bye bye popsicle(2)
「お風呂掃除、終わったよ」
慣れというのは恐ろしいもの。何度足を踏み入れたか数えられないほどに掃除を繰り返した浴室の勝手は知り尽くしていて、浴槽だけでは飽き足らず脱衣所の洗面台までも手際よく綺麗にしてしまった。
自分でも言ったように、僕はナオさんにゲームで勝ったことがない。そういう職業が実際にあるのかは知らないけどプロゲーマー顔負けの腕と知識を持つナオさんには歯が立つ訳がないのだ。
例えば、今日の勝負は対戦格闘ゲームだったけれど、ナオさんは全キャラの技モーションとそれにかかる秒数を把握しているという話を聞いた事があるし、以前やったことのある“協力プレイのゲームでどちらがボスのトドメを刺すのか”という内容の場合だとナオさんは、常にボスの体力を考えて戦うなどと言うのだ。どの武器でどう攻撃すればいくらのダメージが入り、ボスがどういう行動をすればいくら回復するのか、コンピュータ並の計算能力を持つ相手には勝ちようがないと思う。――ただ、そう思っていてもナオさんの勝負を引き受けるのはある種、難しいゲームほど燃えるという、ゲ―マー魂をくすぐられているのかもしれない。
「ありがとーチヒロくんっ。良いお嫁さんをもらって私は幸せ者だよ」
他人の、しかも6つも歳の離れた男子に自分の家の水場掃除をさせた張本人であるナオさんはと言うと、スマホを持った片手を上げる動作でリビングに戻った僕を迎えた。僕がリビングから離れている間に別のゲームでもしていたのだろうか。それとも、小難しい顔で画面を睨んでいるのが一瞬見えた気がしたから仕事の連絡なのかもしれない。
……そういえば、ナオさんから仕事の話ってあまり聞かないな。
「怖い顔してどうしたの、ナオさん。……仕事の連絡でも来た?」
聞いていいのかどうなのか、わからなくて少し遠慮気味に聞いてみる。
ナオさんは先生をしているらしい。“らしい”と言うのも、例えばどこに勤めているのか、何の先生なのかとか、ナオさん本人から言われない部分は踏み入られたくないのかなと思ってしまう。
もっといろんな話を聞きたい。できる事なら支えたい。けれど、男子高校生程度ではお話にならないのかも知れない。
そんな不安感が伝わってしまったのか、ナオさんはふっと微笑んで部屋着にしているジャージのポケットにスマホを入れると僕の頭に手を伸ばした。
「大丈夫だよチヒロくん。心配しないで。お仕事はなんとかして、大事なお嫁さんは私が養ってあげよう」
そして、また僕をからかうようにしておどける。
「……あのね、ナオさん。それやめて欲しいんだ」
思わずため息が出そうになるのをこらえて、真正面に立って向き合った状態で抗議をする。きょとんとした表情で首を傾げるナオさんは可愛く思える。けど、それとこれは話が別で。
「嫁って言うの」と補足をすると、あー……なんて言いながら、肩くらいまで長さのあるぼさぼさの髪を爪で掻いた。
「つい、昔からの癖で。ね?」
「僕がナオさんのお嫁さんっていうのはゲームの中の話だし、そのゲームだってグループのみんなとももう会ってないでしょう?」
出会ってから5年の付き合いで、ナオさんが僕の抗議をいなすやり口はわかっている。申し訳なさそうに言葉だけ謝って、はい仲直りとでも言うようににへっと笑っておしまい。
もちろん僕だってナオさんの笑顔は嫌いじゃないし、それを見てしまうと情に流されてしまうことはわかっているから、僕は言葉を続ける。
「あの時、本当は結婚したらゲームが有利になるってことだけ考えてたし、むしろゲームトップランカーのナオさんからどんな施しを受けられるかさえ考えたし。更に言えば男キャラから結婚申し込まれた時は、こっちの中身は男なのに気付いてないんだろなって心の中で笑ったこともあるし。でもオフ会でいざ会うぞって時は、僕が男だってわかったらガッカリするんだろうな、なんて思ったりもしたけど……」
想いのまま話していくと、なんだかよくわからない方向に話が変わってしまっている気がする。
「ん、わかった。わかったから、な。ごめん」
言葉が失速した様子を見て、困った顔をしながらもナオさんは謝罪の言葉を口にする。そうした後、にへっと笑って眼鏡の奥にある切れ長の瞳を更に細めた。
違うんだよ。僕はナオさんを困らせたい訳じゃなくて……。
「ナオさん、聞いて」
いつも通りの対処をされ、このままじゃ変わらないと思うと感情と一緒に言葉が溢れた。
「そうだね。じゃあ、やめよう」
「え?」
なのに、思いもしなかった返答が来たので、もしかしたら泣きそうな顔でもしてしまったのかと心配になる。
わがままを言って聞いてもらうつもりはなかったのに。そう思ってまぶたに指をやってみると、幸い濡れてはいなかった。
「チヒロくんがそんなに嫌がっているとは思ってなくて。ごめん」
「いや、うん……」
目線の少し上にある、気まずそうに笑う表情にいたたまれなくなる。もしかしたら、今までのままの方が良かったのかも知れないとさえ思い始める。
「……今日は、もう帰るね」
だから、ひとまず逃げることにした。ナオさんの悲しそうな顔を見ていられなくて、背を向けた。
「僕の学校、再来週から新学期だからさ。それまでに時間あったらまた教えてね。ナオさんもそろそろ忙しくなるかもしれないんでしょ?」
「ん。そだね」
土間で靴を履きながら言葉をやりとりする。気まずくて顔も見られない、曖昧なやりとりにもやもやする。かと言って、無理に笑おうとするナオさんも見たくない。
「また」
扉を半分通って、下半身をマンションの廊下に出した状態でナオさんに向かった。わずかながらだけど、やっぱり悲しそうな顔をしているのが見えた。
「ん」
短くだけど返事をくれるナオさんに片手でばいばいをして扉から離れた。
2、3日、一週間くらい。時間が空けばこんな気持ちも消えると思う。
そうしたら、今度はナオさんと新しい関係を築くこともできると思って、泣きそうな気持ちをこらえて家までの道を急いだ。
無事に帰宅した後。いつもは定期連絡として送りあっている帰宅報告を、送ろうとしてなんとなくやめた。
そして、いつもなら僕がナオさんの家を離れて1時間後くらいには届く、無事に帰宅できたかを確認する言葉と次に遊ぶ日の都合を聞いてくれるメッセージも来なかった。
あの日、帰宅してすぐにメッセージを送らなかった僕が悪いのだけれど、どうして連絡が来ないのかと思い悩んでいる内に新年度の前日を迎えてしまった。
「ナオさん、最近連絡ないけど忙しい?」
こんなはずじゃなかった。そう思って勇気を出して発信したメッセージは、宛先不明としてナオさんに届かないまま僕のスマホに返ってきた。
(2019.3.27)文章の調整に合わせて小題変更しました。
まま借りなので、後日また変更する可能性もあります。
popsicleというのは棒付きのアイスキャンディのことだそうです。