様はちっともお年を取らないので歳月というものをお忘れかもしれませんが、物心ついた頃からそうお呼びしているのでご容赦ください。それから私を叱るのは陛下ではなく姉です。使徒様も危ないですよ」

(あ、それはアリかも)

 仕事で離れていても、キレートにはナゼか一日の行動を把握されることが多いのだ。

 渋々体を起こすと、下から吹き付けた風が、日の光を弾く黒い翼をブワッと膨らませた。折り畳まれた羽の重なりがパタタッと煽られ、肩甲骨のあたりが一瞬、露になる。

「ああっ! 風が当たってます!」

 コルトはあどけなさの残る大きな瞳を真ん丸にすると、慌てて小脇に挟んでいた黒いリンネルの布地を広げてかけてきた。

 ルゼットが寝台に脱ぎ散らかしてきた袖無しの長衣だ。

「いい。シャツ着てるから寒くない」

「ダメです。大事なお体ですから。ここで陛下をお待ちになりたいのなら、せめて姉の怒りが和らぐよう協力してください」

 手際よく腕に袖ぐりを通され、翼をそっと持ち上げられる。コルトは慎重な手つきで切れ込みに翼を通し、少し膨らんだ背中を長衣で覆うとホゥッと息を吐いた。

「そんなに過保護にされてもなぁ。いいときはいいし、ダメなときはだめだってオルガ婆さん言ってたけどな」

 王城きっての知恵袋の名を上げると、コルトは両手を腰に当てて胸を反らした。

「さすがオルガ(ばば)様。庶民と使徒様を同列にして論じるとは。ですが若輩の身には、その境地に至るまでにはまだ年月が必要です。あと二十日ほどおとなしくしていてください」

「えー……」

「よく言ったコルト。私も同感だ」

 突如かけられた低い女性の声にギクッと顔を持ち上げると、少し離れた(いちい)の幹の陰に、先ほどまでは気配も感じなかった人物が二人ほど、こちらを向いて立っていた。

 腕を組んで仁王立ちするキレートと、その後ろに立つ、波打つ銀髪を襟足で結わえた長身の男。ともに軍装を纏うその姿は、この国で最も付き合いの長い者たちだ。

(くそ、さすが気配を消すのがうまい)

 普段のルゼットは西軍に所属している。

 妖獣退治や野盗の取り締まり、災害現場の修復などに明け暮れていて、王城に住まう二人とは別行動が多いのでうっかりしていたが、彼らも現役、東軍に所属する武将だ。

(うーん。キレートはコワいけど、まずはあっちだな)

 ルゼットは長椅子から立ち上がると、キレートをぐるりと回り込んで後ろの位置に立った。

「十日ぶりだなフィルス。ちゃんと食べてたか? 忙しいからとか言ってまた後回しにしてないだろうな?」

 ルゼットが拳ひとつ分上に笑顔を向けると、すっかり彫りの深くなった顔が苦笑を浮かべた。

「あなたよりは。ルゼットも元気そうでよかった」

 彼は半歩の距離を詰めると、確認するようにルゼットの肩に手のひらを滑らせ、次いで広い胸の中に抱きしめた。いつもより腕に力がこもっている気がする。

(やっぱ、ちょっとギリギリすぎたかな)

 背中に腕を回し、宥めるようにポンポン叩いていると、横からキレートのひと際低い声がした。

「夕べやっと城にお入りになったとの報告を受けましたので、ご様子を伺いに来てみれば……」

 迫力の低音にチラッと目線を向けると、怜悧な印象の細面がルゼットを睨んでいた。

「そんな大事なお体を風に晒すなど! 御身をなんだと思っていらっしゃるのですかっ」

「な、なにっておれ、昨日まで妖獣相手にやりあってたし。風に当たるぐらい」

 どーってことないさ、と続けようとしたルゼットは、翼を撫でていた手にサッと両腕をつかまれたことで作戦失敗を悟った。

「妖獣ってどういうことです。十日前、西軍駐屯地に迎えに行ったときは、確か砦で残務処理って言いましたよね?」

 だから渋々引き下がったのにと迫られて顔がひきつる。

(し、しまった。ついうっかり)

 ルゼットはどうにか平静を装った。

「あー、ここに来る道沿いにな。妖獣被害に遇った村があるから励ましてくれないかってことで立ち寄ったらさ。たまたま狩り残した餓狼にバッタリしたわけよ。まあスパッとサーベル一発だったけどな」

 説明するほどにフィルスの顔がコワくなっていく。

(ちっ。普段の顔は父さんに似てるのに、そういう顔されると怒ったフィルティアにそっくりだ)

 水色の瞳にじっと見つめられ、冷や汗をかきながら目を逸らすと、仏頂面のキレートと目が合ってしまった。

「……西軍の将は、確かロウル殿のお父上でいらっしゃいましたか」

「ああ。武勇で鳴らした方で、先王の時代から西部地方の面倒を見ていただいている」

「御年六十を越えましたよね」

「そうだな。判断力に難が出てきてもおかしくないお年だな……」

「ち、ちょっと待て」

 淡々と交わされる会話にルゼットは慌てた。

 西軍大将、ガスル・アクィタスは確かに齢六十を越えるが、頑健な体躯と陽気で豪快な人柄で軍を纏める貴重な人物だ。

 ルゼットに気後れすることなく平気で肩を並べ、儀礼などもあまり気にしないので、気楽に軍務に参加でき、ときに酒宴を囲んだりしている。それが楽しくて王城に入る日を少々遅らせたのは内緒だ。

(といってもこんなにギリギリにするつもりはなかったんだけどな)

