MAYBE BABY(2)
国語の授業が終わってから放課後までの授業は、なんとか集中してこなすことができた。心配をかけてしまったとは言え、全て打ち明けることが出来る人が時間をくれるというのは心強く感じる。……まあ、そのために何時間も授業を呆けていたという事実は流石に言えないけど。
ひょっとしたらミヤビさんならナオさんの心境の変化も知っているかもしれない。そういう打診もあったからなんとか話をしたかった。
クラスで川名先生による終礼が終わって、単身国語科準備室へと向かった。久我山くんがしつこく付き添いを申し出てくれたけれど、まっすぐ帰ることを促した。なんというか、彼はお人よしなのではなくて恩着せがましいとか、他に相手してくれる人がいないんじゃないかと思い始めてくる。
「失礼します。3年3組の倉敷です。谷川先生はいらっしゃいますか」
言葉と規律に厳しい職員室の扉をノックしてから開いて、そのまま声出しをする。
「おう来たか。入れよ」
入り口からの視界を阻むように設置された職員用ロッカーの向こう側から、ガラの悪い言葉が返ってくる。
「失礼します」
1つ、また1つと、間違わないように手順を踏んで中に入る。……それにしても、やっぱり場所を考えるとミスマッチな会話だ。
ロッカーで遮られていた視界が開けると部屋の中央を陣取るようにオフィスデスクが6つ並んでいて、更にその奥に応接用のソファとローデスクが設置されていた。
さっき入り口から声を掛けた僕に返事をした谷川先生は、一番奥のソファに腰掛けていた。ローデスクを見つめるように顔ごと視線を下げる姿勢をしているのだけど、ウエーブのかかった髪が顔を隠してしまっているし、決して短くはない両脚を蟹股のように開いて座っているのもあいまって様相が全部怖い。
幅広く生徒から恐れられているミヤビさんに対して、多様化が求められている現代で「女性らしく」なんて言葉を出す勇気は毛頭ないけれど生徒に対峙する姿勢としては間違っている気がする。
「失礼します」
念のためにもう一度挨拶をしておく。僕たち生徒からしてみれば畏敬の対象である先生の巣窟である職員室の中を堂々と胸を張って歩くなんてことは恐れ多い。他の先生から「声が聞こえなかった」などと勝手に侵入してきたと勘違いされるのも怖かった。
ちなみに他の先生は……1人しかいないみたい。それもこの4月に入ってきたばかりの新任の先生だ。名前は……担当教科に当たってないから覚えていない。
「ここ、座れよ」
奥から聞こえてくる声に首を高速で動かすと、ミヤビさんは自分の座るソファの正面側を指差していたので指示に従う。僕がちょうど真横を通る際に、新任の先生は不審な動きをしていた。ひょっとしたら赴任したばかりで「対生徒用のミヤビさん」にまだ慣れていないのかもしれない。
ちなみにミヤビさんは僕が高校2年生の頃にうちの学校へ赴任してきた。初授業で酷い口調を聞いたその日にオンラインでチャットをして、職員室でのミヤビさんの話し方について確認をしたことがあるのだけど「バッカ野郎お前、職員室でもあんな話し方するわけねえだろ」と言っていたから、職員室ではしっかり大人びた言葉遣いをしているのだと思っていた。
「あ、益山せんせー。今から進路指導の話するんで、ちょっと席外してもらえますー? そうだ。嫌々顧問を押し付けられたバスケ部とか見てきてやってくださいよ。いつもここで待ってるだけっぽいし」
わあ、すごい。これが大人な会話なのかな。
そしてあの人は益山先生っていうのか。ミヤビさんが億分の一くらいの確率で今年度中に休むことになったら担当されるかもしれないし一応覚えておこう。
「ひゃ、はい!」
先輩教師から仕事にケチを付けられて、職員室から出て行く益山先生がかわいそうに思えた。あ、出しっぱなしになってるミヤビさんの机の椅子でつまづいてる。方々に向かって謝りまくっている姿がなんとも惨めだ……。
ただ、これでいよいよこの職員室には僕とミヤビさんの2人だけとなった。
「……さて、とりあえず言っとくことはあるか?」
僕がソファに腰かけるや否や、正面に座っているミヤビさんはローテーブルに両肘をつき、両手の指を交互に組ませて顎を乗せた。ローアングルからこちらに向かってくる鋭い双眸はまるで蛙を睨む蛇のようでいて、放つ言葉を1つでも間違えればそのまま遺言にされてしまいそうな恐ろしささえある。
「僕の悩み事なんかのために谷川先生のお手を煩わせてしまって、ごめんなさい」
「ふーん……」
ひとまず、第一声は正解したらしい。相対したミヤビさんの瞳が一瞬緩んだように見えた。「そのまま続けろよ」と言うかのように顎で僕を指して、次の言葉を待ってくれた。
