夏の終わり
番外編2です。
ある秋の日の、仕事終わりなナオさん。
今日中に済ませてしまいたかった仕事を終えて学校を出て、毎日通り慣れた道を辿る。
駅に着いて改札を抜けて、ちょうど来たばかりの電車に乗り込む。満員というほど混雑はしていないけど、椅子には座れなかった。仕方がないから通勤バッグを腕に掛けた状態でスマホをいじることにした。メッセージアプリを起動して、1番上に表示された履歴を開いて文字入力を進める。
『今、仕事が終わって電車だよ』
送ってから表示される送信時間を見て現時刻を確認する。もう、7時……随分と遅くまで残っちゃった。そう思うと同時に、夕食時であることを考えて今送ったメッセージはすぐには見られないのだろうと想定する。
じゃあ、しょうがないねー。なんて心の中で呟いて、そのままゲームのアプリを開いた。
最寄り駅に到着して、流れるように電車から降りた。出かけるような場所は特にないけれど住宅が集まっているこの駅は、私以外にも利用者が多い。押しつぶされないように、手にしたスマホを落とさないように、気を付ける。
10分ほど歩いて、ようやくの所でマンションに帰りつく。レターボックスを確認してみても、住宅購入や終活などのどうでもいい広告ばかりが入っていてげんなりする。
玄関扉のオートロックを解除してホールまで入ると、エレベーターの現在地を表示する電子パネルがちょうど“1”になっているのが見えた。自分の部屋があるのは9階なので、これを逃すと面倒なことになると思ってそのまままっすぐ乗り込んだ。なんだか今日はタイミングが良い。
上階への移動中に左手首の内側を上に向けて、腕時計で現在時刻を確認する。電車の中ではゲームアプリが動いていたし、歩行中は暴漢を警戒して歩いていたから時刻確認ができなかった。
「もう8時……かぁ」
1人きりだから、とエレベーターの中で意味もなく呟いた。
電車に乗ったタイミングで7時頃だったことを思えば妥当な時間だし、いつもより別段帰りの時間が遅くなってしまったとかそういう訳では決してない。ただ単純に、今の時間から夕飯を作って食べるということが億劫に感じられた。
もう今日は食べなくても良いんじゃないの。なんて一瞬思ってしまうのだけど、私の脳内で1人の男子高校生が、ちゃんと食べなきゃダメだよ! だなんて頬を膨らませながら私を叱りつけてくる。
「はいはい。ちゃんと食べますよー」
エレベーターが目的階に近付いているのを確認しながら私は、自分の妄想に対して返事をした。ところで、このエレベーターって非常用のカメラとか付いてるのかな……だとしたら私は相当危ない人に思われるかもしれない。
……それはそうとして、私の帰宅が遅いのは今住んでいるマンションが職場から遠過ぎるのが悪いんじゃないかという懸念はある。大学に入る時に1人暮らしをするための部屋を選んで、なんとなく居心地が良くて卒業した後もそのまま住み続けた。最初から数えたらもう5年だっけ。住めば都の我が寝城とはまさにこのことだ。
6畳と12畳の1LDKバストイレ別――しかも追い炊きウォシュレットも付いている部屋を擁する。更に玄関はオートロックも付いていて月々管理費込みで7.5万円というのは良い物件なのではないかと、これより良い条件の部屋を見つける方が面倒なのではないかと、自室のドアを開けながら考える。
ワンルームの方を寝室兼衣装部屋としてしまえば、広いLDK部分に友人を呼ぶことも出来るし、大学生活の延長戦として考えればまあまあ良いでしょう。2人以上で住むことを考えると無理があるだろうし、実際「男も連れこめなさそうな部屋だ」なんて友人に揶揄されたこともあるけど。働き始めて一年目から同棲だとか考える気持ちも余裕も無いし、私にはこれがちょうど良い。……一緒に住みたい人もいるにはいるけど、関係的にも、年齢的にもまだ早い。
さて、とりあえずはご飯を食べよう。
メニューを考えるのに、まず主食をどうしようかと悩んだ。お米は炊いていないし、冷凍庫に入れた炊き置きも今朝使ってしまった。今から新しく炊くには1時間ほど待たされる。それならばパウチのレトルトライスを……と考えながら買い溜め食料の棚を開いてみると、良いものを見つけた。