「遅くなったのは悪かったよ。でも餓狼はほんとに偶然だったんだ。ガスルは知らないんだから余計な指示出すなよ?」

 顔を覗くようにして言うと、フィルスはなおも続けたそうに眉根を寄せていたが、やがてため息とともに肩から力を抜いた。

「六年前……確かにあなたは来てくださったけど。負い目はめでたく解消されたし、結界の問題も解決に向かっているけれど。私の負担が減るっていうのはウソでしたよね……」

 むしろ心労が増えましたしと恨みがましげに呟かれ、たまらずにルゼットは声を上げた。

「こっちゃおまえに子どもを授けてんだぞ! ちょっと心労が増えるくらい我慢しろよ!」



 フェロデを産む――。

 ガレイルがそれを告げたとき、フィルティアとフィルスはもちろん本気にしなかった。

「寿命より先に脳神経がキレたのか? バイオロイドのルゼットが、どうやったらフェロデを産めるんだ」

「あの。確かにルゼットは綺麗な方ではありますが、女性ではないのでは……?」

 口々に疑問が飛び交う中、ルゼットにはガレイルの言わんとしたことがわかった。

「おれのクローン培養機能を使うのか」

 ルゼットが質問すると、二人は「えっ」とこちらを見、ガレイルは頷いた。

「そうだ。かつておまえが生まれたようにな」

「そういえば、おまえはウルクから生まれたんだったな」

 フィルティアの言葉にフィルスが目を白黒させた。

「ウルクというのは、ルゼットの兄上様のお名前では」

 むろんフィルスはルゼットの詳しい誕生メカニズムまでは知らない。

 ガレイルが説明した。

「元々彼らには、厳密な意味での性別はないのだよ」

「えっ、でも……っ」

 フィルスに横目で見られ、ルゼットはつい目線を己の胸へと向けてしまった。

 いや、おれ男だし。

 ガレイルが笑って言い足した。

「見かけはな。中身はどちらの性別とも言えない。〈翼〉たちの元となった細胞は女性体で、軍務での耐久性を高める目的で男性体に変えたのだ。それがURKシリーズ」

 知られざる初期の話に目を見張ると、ガレイルは思い出すようにしながら言葉を継いだ。

「さらに強化したのがJETLシリーズ。だから彼らのほうがやや好戦的な気性だった」

 ああ、とルゼットは内心で頷いた。

 確かに、ジェトリの気性はウルクより荒っぽかった。

 フィルティアがなるほどと呟いた。

「では、クローン培養というのは自己修復機能の延長か」

「そう。細胞促進技術の応用だ」

 ガレイルはルゼットに目を向けた。

「変死の疑いがあったフェロデ王の細胞の一部はアルバータ基地が保管している。それを使い、フェロデのクローンを産めば、おまえの負い目は根本(こんぽん)から消滅するだろう」

「……本当に」

 それができるなら。

 ルゼットの胸に仄かな希望の光が点りだす。その横でフィルティアが「けどなぁ」と顎に手をやって考え込んだ。

「自己修復のための細胞培養と、フェロデを産むというのは話が違う気がするんだが」

 ガレイルはフィルティアに目線を戻した。

「それは培養を司る部位と培養される細胞、つまり器と中身を分けて考えればわかる」

「ああ、なるほど。ルゼットの体には子宮と同じ働きをする部位があるということか」

「そうだ。それは翼の根本に隠されている」

「翼の?」

 フィルスが背中を注視する。ルゼットはなんだか落ち着かなくなった。

 さっきから、フィルスの視線が熱いんだけど……。

「ウェジニールのファイルには『体内細胞を利用』と記されていた。つまり体外の細胞を利用することも想定していたということだ」

 だから本人が電脳に指令すればできるはずだと彼は言った。

「どうだルゼット。まずは電脳に照会して、詳細を調べてみないか?」

 穏やかに聞かれ、ルゼットは戸惑いながらも「と、とにかく調べてみないと始まらないよな」と同意した。

 宿舎に戻り、一人電脳と問答して得た検索結果は『可能』。

 思わず二度聞きし、質問の方向を変えたりもしたが、何度聞いてみても〈可能デス〉だった。

 しかもルゼットのやることは極めて簡単、自己修復機能から培養モードを選び、培養に相応しく加工された細胞を経口接種――つまり飲み込むだけだ。

 この時点でルゼットはハラをくくった。

 結果を報告されたガレイルはフィルティアに指示を出し、数日後、彼女からひとつのカプセルがルゼットに手渡された。

「これはフェロデの細胞をおまえの電脳から示された条件に加工したものだ。カプセルの期限は二週間。破棄してもあと一つなら作ることができる。だから焦らずにじっくり考えろ。まずはリンドフェンリルで暮らしてみて、そこまでしなくてもやっていけそうなら私はそれでいいと思う」

 もちろんここにはいつでも来ていいからなと最後につけ加え、フィルティアは励ますように肩を抱いてから送り出してくれた。

 そうしてリンドフェンリルの首都、オスティンの王城に降りたルゼットは、その夜フィルスの寝室を訪れて告げた。

「おれ、挑戦してみるよ」

「ルゼット……」

 彼はどこか痛いような表情を浮かべ、優雅な細工の長椅子にルゼットを導いて腰かけた。

「なんでおまえが痛そうなんだ?」

「だって、子どもを産むって大変です。侍女たちだって言ってました。中には、死んでしまう人も……」

 俯いたフィルスをルゼットは覗き込んだ。

「そうだな。おれも怖いよ。でもガレイルが言ってただろ?」

 手のひらを頬に添わせると、フィルスはおずおずとこちらを向いた。

「人はみんな、苦しみや危険を乗り越えて幸せをつかんでるって。おれはおまえのために努力してみたい」

「ルゼット……」

「父さんと兄さんたちが死んでから、そういう気持ちになれたことってなかった」

 事情を知れば知るほど生きることが罪に思えた。

「弟たちへの責任感だけがおれを生かしていた。そんなおれを危ぶんで、フィルティアはフェリシア王女の死後、『使徒』を演じる仕事をおれに与えた。だから正直に言うと、フェロデ王の頃は全然乗り気じゃなかった」

