Holdin'Out(2)
体育館での始業式が終わった後、新しい担任の先生に引率される形で僕たちは教室に戻った。引率と言っても僕たちが朝、式の前に集合していた教室にそのまま戻るだけなので行き道はもちろん理解している。まあ、校舎を利用するのも今年で3年目ともなれば尚更だけど。それでも新任の先生に先頭を歩かせるというのは1種の儀式的なものなのかも知れない。今後1年はこの人について行くのだという認識を深めるための。
「先ほど始業式でも挨拶しましたが、川名央美、教科担当は数学です。お休みに入られた大原先生に変わって、今年1年間、3年3組の担任を持ちます。よろしくお願いします」
新任の川名先生は生徒を教室に入らせて着席させるなり、はきはきと話した。言い終えてからぺこりと首を垂れる形でお辞儀をした時に、後頭部から伸びるポニーテールの根本がぴょこと覗かせた。
肩まである長さを後ろで一纏めにした黒髪と切れ長の瞳、長く細い四肢を持つスレンダーな身体を包み込む皺1つないグレーのスカートスーツという格好が綺麗にまとまっている、そんな印象を受けた。丁寧な言葉遣いからはとても、キツめだなんて印象は受けない。
「短い間だけどみんなの担任として精一杯頑張るから。勉強とか進路とか、なんでも相談受け付けるね!」
そう続けると、柔らかそうな唇を開き、切れ長の瞳を更に細めて笑った。うん、どう見ても良い先生だと思うよ? だから久我山くんは先生を睨みつけるのをやめなよ? 始業式の途中で新任の先生たちが挨拶のために登壇した時だって「あいつだよ! 新しい担任!」とか言って騒いで白い目で見られた上に、直後に新任の教頭、ホシミユキ先生にも怒られたんだから……。
つつがなく始業式後のホームルームが終わると、川名先生は女子生徒に絡まれるのもそこそこに職員室へと戻って行った。おそらく生徒との距離感も気を付けなくてはいけないのだろう。特に、先述の教頭先生なんかは挨拶で「先生と生徒の距離感について」なんて話し始めたし。事前にそういった話も聞いているのかもしれない。
……しかし、だ。下校時間が早いというのは僥倖なのかもしれない。
早くに学校を出ればナオさんに会えるかも知れない。そう考えた僕は学校帰りに最寄りの駅でナオさんが通るのを待つことにした。
ナオさんと連絡をしなくなってから今日で2週間。連絡がない間に引っ越しをしたとかそういう事実もあるかも知れない。ただ、夏休みもほとんどの時間を僕と遊んでいたようなナオさんには他県の採用試験を受けるような暇もなかったと思う。それに車の免許も持ってないと聞いた気がするから、移動手段も電車のままなのではないかと睨んだ。
今、僕に出来ることはこれしかないと思った。
「遠くに行く時はミヤビが連れて行ってくれるしー」なんてナオさんがそう言うのに対して、ミヤビさんが呆れていた光景を思い出す。
ミヤビさんはナオさんが高校生の頃から付き合いのある女性で、僕よりもナオさんのことを知っているし仲も良い。僕もナオさんによって開かれたオンラインゲームのオフ会で顔を合わせたことがあって、それからは連絡を取ることはできる関係ではある。ちょっと怖い人でもあるから、僕から進んでは連絡をしないのだけど。
僕と2人で遊んでいた2年の間にミヤビさんと一緒に遊ぶことはなかったし、僕からナオさんに個人的なことは聞かなかったことを考えると、もしかしたら自分で免許を取った可能性もある……のかもしれない。けれど、ナオさん本人が自動車免許に必要性を感じないと言っていたことを思うと、その言葉を信じるしかない、かな……。
「なに、してるの?」
そんなことを考えていると声をかけられた。少し訝しむ感じのする声ではあるけども、2週間ずっと、僕が聞きたくて待ち焦がれていた声だ。
「ナオさん……」
視界に入ったパンプスのヒールから見上げると、この前まで毎日のように見てきた顔があった。と言ってもこれまでに僕が見てきた”ナオさん”とは違って肩までの髪は後ろで1つにまとめられているし、眼鏡もかけていない。仕事用のコンタクトレンズだね。
そして、いつもは柔らかな印象もあった切れ長の瞳も険しく細められていて何とも言い難い表情をしている。それらを総じて考えると僕が待ち焦がれていた表情だとは断言できない。
服装だって休日に見ていたジャージ上下などというものではもちろんない。皺1つ無いきっちりとしたスカートスーツ姿であることも相俟って、言葉を交わしていないと別の人だと思ってしまうかもしれない。
「……あのね、流石にストーカーっぽくて怖いよ」
ナオさんのスーツ姿をまじまじと眺めていると指摘をされてしまった。確かに、客観的に考えてみれば今の僕は相当ヤバい。5年間の交流経過はあるにせよ、行動パターンを推測した上での待ち伏せというのはまさしくストーカーの手口だと思われる。
「ごめんなさい」
「……とりあえず、このままここにいるのも何だから移動するよ」
素直に謝ってみても受け入れられることはなく、その場から移動を促された。言うよりも早く歩き出していたナオさんは僕を置いて改札を通っていた。……これは呆れられた可能性もあるかな。