ミヤビさんがナオさんや僕と一緒に遊んでいたのは2年前の春休みまでだった。大学卒業と共に就職が決まったというミヤビさんの「私仕事で忙しくなるから遊んでらんねーわ」という言葉でお別れをした。……ただ、その直後に僕が通っている学校で再会した訳だけど。
そしてその時はミヤビさんの表情から、殺意と共に湧き出ている「ここでハンドルネームを呼んでみろ。転がすぞ」というメッセージをくみ取って他人のフリから関係を始めた。
”ミヤビさん”という人物像を理解している僕は“谷川先生”の授業でも気を抜くことなどもちろん出来ず、谷川先生が担当になった2年生の1年間、国語の教科だけは常に学年トップの成績を取り続けることができた。そう、ただ怖いから。
「……実は、ナオさんと喧嘩をしてしまって」
ナオさんとは高校時代からの友達だという。そして「私のツレを害する奴は後悔するまで転がす」なんて物騒なことを常々口にしているミヤビさんには言いづらい言葉だった。
「なんで?」
案の定怒られた。いや、静かにキレられていると言った方が良いのかも知れない。普段聞いている言葉とは違うイントネーションが出てきて、頭が混乱する。音が上がりも下がりもしない、一辺倒の発音で問いただされることで悪寒が走った。おそらくミヤビさんが決めている「怒っている時に使う言葉遣い」と、僕を逃さないように再び険しくした蛇のような目付きが僕を追い詰めてくる。
「僕がナオさんに、嫁と呼ぶのは辞めて欲しいと言いました」
「はーん……」
息も絶え絶えになりながら僕が出したら返答を聞いて、ミヤビさんは両腕をソファの背もたれに乗せる形で天を仰いだ。凝視されていた目線を離されたことで少し、解放された気持ちになった。
「で? それは、どういう意味なん?」
と思ったのも束の間。今度は身体を乗り出して、至近距離で目線を絡めつけられる。表情に浮かんだ脅迫めいた感情が依然続いていて怖い。
「実際には、結婚していないことと、僕が男だっていうことが――」
「あ? そんなことで?」
目の前にある、ミヤビさんの眉間に皺が寄った。返答を間違えた?……いや、本当のことを言うべきだったのか。
「それと!」
今にも僕の首を掴もうと伸びてくる右手を視界の端に入れながら、なんとか言葉を絞り出した。同時に勢いが止まった掌に、少し安心する。
「僕が……ナオさんを、嫁と呼びたいんです!」
何故か背後からガンッと、鉄に何かが当たったような音が聞こえた後、部屋は静かになった。
○ ○ ○
言ってしまった。中学1年生の頃に始めたオンラインゲームで交流を持ち、2年生の頃に初めてオフラインで会って、そこから4年間。思春期から暖めてきた感情を。
僕が精神的にも物理的にも、言いたくても言えなかった感情を吐き出せたからなのか。はたまた僕をずっと睨み続けてきたミヤビさんの目付きが、いつものちょっと悪い程度に戻ったからなのか。もしくは真一文字に結ばれていた唇が歪な三日月のように片方が吊り上ったからなのか。どれが理由かはわからないし、どれもが理由なのかもしれない。
けれど、今までに鬱屈していた気持ちがかなり楽になった。
「それ、あいつに言ったか?」
右側の口角を釣り上げた、ニヤニヤという音が似合う笑顔でミヤビさんが聞いてくる。さっきまでの般若のような顔も怖いんだけど、これはこれで不穏だ……。
「春休みはタイミングを逃して……。で、始業式に駅で待ち伏せしたんですけど言えずに……」
「どーせ頭ごなしに拒絶したんだろ。あいつは」
僕の返事を聞くなり、ミヤビさんは一気に息を吐き出すようにハッと笑って「央美には喧嘩の仕方教えてねぇからな」と付け足した。
何を言っているのか全く分からず、頭の上にはてなマークを出したい気持ちの僕を見たミヤビさんは、そのまま不気味な笑い顔を浮かべたままソファから腰を上げて自身のオフィスデスクへと向かった。
「そういうことだってよー。おーみ」
言いながら歩いて、机にちゃんと納められないまま乱雑に配置されていたキャスター付きの椅子を退けるミヤビさん。僕はその言葉が信じられないまま、まさかという気持ちで後ろをついて行った。
「え、ナオさん……?」
スカートスーツのままタイル床に三角座りをしているナオさんが、キャスター付き椅子の代わりに収納されていた。思わず「そんなところで何してるの?」と聞きたくなる状況だけど、今はそれどころじゃなくて口を噤んだ。
「出て来い」
ミヤビさんに腕を引っ張られて机の下から出て来たナオさんの顔は、まるで茹で蛸のように赤くなっていた。でも、たぶん。僕は人のことを言えない。
けれど、ナオさんのテンパり様は僕を上回っていたらしい。
「えっと、あの、これはね? ミヤビが放課後に準備室まで来いって言ってきて。そしたら押し込められちゃって……」
あ、そこ説明します?