「………」

「けど彼女までが急死して、おまえが全面に立たされて。必死な姿を支えたくなって……いつの間にかおまえがおれを支えてくれていたんだな。おまえがフェリオル博士に食ってかかったとき、それがよくわかった。嬉しかったよ。心の底が震えるくらいに」

 だからガレイルの話を聞いたとき、すぐに受けるつもりでいたと告げると、フィルスはクシャリと泣き笑いの顔をした。

「まあ、内容を聞いたときはさすがに予想外すぎてビビったのも事実だけどな。基本、受けるつもりなのは変わらなかった」

 ルゼットは姿勢を正した。

「おまえにフェロデを授ける。それで二人で守って育てるんだ。そしたらおれたち、ほんとの家族になれると思わないか?」

 フィルスは頬を包むルゼットの手に自分の手を重ね、何度も頷いたあと、ルゼットを抱きしめた。

 それから六年――。

 フェロデは無事この世に生まれ、今、ルゼットの背中には第二子が宿っている。

「確か、あなたは私を支えてくれるんでしたよね? このままじゃ心配で、心臓壊れて倒れます」

 嘆かわしげにぼやかれ、ルゼットは呆れた。

「フェロデは順調に育ってるんだろ? そんなに神経質になるなよ」

「産まれるまではハラハラの連続だったでしょうっ!」

 それは確かにフィルスの言うとおりだった。

 家族になろうと伝えた夜、ルゼットはフィルスの見守る前でモードを切り替え、カプセルを飲んだ。

 その後、体の異変を覚悟して城に留まっていたのだが、意外にも日々は平穏に過ぎたので拍子抜けしてしまった。

〈バイタルサイン良好。培養体トモニ異常ナシ。分離予定日マデ残リ九ヶ月〉

 電脳に確かめても、若干の体温上昇のほかは分離予定日のカウントが減るだけで、体調に変化はない。

「まあな。おれはバイオロイドだし、男性体だからな。世の妊婦さんとは違うんだよ」

 密かに女性の妊娠、出産についてのアレコレを調べ、戦々恐々としていたルゼットは安心し、三ヶ月が過ぎた頃には妖獣退治の守備隊に交じっていた。

「いや、それは早計だ。ウルクもジェトリもウェジニールが診ていた。おまえには専門医がいないんだから油断するな」

 通信報告でガレイルに戒められ、

「目の届くところにいてくださいね。間違っても遠くまで翔んでいっちゃダメですよ?」

 フィルスに懇願されたものの、「はいはい」と返事をしておいてその実、真剣には取らなかった。

 なにしろ結界は弱いままで妖獣は各地に絶えない。軍は常に忙しく、フィルスは戴冠式すら済ませていないのだ。そんな厳しい状況の中、ルゼットが空を翔ぶと領民に喜ばれる。

『おお! 使徒様が翔んでなさる。わしらを守ってくださっとるんじゃ。はよ拝んどけ』

 風に運ばれてくるそんな言葉を捉えるたびに胸が温かくなるのだ。

 基地では人目を(はばか)ってあまり翔ばずにいた分、タガが外れ、ルゼットは『ちょっとそこまで』と言ってはこっそり遠くまで翔び、妖獣を退治して農民を喜ばせていた。

 それが後半にきて仇になった。

 分離予定日まであと四ヶ月を切ったその日。

〈エネルギー消費過多。培養体優先ニヨリ、省エネモードニ切リ替エマス〉

 突如、電脳から告げられ、空を翔んでいたルゼットはパニックに陥った。

「今からっ? んなムチャなっ!」

 実は『戦う』にもまして『翔ぶ』というのはエネルギーを使う行為で、電脳からは何度も〈エネルギー消費過多、注意〉と指示が出ていたのだが、よく食べて昼寝を増やせば大丈夫と、たいして気に留めなかった。しかしそれは大きな過ちで、培養体、即ち成長する胎児の奪うエネルギーは半端でなかったのだ。

 結果、急速に力を失ったルゼットは刈り入れ前の麦畑のど真ん中に墜落し、身動きできなくなってしまった。

(な、何がどうなったんだ……?)

 全身を巡る痺れにも似た衝撃に、麦の穂を握りしめながら自問するも、どうやら培養モードというのは何をするにも培養体優先で、

〈最悪、本体ニハ最低限ノ生命維持エネルギーノミ供給サレマス〉

 との回答を得たときには、ルゼットは豪農の屋敷に運び込まれ、『使徒様ご不例!』の知らせが国内を震撼させていた。

 フィルスが死にそうな顔で駆けつけてきたのは言うまでもない。

「あなたの行方がわからなくなってからの二日間。その後の衝撃。私は一生忘れませんからね。間違いなくトラウマになりましたよ」

 つかまれた腕に力を入れられ、ルゼットはバツ悪く顔を伏せた。

「だ、だから悪かったって」

 こいつをこんな心配性にしたのはおれだよなと反省しつつ、「でも」と顔を上げる。

「おまえだって十分逆手に取っただろうが。おれは嫌だったけど、悪いと思ったから我慢したんだぞ!」

「そりゃ、そのくらいはさせてもらわないと。割りに合いませんから」

 スパッと切り返され、ルゼットは言葉に詰まった。

 到底、王城から近いとは言えない農村で保護されたルゼットを、電光石火の早業で用意した寝台つき馬車で迎えにきたフィルスは、農民たちの手厚い看護に感謝し、褒美を贈って労うと、痺れて動けないルゼットを水鳥の羽であつらえた布団に寝かせて王城に運んだ。