「まだ残ってたの……」
棚の端っこで鎮座ましましていた素麺の袋を取り出しながら自嘲気味に呟いた。これは確か、今年の夏前に実家の母から送られて来た仕送りに入っていたものだ。
『こうでもしないとあんたは食べないだろうから』
届く度に申し訳ない気持ちを抱きながら感謝の電話をするのだけど、その都度こう言われてしまう。……年下からも年上からも食生活を心配されていることを思えば、流石に自分でいろいろやらなくてはと考えさせられる。
よし。時間も体力も無いから今日はこれでいこう。3把入っているから全て茹でてしまって、冷蔵庫に入れて明日に持ち越ししよう。
キッチンで大鍋に水を張って火にかけて、素麺の袋を横目にお湯を沸かしていると、なんとなく“夏の終わり”を感じた。
大仰に言ってみて、その実大した事は何もなくて。素麺という夏の季節物を始末してしまうことに、少しセンチメンタルな気持ちになってみただけ。
「なんて、ちょっと詩的すぎかな」
自虐的に呟くと、タイミングよくタイマーの音が鳴った。けたたましく響く音をストップボタンで止めて、鍋から1本だけ取り出して茹で具合を確かめる。
「ん、こんなもんでしょ」
麺だけだといまいちわかりづらいけれど食べるときはつゆで味付けするし、冷蔵保存する分は明日か明後日のお吸い物に投じて煮麺にすれば良いと考えた辺りで、面倒くさくなってきてやめた。
用意していたボウルとざるで水にさらして素麺をしめた後、3分の1ずつに分けて1つはつゆを注いだ器と共にテーブルへ。残りは冷蔵庫に入れておく。
「いただきます」
普段学校で1人の時には忘れがちだけど、食事の挨拶をした。つい先日まで、夏休みだからと毎日のように男子高校生が部屋まで遊びに来ていた。その子がまた私の生活面に関してとやかく言ってうるさかったので習慣付いていた。いや、本当は毎食しっかりしなくちゃいけないんだろうけど。毎日のように言われ続けたからかシチュエーションで学習したらしく、自分の部屋では忘れずに言っている。……もしかしたら冬休みが来る頃には忘れているかもしれないけど、今はこの慣れに従うことにしよう。
流石に素麺だけと言うのも寂しいし健康面によろしくないということで、これまた買い置きしていた椎茸の瓶詰めと、刻んで冷凍保存していた青ネギを添えて麺つゆで啜る。
夏だ。この部屋だけは、まだ夏なんだ。
なんだか“スーツを着たまま1人飯をするおじさんの漫画”に出て来そうな文句を考えながら、9月ももう終わりだという時期に1人夏を感じていた。
食後はお風呂のお湯を準備しながら洗い物を済ませて入浴をする。
化粧を落として、コンタクトから眼鏡に変え、自宅用のジャージに着替え。仕事モードからすっかりリラックスモードに移行した私は、スマホでしばらく放置していたメッセージアプリを立ち上げる。帰り際のメッセージに対して『お疲れ様ー。今ご飯食べたよ』という返事が30分後には来て届いていて、それを放置してしまっていることに気が付いた。
「待たせてごめんねー」
なんて言いながら通話ボタンを押してみると、リズミカルな接続音が数秒鳴って、待ち人の声が聞こえてきた。
『ナオさんこんばんはー。今日も7時までお仕事だったんだね。遅くまでお疲れ様』
スピーカ越しに聞こえてくる、私を気遣う言葉が心地よい。声変わりをしたのかちょっと怪しい、可愛げのあるボーイソプラノで帰宅時間について労ってくれるだけで私の疲れは癒されるよ。
っと、そうじゃなくて時間……と画面右下を確認してみれば、21:30と表示されている。うーん、遅い、か。
「夏休み明けの模試があってねー。それと、もうすぐ学園祭もあるし。ちょっとバタバタしてるー」
通話とは言え、好意を寄せる男の子の声に気持ちが昂ってしまって話し方が緩くなってしまう。もちろん仕事中にこんな話し方はしないけれど、声と一緒に顔も緩んでしまっていないかどうか……は気にしないでおこう。あんまりみっともない顔は見せたくないけど、今はカメラ通話じゃないし。
「チヒロくんの所は? 学園祭あるんでしょう? もうそろそろだよね」