乗車ホームに降りるために階段を歩くナオさんの、頭の後ろで1つにまとめた髪がぴょこぴょこと上下に揺れるのを見つめながら、こっち側のホームってことはやっぱり引っ越しはしていないんだなとか、ナオさんのまとめた髪が動いているのがなんだか可愛いなとかそんなことを考えていた。
「それでどういうこと? あんな所で待ち伏せなんて」
だから、ナオさんの詰問が再び始まると、少したじろいでしまった。思えば、直接会って話そうということしか考えていなくて、何を話そうというプランも立てないままでいてしまった。
そして、そんな僕を見るなりナオさんは電車の時刻表と時計盤を見て、ため息を1つ吐いた。次の電車の時間を確認したようだ。早めに切り上げたい様子がうかがえるけれど、どうやらちょうど電車が出た後だったらしい。ともすればもう少し時間があるはず。
「……ナオさんが、急に音信不通にしたんでしょ」
気持ちに余裕が出来たからか、言葉が出てきた。ちょっと非難めいた言い方になってしまったけど、僕だって少しは怒っていることが伝わってほしかった。
「もうあのゲームをやってないんだから結婚状態をやめたい。そう言ったのはチヒロ君でしょ」
でも、光の速さで僕の非難は看破された。僕を見下ろすナオさんの、眼鏡の奥で光る切れ長の瞳が怖かった。いまにも僕を貫きそうな、そんな鋭さを持っているように感じる。もしかしたらもう目も合わせてくれないかも、と思っていた僕はその考え自体が甘いものだったのだと思い知らされる。
「だから君の望み通り。結婚状態のゲームは放置しているからアレとして、毎日のように連絡を取るのも、家に来るのも、気軽に会うのも全部無しにした。それなのにこんなストーカーみたいに……」
諭すように話すナオさんの表情が歪む。怒りの感情は薄れて、悲しくて困り果てたような、そんな表情。僕の軽はずみな言葉がナオさんを傷付けてしまったのだと言うことを認識する。
でも、本当は違うんだ。
「あのね、ナオさん。本当は――」
「とにかく、こういうのは辞めた方が良いよ。君だって私を待ってる間、この駅に突っ立っていた時間は駅の人にも他の利用者の人にも不審に思われたんだろうし。今日何も言われずに済んだとしてもそれは運が良かっただけ。……それに、それは君と話している私にも及ぶことだし。私には社会人として、仕事上の立場もあるから」
でも、僕が本当に伝えたい言葉は途中で跳ね除けられ、叱られる。正論を突き付けられると返す言葉もない。
僕はただ、何も言わずに項垂れた。
「ただいまより、2番線に――」
途方に暮れるための隙も与えないようなタイミングで、電車の到着を知らせるアナウンスが鳴り響いた。あまりにも明るく軽快なメロディが、僕を嘲笑っているような錯覚さえ感じて嫌な気持ちになる。
「君は反対側の線でしょう? 一緒に乗らないでね。もしついて来たら声を出すから。……あとそれと」
トドメを刺すように放たれる断絶の言葉に、何もする気が起こせなかった。でもきっと、この言葉は優しさだ。それを越えたら、僕は本当に許されなくなるのだろう。
「公の場でハンドルネームを使って呼ぶのは辞めてね。私、ネットとリアルは分けたい人種だって、知ってるはずだよね?」
ナオさんは電車に乗り込むとドアの横に立って僕を振り返った。
「……じゃあまた明日、学校で会いましょう。倉敷君」
そして、困ったような、悲しむような切れ長の瞳で、にへっと微笑みながら僕の名を呼ぶ川名先生を、ただ何も言わずに見送った。
○ ○ ○
1人で立ち尽くす駅のホームで、僕はいくつかのことを考えていた。
例えば、洗面台に放置されたコンタクトレンズのパッケージ、あちこちに落ちとされている僕のものよりも長い毛髪、シンクに洗われないまま放置されたお箸や鍋、全て、ナオさんの部屋の光景。
これまで僕が訪れる度に片付けていた部屋の様子を思い出しては、ナオさんは全部自分自身で出来ているのかなと心配になる。
ゲームの上での婚姻関係だからと仕事の話やプライベートについては口出しも質問もしなかった。だけど、ナオさんの部屋に遊びに行く度に部屋中の掃除をさせられた経験から、僕はいくつか苦言を呈したことがあった。
「コンタクトレンズのパッケージくらいちゃんと捨てなよ。それかずっと眼鏡にするか」
「髪、束ねておけば落ちないんじゃないの? って、言ってるそばから掻かないでよ。落ちるんだから」
「ナオさん、この鍋は今朝の? それとも昨日? 逃げるなっ!」
どれも、ナオさんのだらしない生活スタイルに対しての文句ばかり。そして何を言ってもナオさんは、にへっと笑って「ネットとリアルを切り替えるためだから仕方ないねー」なんて言って誤魔化そうとする。そんな姿に僕は心の中でムカムカしながらも仕方がないなぁなんて許してしまう。全部、楽しかったんだよなぁ。
ただ1つ、僕が僕たちの名前を気にしたから。
つまらないこだわりだったのだろうか。
それとも……。