 その間、ルゼットのそばに侍るものの笑顔はなく、「ごめんな……?」と声をかけても無言だった。

「おい、なんか言えよ」

 咎められているようで落ち着かず、ちょっと語気を強めたら、彼は声を出す代わりに一筋の涙を落とし、片手で目を覆って去っていってしまった。これはさすがに痛かった。

 幸い、王城に着いてから数日で痺れは減り、背中の胎児の無事も確認された。だから後日見舞いに訪れたフィルスに、

「僕はあなたを守れてはいなかったんですね。これからはもっと気をつけますからどこにも行かないでください」

 などと腰低く手を取られたルゼットは、ついホッとして気を緩めてしまった。

「おまえが謝る必要なんてない。おれが悪かった。どこにいくつもりもないから」

「本当に?」

「もちろんだ」

「僕のもとにずっといてくれますね?」

 このへんで気がつけばよかったのだろうが、フィルスがあまりにも不安そうなので、柄にもなくサービスしてしまった。

「おれは、おまえのためにしか子どもなんて産めないよ」

 するとフィルスは実に艶やかな笑みを浮かべ、「僕もあなたひとりです」と恭しく手の甲に口づけたあと、スッと立ち上がり――。

「皆さん、聞いていましたよね?」

 と背後を振り返った。

「えっ?」

 そこには普段、ルゼットがあまり接しない、リンドフェンリルの宰相やら侍従長やら神官長やらが驚きの表情で立っていた。

「信じてくれましたか?」

 フィルスの呼びかけに、彼らは一様に腰を折って祝いを述べた。

「いやはやおめでとうございます。フィルス殿下」

「まさか使徒様がすでに御子様を……この耳で聞くまでは信じられませなんだ。お許しくだされ」

「臣下一同、心よりご降嫁をお祝い申し上げ、いっそう王家を守り立てていく所存です」

「『降嫁』って。おれ嫁じゃないし!」

 慌てて訂正したものの、ルゼットの言は、

「お気になさいませんよう。我が国では、神の国の方がお子を授けてくださる事象をそう呼ぶのです」

 とフィルティアの前例を出されて無視されてしまった。

 そうしてルゼットがエネルギー補給と消費のバランスに苦戦し、思うように動けないでいるうちにあれよあれよと準備は進み、

〈分離予定日マデ残リ三週間。コレヨリ培養体優先レベル最大。RUZZT-1ニ待機ヲ要請シマス〉

  電脳が警告してきた頃には、フィルス戴冠の日取りとともに『使徒様』の降嫁、そして第一子誕生の予定まで発表されていた。

 もっとも、喜んだ周囲の人々が「じゃ、これからは王妃様とお呼びしなくちゃ」と話すのを聞き、

「それだけはカンベンだ!」

 と断固拒否したので、未だにルゼットは『使徒様』と呼ばれている。ただし、王城のとある一角だけは、堂々とルゼットのことを王妃様と呼んでいるのだが……。

「勝手に王妃にした上に、まだ生まれてもないのに子どもの発表なんてして。もしフェロデがちゃんと出てきてくれなかったらどうするつもりだったんだよ」

 当時の不安がよみがえり、つい文句を言うと、フィルスは自信ありげな顔をした。

「だから発表はギリギリにしましたよ。それに大丈夫だって信じていましたし」

「そうかぁ? それにしちゃ、生まれる日は神頼みしたよなあ」

「それは仕方ないでしょう。あなたのためでしたから」

 電脳の管理により予定日は決まっていたので、人と異なる出産を気味悪がられるのが怖かったルゼットは、一人にしてくれと要望した。すると心配したフィルスがフィルティアに請願し、彼女が王城まで足を運んでくれたのだ。

 十年ぶりの『女神降臨』の僥倖に国内が沸く中、ルゼットは無事、フェロデの分離を成し遂げた。

 そのフェロデは今年五歳。すでに先代を彷彿とする強い力を覗かせている。遠からず結界は強化されるだろう。

「今回も、最後はフィルティアが来てくれるんだよな。助手まで連れてくるとか言ってるんだろ?」

 なあ、と後ろを振り向くと、いつの間にかキレート姉妹は姿を消していた。

「あれ。どこいったんだ?」

「その助手殿をここに案内するよう指示しました」

 どうやらアレコレ思い出しているうちに物事は動いていたらしい。

「さきほど到着なさったので、顔合わせをするつもりだったんです。そうしたらあなたがいないから……」

 再び小言が炸裂しそうになり、ルゼットは慌てて話を逸らした。

「ず、随分早いんだな。まだ予定日には二週間以上もあるのに」

「今回は、前回とは違う心配があるでしょう?」

 フッと腕をつかむ力が抜け、そっと抱き寄せられる。愛おしそうに翼の根元を撫でられ、ルゼットの体温がまた上昇した。

 今、背中に宿っている培養体は誰かのクローンではない。培養モードに書き込まれていた別メニュー、二人分の遺伝子でできる、ヒトの受精卵に近い培養体――合成培養体だ。

 その二人とはもちろんフィルスとルゼットである。

 きっかけはフェロデだ。

 フェロデ四歳の誕生日の夜、久し振りに王城の自室で過ごしたルゼットは、訪れたフィルスにこぼした。

「フェロデだけ城で暮らしてるってのは、なんだか可哀想だよな……」

 培養モードが終了し、普段の体に戻ったルゼットは、当然のように前の生活――即ち軍隊の駐屯施設に助っ人として入り、妖獣を退治する生活に戻っていた。

 それは最初から決めていたことで、いくら肩書きに『王妃』がつこうとも、ルゼットには城に落ち着く考えはなかった。被害を受ける国内各地に兵士は足らず、軍の武将たちももちろんルゼットを支持、フィルスもそこには口を挟まなかった。