ふと気になって、通話相手のことも聞いてみる。おおよその学校は毎年同じ時期に行事を入れるはずで、去年も確か今時分にやっていたはずだし、こっそり覗きに行こうとして「関係者じゃないと入れないんだ」という言葉にすごくがっかりした記憶もあるし。
『いやぁ、あるにはあるけど。僕は中枢なんてやらないから日時当番を引き受けるだけだよ』
そのことを覚えているかはわからないけど、遠慮がちな言葉が返ってきた。
「何するの?」
『トランプ、オセロ、挟み将棋などのお子様でもできる簡単なゲームだよ。どれか1つ選んで、当番に勝てばお菓子が貰えます』
かと思えば自慢げに話してくる。こういう風に会話中の表情がコロコロ変わる所が可愛いんだよなぁ。顔は見えないのが残念。
「手抜きだなぁ……」
『うちのクラスは中枢もやる気がなくて』
思わず呆れた感情を露わにしてしまったけれど、チヒロくんも自虐的に切り捨てた。その様子がなんだか可笑しくて、2人で笑い合った。
世間話をするだけでどんどん疲れが取れる気がする。私にとってチヒロくんは最高の癒しだ。どんなデトックスよりも効果があるし、好きなゲームでも解消できないストレスを取り去ってくれる。
しかし、会話の流れにほんの少しの安心と、ほんの少しの残念な感情を覚えてしまった。もしもチヒロくんが学園祭で喫茶店をやるだなんて言って、万が一に接客係をするだなんて言われてしまうと、私はその装いを確認するためだけにもチヒロくんの学校に行きたがっただろう。関係者ではない以上、不法侵入をせざるを得ないところだけど、それが実行されないで済むのならまあ、という所の安心。
でも、久しぶりにチヒロくんと公的にゲームで遊べるというのも、それはとても惹かれるものがあって……って、出来ない事を考えても虚しいだけか。……いや、むしろ今年偶然にもチヒロくんの学校に勤務することになったミヤビに頼めば入れてもらえる……かも?
「……そう言えばチヒロ君は流し素麺ってした事、ある?」
なんて、そんなことミヤビに言ったらまたバカにされちゃうから考えるのは辞めにして、今日の夕飯にちなんだ話題を持ち出してみた。ひょっとしたら6歳違いの少年は未経験かも知れない。ともすれば、次回チヒロくんが家に来るまでにおもちゃのキットを買っておいて2人で楽しむのも乙なのでは――
『あれねー。普通に食べた方が良いって思っちゃうかな。つかみ損ねて流れて行っちゃったらなんか悲しい気持ちになるし。お店で売ってるおもちゃのでも、直箸で突っつくのってなんだか抵抗あるし……』
ふむ、私の妄想は打ち砕かれた。……そうかー。こういう所でリアリストなんだよね、チヒロくん。
『それにしてもどうして急に素麺?……そう言えば夏休みにナオさんの部屋に遊びに行った時、食品棚に素麺の束を見かけたけど、まさかまだ放置しててそれを今日食べたとか――』
「あ、そうだ! 明日は朝1で会議があるんだった! ごめんねチヒロくん今から資料作るから今日は切るねー」
墓穴を掘ってしまった。その気持ちでいっぱいだ。
なんとかごまかすために無理やり言葉を繋げてみたけれど、たぶんバレてるんだろうなぁ。おそらく、さっきのチヒロくんの言葉には「食べ物は早く食べないと」とか「冷凍庫はタイムマシンじゃないんだよ」とか、そんなお小言が続くに違いない。だからこういう時は戦略的撤退に限る。
『ちょっとナオさん、人の話聞いてる?』
やはり私の作戦を熟知しているチヒロくんは、私の言葉を信じずに抗議を続けている。そんな時私は、精一杯の良い声を作ってこう言うのだ。
「また、休みの日に遊びにおいで。いっぱい一緒にゲームしよう?」
『……なんかはぐらかされてる気がするけど。うん。次は勝てるように、楽しみにしとく』
絶対に納得していない様子で話すチヒロくんの口ぶりが可愛く思える。
家に来たら次も思いっきり可愛がってあげよう。そしてまた、家事を手伝ってもらおう。私の可愛い通い妻を。
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この時はまだ、半年後に私の職場が移ってしまってチヒロくんとひと騒動を起こすなんて思いもしなかった。
だから、ずっとこんな風に楽しんでいられたら。なんて思っていた。