 口を出したのはフェロデの教育を任された侍女頭だ。

「王女様は寂しく思われておいでです」

 子どもの情緒に家庭が重要なことはルゼットも知っている。まして強い力を持つフェロデは物事に敏感で気難しく、仕える侍女たちが気後れ気味だという。

「月に数回、会うだけじゃなぁ……」

 こんな成りでもフェロデにとっては親なので、会いに行けば歓迎されるし帰るときはしょげられる。フィルスもフィルスで多忙の身なので城にいる日のほうが少ない有り様だ。

 悩むルゼットにフィルスが言った。

「もう一人、頑張ってみますか?」

「うーん、やっぱそこか」

 培養体を宿すのに莫大なエネルギーがいることは経験済みだ。フェロデの『元』ならあとひとつは用意できるとフィルティアは言っていた。できなくはない。

「けど、性格が同じタイプってのはなぁ……」

 気難しいフェロデに同じ気性の妹ってどうなんだと考え込んでいると、フィルスがポツリと呟いた。

「なら、私の遺伝子を使ってもらえませんか」

「―――」

 そのとき全身を駆け巡った感情をなんと言ったらいいのかわからない。けれども気がついたとき、ルゼットは何の迷いもなくこう答えていた。

「おれも、会ってみたい」

 するとフィルスは続けて言った。

「できるなら、ルゼットのと合わさればいいな」

「えっ?」

「自然界ではそうなっていますよ。ルゼットだって人の体を土台にしてるんでしょう?」

「待て。その場合はおれの遺伝子が混じるんだぞ。わかってるのか?」

「もちろん。私はあなたを、その綺麗な翼ごと愛してるんですから。初めて会ったときからね」

「………」

 そうまで言われて心が動かないわけはない。

 後日、ルゼットは電脳に検索をかけてみた。結果は『可』。ルゼットの培養機能には、ちゃんと人の卵子や精子のように自分の遺伝子を半分にする機能がついていた。使用手順も物理的には極めてカンタン。しかしそれは人を参考にしたようで、精神的にはあえて切り捨ててきたオトナの世界だった。

「ね、結果はどうだったんです?」

 こっぱずかしくてなかなか言い出せず、問い詰められて明かしたときは顔から火が噴きそうで、内容を知ったフィルスが、やっぱりクローンにしようかなと言うのを期待した。けれども彼はそれを聞くと、

「ルゼットがいいのなら。私は光栄です……」

 とその気になっていた。

 そうして紆余曲折の夜を過ごした結果、再びルゼットの背中に培養体が宿った。

 しかしながら、実際に生まれてくる子がどんな形状なのか。半分の遺伝子の影響が不安を誘う。

 ルゼットは恥を忍んでフィルティアに相談し、彼女は驚きながらも「幸せなんだな」と喜んで手を尽くしてくれた。

「ウェジニールのファイルをガレイルから譲り受けた。優秀な医学者で、バイオテクノロジーを研究している人物が協力してくれることになったから、安心して養生しろ。今度は油断するなよ?」

 その協力者が今回、助手として先に来ることになったのだ。

「不測の事態に備えて早く来てくれたんですよ。感謝してください」

「そいつ、助手っていっても研究所の学者だろ? おれ、フィルティアやおまえ以外に体見られるの、ヤだなぁ」

「その方は翼のこともよくわかってらっしゃるんですよ。贅沢いったらダメです」

「翼も?」

「ええ。とても思い入れがあるようですよ」

 ルゼットが見上げると、フィルスは眩しそうに目を細め、背中の手を片方、翼の(へり)に添えて撫でた。

 心地よく感じ、翼が自然に緩む。フィルスの目が嬉しそうに輝くのを見、ルゼットは肩甲骨に軽く力を入れた。

 ゆっくりと縮みを伸ばした翼がフレシ湖の水面を渡る風に揺れ、(いちい)の枝先から溢れる太陽の光を浴びて虹色に輝く。

「ああ……綺麗だな……」

 フィルスが頭上の広がりに目を細め、自分の肩近くに垂れ下がった羽に手を伸ばした。

 この翼を、破壊と裏切りの象徴を、おまえはいつまでも変わらずに見つめ続ける。

「なんでおまえには、この黒い翼が綺麗に見えるのかな」

 その罪も、負の歴史もすべて知ってるのに。

「さあ? 自分でもわかりません。心が勝手に惹かれちゃうんですから」

 その言葉に嘘がないことは、彼の全身から滲み出る喜びの気配が証明している。

 それがもたらすこの幸福感。そして安堵感――。

 そのとき、ふいにかつてガレイルがこぼした言葉が脳裏をよぎった。

『ウェジニールにとって、ウルクやジェトリに対する気持ちもまた強かったのだろう』

 ああ、そうか――。

 ルゼットは悟った。

 父さんは見せたかったんだ。ウルクとジェトリに。

 魅せられるままに翼ある人を造り上げた彼は、一度は絶望し、壊れた〈翼〉たちを連れ、姿を隠してすべてを終わらせようとした。

 それなのになぜ、再び翼を持つ者を手にすることにしたのか。

 それは彼が確信していたから。

 いつか必ず同じように愛してくれる人が現れる。翼に魅せられた誰かが大切にしてくれる。

 それをウルクとジェトリに示すことで、悲しみの多かった二人に喜びを与えたかったのだ。

 あの最後の日、タジールとイリシャがくれた〈翼ある者〉への情愛。あれこそがウェジンの果たした夢。

 だから村の結界が消滅し、最期を覚悟したとき、兄たちに詫びながらも彼は言えたのだ。『後悔はしてないんだ』と――。

 だとしても、とルゼットは思う。

 おれは、おれの判断をよしとする。

 今もなお、外の世界で〈翼〉として生きるには、あまりにも辛いことが多い。

 おれもまた後悔はしない。たとえ一生、理解されなかったとしても。 

 万感の思いを胸に、ルゼットは静かに翼を折り畳んだ。

 それを名残惜しげに見ていたフィルスが、ふと右側の坂を見下ろした。

「あ、ほら。来たようですよ」 

 向こうに、と指差した方向を見ると、三人ほどの人影が勾配のある道をこちらに登ってくるところだった。

 右脇の軍装の女性はキレートだ。後ろの小柄な侍女はコルトだろう。彼女らに付き添われる形で、白衣のような上着を風にはためかせた黒髪の男が、フリルのワンピースを着た小さな銀髪の少女を抱いている。

「あれはフェロデじゃないか」

 片腕に腰かける形で抱かれたフェロデの手が、上背のある男の肩をしっかりとつかんでいる。

「あれがフィルティアの助手か。珍しいな。フェロデが初対面の人に抱かれるなんて……――え?」

 ルゼットが声を上げると、隣に並んだフィルスが言った。

「ほら。贅沢を言うとバチが当たりそうでしょう?」

 次第に近づいてきた男の容姿が、ここにいるはずのない青年をかたどる。フィルスを見上げると笑顔でこちらを見下ろしていて、彼は承知しているのだと知れた。

 あの青年にそっくりな顔ならルゼットも知っている。

 先日も神殿の通信モニターで少し話をした。しかし彼の髪は短く、衛星基地の若者と同じく横に撫で付けてあった。けれど今、見下ろした先にいる男は、後ろに結わえたざんばらな髪がルゼットより長く、何より表情が……。

 カイル――!

 白衣の青年は顔を上げ、少し足を早めて坂を登り切った。

 風にあおられ、結わえた結び目からほつれ出た黒髪。巴旦杏(アーモンド)型に切れ上がった黒い瞳。まるで在りし日のジェトリを映したかのような長身の姿。

 喉の奥が熱くなって声が出ない。

 手で口元を覆うと、彼は頭半分ほど上になった位置からじっと見つめてきた。

 リグレから送られた画像でしか見たことのない顔は、引き結ばれた薄い唇の影響なのか、感情が読み取れない。

 その顔に並んだ、波打つ銀髪をレースのリボンで二つに結んだ少女が、男の腕から少しこちらに身を乗り出し、彼女だけに許された呼称でルゼットを呼んだ。

「ごきげんよう、王妃さま。おかげんはいかがですか?」

 途端、ブワッと腹の底に湧いた違和感を押さえる。

 侍女たちは母上様と呼ばせたかったようだが「ムリムリ。名前で頼むよ。だめなら使徒様で」と要望し、「お子様にそれではあんまりです!」と反対する侍女との攻防の末『王女様の精神的安定のため』との意見に妥協して王妃様になったのだ。

「あ、うん。悪くないよ。フェロデ、おまえは元気だったか?」

 笑顔を作って挨拶を返すと、フェロデは大きな水色の瞳を見開いてまじまじとルゼットの顔を見た。

「このかた、天のお城からいらしたお医者さまなのです。ろうかでバッタリして、ここにごあんないしました」

「あ、ああ……」

 カイルが優秀なことはリグレから聞いていたが、詳しい経歴は知らなかった。

 一体、彼はどんな経緯でここに来たのか。

「お顔が、とてもよくにておられます。もしかして王妃さま、お兄さまでいらっしゃいましたか?」

 フェロデは不思議そうな顔で横を向き、彼の背を覗いた。

「………っ」

 キリリと胸の奥が軋む。

 さすが前王の現し身、年頃より聡いフェロデは、すでに自分を産んだ親が『使徒様』と呼ばれる天空城の者であることを理解している。であれば、その兄弟には翼があると思って当然だ。

 しかし今、自分を抱き上げる男には翼がなく、けれども他人というには似過ぎている。

(どう返事を返せばいいんだ)

 もちろん彼女には「そうだよ」と言って紹介したい。けれどカイルは違うかもしれない。

(おれは今、おまえの中でどんな存在なんだ。まだ兄と思ってくれているのか――?)

 沈黙が不自然な長さになる寸前、カイルがフェロデを向いた。

「違います、フェル・ローデ王女」

 瞬間、足から力が抜けそうになる。

(そうか――)

 では彼は、ただ助手としてここに来たのだ。或いはガレイルに指示され、やむを得ず従ったのかもしれない。

 いたたまれずに俯くと、カイルはこう続けた。

「私は弟ですので」

(………っ!)

 一瞬後、自分が兄であるとの先入観からフェロデの言葉を早とちりしていたのだと気づき、全身が熱くなった。

(だって仕方ないじゃないか。もうずっと、声すら聞けなかったんだ)

 羞恥と歓喜と動揺で震えていると、フィルスが肩に手を置き、支えるように寄り添いながらカイルに声をかけた。

「よく来てくださいました、カイル殿。心より歓迎します」

 カイルはフィルスに目線を移すと、軽く頭を下げた。

「こちらこそ。早々からの訪問を受け入れていただき、感謝します。フェル・イルス陛下」

(早々――?)

 ルゼットが顔を上げると、フィルスがにこやかな顔で「おいで」とフェロデに手を差しのべた。

「珍しいね。君が抱っこを許すなんて。ちょっと妬けちゃったよ?」

 フィルスの腕に収まったフェロデは、幼くも可憐な美貌に困惑を浮かべた。

「だって。王妃さまをさがしていらしたから、ごあんないしますともうし上げたら、腕にのせてくださったんですもの。王妃さまによくにてらしたし、すごくきれいであたたかい空気をかんじたんです」

 そうだ。カイルは優しくて裏のない気性だった。だからこそ彼の拒絶は身に応えたのだ。

「弟さまだったのなら、よろしいでしょう?」

 フェロデが懸命に言い募ると、フィルスは笑って頷いた。

「そうだね。仕方ないね。お二人はずっと別々に暮らしていて、お会いするのが久し振りなんだ。だからいっぱいお話がしたくて、カイル殿は早く来られたんだよ」

 ルゼットはドキッとしてフィルスを見た。

 それは、本当だろうか。

 確かめたくて、でも口に出せないでいると、フェロデがカイルを向いた。

「そうなのですか?」

 小首を傾げて質問され、彼は目元を幾分和らげた。ジェトリの印象が薄れ、昔の雰囲気と重なる。

 ああ、本当にカイルなんだ。

「はい。一刻も早く医者になりたくて、たくさん勉強しなければならなかったので」

 彼はフェロデに向かいながら、まるでルゼットに説明するかのように答えた。

「無事に資格が取れましたので、フィルティア様にお願いしてここに来る許可をいただきました。しばらくの間、ご一緒させていただきます」

「ずっとはいらっしゃらないのですか?」

「まだ学ばねばならないことがありますから。王女様の弟君か妹君が無事にお生まれになりましたら天空(うえ)に戻ります」

 フェロデは珍しく食い下がった。

「そのあとは、いらしてはくださらないのですか?」

 カイルはフワリと頬笑んだ。その笑顔は、昔ルゼットが当たり前のように向けられていた笑顔によく似ていた。

「そうですね。皆様のお体が悪くないか、時々ご様子を伺いに参れればと思っています」

「さ、フェロデ」

 頃合いと思ったか、フィルスがフェロデの頬を指先でつついた。

「先に戻ろうか。少しお二人にして差し上げよう」

 彼はよいしょ、とフェロデを抱き直すと、「じゃあ、後で」とルゼットに笑いかけ、(いちい)の脇に控えていたキレートとコルトを手招きしてゆっくりと坂を下りていった。

 一陣の風が吹き、ルゼットとカイルの髪を煽った。

「少し強くなってきたな」

 なんとなく気後れし、顔にかかった髪をよけていると、カイルが湖面に目を向ながら言った。

「ずいぶん髪が伸びていたんですね。……一瞬、ウルク兄さんかと思いました」

 こちらに向ける横顔には再び静けさが漂っている。

「おまえはジェト兄によく似てるよ。リグレもそうだけど」

 ルゼットが答えると、彼はこちらを見返してきた。

「いえ。俺たちは似てません。翼がないから」

「………」

 やはり、カイルはそれに対してわだかまりがあるのだ。

「カイル、おれは」

 すると彼は遮るように片手を上げた。

「けれども今は違う形で兄さんたちに近づけたらと思っています」

「……え?」

 意味がよくわからない。

 カイルは少し目を伏せた。

「いつか必ず翼を取り戻す――そう心に誓って、学校で必死に学びました。十八で衛星大学の学位を取得して連邦大学に留学し、今も在学中です」

 鋭い痛みが胸を刺した。

「じゃあ、バイオテクノロジーを研究中というのも………」

 カイルはそれには答えず、再びフレシ湖に目を向けた。

「ガレイルの計らいで、彼の遠縁として入学したので、誰も俺が人じゃないとは見抜けなかった。普通に仲間として受け入れられ、友逹もたくさんできました。嘘をつくのが心苦しかったから、信頼できると思った相手には本当のことを打ち明けました。そうしたら……」

 カイルは何かに耐えるように目を瞑った。苦痛をこらえるようなその表情だけで、何が起こったのかが予想できた。

「俺があの〈ウェジニールの翼〉だと知った途端、友人は変わってしまいました。吹聴するような人はいなかったけれど、二度と元通りにはならなかった。ガレイルにも注意されていたのに――」

〈翼〉の影響を甘く見ていました、とカイルは絞り出すように言った。

「カイル……」

「ずっと、兄さんたちの綺麗で大きな翼が羨ましかった。あなたの翼が成長したあの日、次が自分であることが嬉しかった。だから過去の〈翼〉たちが起こした、しかも過重労働による失敗のせいで、なんで自分が翼を諦めなきゃいけないのか納得がいかなかった」

 慰めたくて、でもビリビリとした何かが彼を取り巻いていて、ルゼットは一歩近寄ったまま、上げかけた手を止めた。

「あなたを一人置いて、自分だけ安全に匿われるのが情けなかった。しまいには、あなたがいるから自分たちは翼を持つことを禁じられたのだと逆恨みして、リグレとぶつかりました。どこまでも愚かな――」

 カイルは片手で顔を覆い、もう片方の手で胸をつかんで爪を食い込ませるような仕草をした。ルゼットは慌てて胸の手をつかみ、空いた手で震える肩を撫でた。

 カイルは顔から手を外し、切ない表情でルゼットを見た。

「聡い人ならわかってくれるはずだと過信した罰です。優れた頭脳を持っていても、人は感情での判断を優先させることがあるのだと思い知りました。そこまできてようやく、あなたがなぜ、俺たちから翼を取る決断をしたのかがわかりました。あなたは……兄さんは〈ウェジニールの翼〉から俺たちを守りたかったんでしょう?」

「………」

 もちろんそのとおりだ。自分自身、見えざる彼らの存在とずっと闘ってきたのだ。

 カイルは答えを読み取ったようで、肩から力を抜き、ひとつ息を吐いた。

「それを理解してから、兄さんのことが気にかかるようになりました。リグレが時々知らせてくれていたけど、あえて記憶に留めないできましたから」

 だからガレイルに尋ねましたと彼は呟いた。

「翼を持つ重さに耐えかねて生きる気力を失いかけたこと。それを試験国の若い指導者が救って受け入れてくれたこと、彼のためにクローンを産んだこと……そして今回、翼ある子を望まれ、背に宿したこと。それを聞いたとき、やるべきことが見えたと思いました」

 カイルは、今度はしっかりした目線でルゼットを見た。

「あなたから分離する子どもがどんな姿形をしていても、対処できる医者になってみせる。それが今の俺の目標です。身勝手な言い分だけど、時々でいい。俺にあなたと、あなたの大切な人たちを診させてください」

 はっきりと告げたカイルは、けれどもどこか不安げな光を眼差しに宿していた。

 変わらない――変わっていない。

 そう思った瞬間、フツフツしたものが胸の奥から込み上げ、それは肩を震わせる喜びに変わった。

「……兄さん?」

 突然、笑いをこらえだしたルゼットを、カイルが困惑顔で見た。

「だっておまえ、そんな立派な男になっても、お願いするときの顔つきが変わってないから」

 嬉しくて、切なくて、笑わないと泣いちまいそうなんだよ。

「……あなたも変わってないですね。歯に衣着せないところが」

 カイルの顔にスッと渋面が浮かぶ。

 こういうところは変わった。笑う機会が減り、眉間に皺を寄せることが増えたからだろう。

 ルゼットは感情の昂りを鎮め、カイルに向き直った。

「フェロデが生まれたときの話は聞いたか?」

 カイルは渋面のまま頷いた。

「ある程度ですが」

「あのな。おれの背中、最後の二週間で一気に重くなるんだよ」

「そうなんですか?」

 カイルの表情が改まる。ルゼットは気安い口調を心がけた。

「そう。皮膚も一気に膨らんできてさ。なんだか固くなったなーとか思っていたら、どんどん重くなって、予定日の前日なんて、石でもしょってるのかと思ったくらいで起きる気も失せたよ」

「それは、なんとなく想像がつきます」

 なるほど、とカイルは研究者の顔になった。

「それで、当日は皮膚の固い部分に亀裂が入って」

「亀裂……」

 カイルはちょっと怯んだ。

「卵みたいに割れたんですよね。あの、痛かったですか?」

「いやまぁ、さすがに。でも割れたときは、中身はもう分離していて、背中には新しい皮膚ができてたんだ」

「え? 繋がってはいなかったと」

「ああ、胎盤ごと羊水と一緒にザバーっと出てきたって。女の人よりはずいぶん安全みたいだな。けどそのあとが困ったんだ」

「そのあと?」

 カイルがごくりと喉を鳴らす。ルゼットはふと風の冷たさに気がつき、「そろそろ行くか」とカイルを促した。

「そのあとどうなったんです?」

 先に戻り始めると、カイルが足を早めて横に並んだ。

 その様子がまた胸を温かくする。

「どうなったと思う?」

 会話を引き延ばしたくて逆に質問してみる。

「ええ? うーん、そうですね……」

 考え込むカイルには悪いが、医学的にはたいしたことではない。とある部位がいきなり世の女性たちと同じレベルにまで発達を遂げ、二週間ばかり赤ん坊にそれを提供する羽目になったのだ。

「体の機能が著しく低下したとか?」

「んー。まあ少し体力は落ちるか。でも正解じゃないな」

 自前でそれをするとは予想外で驚いたが、よく考えてみたら当たり前だ。自分たちは色々なものをエネルギーに変えられるが、赤ん坊がエネルギーを補給するには手段がひとつしかない。電脳は賢くも培養体の種別に合わせ、ルゼットの体を対応させたのだ。それが二週間だったのは、あとは外部から補給できるとの判断だろう。

「ヒントはやたら腹が減ったことかな」

「分離したあともエネルギーを使った、ということですね……」

 カイルが眉根を寄せているうちに、白い石造りの壁に穿たれたアーチ型の入り口が迫ってきた。

 カイルは負けず嫌いだから降参はしないだろう。しばらくは会話に戸惑わなくて済む。そして正解が出る頃には、そういった気遣いが無用になっていればいい。

 そんな願いを込め、ルゼットは横にある顔を見上げた。

「時間はたっぷりある。ま、よく考えろ」

 言いながら手振りで先に行くよう促すと、彼は不満そうな顔をしながらも「はい」と返事をしてアーチをくぐった。その背中を追いかけながら、ルゼットはこれからのことに思いを馳せた。

 今度、カイルのいるときにリグレを呼ぼう。フィルスとは気が合いそうだし、フェロデはさらに喜ぶだろう。

 それからアルバータ基地にあるウルクとジェトリの骨を、フレシ湖が見えるあの高台に移そう。カイルが来てくれるなら、もうあそこに置いておく必要はない。

 そうして三人で働きかければ、いつかフェリオルが父さんを返してくれるかもしれない。

 彼が心から望んでいた風景を、翼ある者が受け入れられる姿を、たくさん見せてあげられるかもしれない――。


続編の編集と同時進行で進めていたら、こちらが先に仕上がってしまった(++)。

長らく止まっていた作品でしたがどうにか形になりました。ちょっと変わり種ですがベースは似たような感じです(元気な美少年やら我儘なイケメンやら)。気軽にお楽しみください。

※2018.9.17,編集改訂



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