第九話 戦闘状態に入れり
「大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
パラオのコロール泊地から出港の準備を行う『雪風』の艦内で、都倉は他の乗員たちと共に東京から発信されたラジオ放送を聞いた。大本営発表である。いよいよか、と都倉は気を引き締めた。
この時、『雪風』も第四急襲隊の一員として、集結地点のパラオから出撃しつつあった。
第四急襲隊とはこの日のために軽巡洋艦『長良』を旗艦とし、第24駆逐隊、そして『雪風』と『時津風』の第16駆逐隊第一小隊によって構成された臨時部隊だ。
第四急襲隊の目的は、フィリピン・ルソン島のレガスピ上陸部隊を援護する事だった。島に上陸する陸軍を支援し、レガスピ北部にある敵飛行場を占領するのである。
大本営発表から二時間後、『雪風』は『時津風』と共にコロールから出撃した。
「皆、必ず勝ちましょう! 武運長久を」
出撃直前、パラオを出撃する帝国海軍の艦魂が一同に会した。全員の手に酒が満たされた盃が配られ、
雪風も時津風と並んで盃を掲げていた。
初風と天津風は四航戦を支援するため既に二日前から出撃し、この場にはいなかった。
「我々は帝国に挑発を続ける敵に対し、天誅を下す御役目を陛下より賜わりました。我々が為すべき事は、敵を救うべからず程まで徹底的に屈服させる事です!」
旗艦の音頭に続き、司令長官から全部隊に通達された訓示が読み上げられる。彼女たちの表情は正に武人の様に引き締まっていた。
「日本は必ず、この戦争に勝利します!」
「はい!」
盃を呑み、各艦の武運が祈られる。
「天皇陛下万歳!」
「万歳!」
南洋の海に、彼女たちの声が地鳴りのように響き渡った。
米英との戦争が始まったこの日の朝、パラオを出撃したのは『雪風』を含む第四急襲隊と共にレガスピへと赴く第11航空戦隊(水上機母艦『千歳』『千代田』)と第17戦隊(敷設艦『厳島』『八重山』)、他輸送船を含む艦隊であった。
湾口を出た直後、旗艦『長良』は旗流信号で各艦に警戒を促し、『雪風』などの駆逐艦は輸送船を取り囲む陣形を取った。敵から輸送船を直衛し、そのために新たな位置へ移動する艦隊運動を忙しなく行った。
第四急襲隊は緊張感を張り詰めながら、敵地へと向かっていた。
『雪風』は先行する24駆の殿艦が刻む白い航跡を辿りながら、針路を三百二十度に取った。艦隊はほぼ北西に向かっている。
目的地のレガスピに到着するまでの三日間の航海だった。
「いよいよ初陣だな……」
湾口を出て暫く経った頃、西南太平洋上を航海する『雪風』の舷側で、都倉は雪風といた。
「はい。本当に、いよいよ……です」
雪風の額には日の丸が輝いていた。この日、艦魂たちは全員日章旗や旭日を描いた鉢巻をしていた。
存在そのものが兵器である彼女たちは、現場の将兵よりも戦に対する気合いが入っていた。
「大本営の発表では、航空部隊は戦艦を四隻も撃沈したと。私達もそれぐらいの戦果をあげてみたいものですね」
「これから向かうレガスピには飛行場があるだけで、おそらく真珠湾のように戦艦はいないと思うぞ」
「……赤城さんたちがアメリカの戦艦を沈めたなら、私達はイギリスの戦艦を」
「フィリピンにいるのは米軍だ。我々の敵もアメリカさ」
「うんにょー」
悔しそうに唸る雪風を見て、都倉は微笑みを浮かべた。
雪風の言うように、英国の戦艦もこの時の日本海軍が大いに懸念しているものだった。シンガポールを占領するには、東洋艦隊の主力である『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』を排除しなければならないと考えていたからだ。
「頼もしい限りだな」
「そ、そんな事は……」
都倉の言葉に照れ臭そうに赤くなった雪風だったが、その表情はすぐに引き締まった。
「少尉、私は戦います。私達が戦って、日本はこの戦争に勝つんです」
「……ああ、そうだな」
正直、都倉は今後の戦争は苦労すると考えていた。
米英との戦争は、日本からしてみれば難しい戦いだ。
支那やソ連と戦うのとはワケが違う。
海兵時代、都倉は常に米海軍を意識して鍛えられる術を叩き込まれた。
日本人に大和魂があるように、アメリカ人にはヤンキー魂が、イギリス人にはジョンブル魂がある。敵を侮ってはいけない。日本海軍が明治以降、日清日露で負けを取った事がないように、米国も独立戦争以来、スペイン戦争において一度も敗北を得た事はない。
その点は連勝不敗の伝統を誇る日本海軍に似ている。いずれ米国とは決着を着けねばならない時が必ず来る。その時に戦う事になるのは、自分たちのような若い連中だ。そのために辛い訓練を乗り越え、心身を鍛えておかねばならない。
――確かにこの戦争は難しい。だが、それでも戦い抜くのが軍人だ。それに彼女との約束もある。
都倉は雪風の表情を見た。その顔はまるで氷のように冷たかった。
彼女も紛れもない軍人だ。
「そうだ。勝とう……」
都倉は彼女を見習うように、気を十分に引き締めた。
昭和十六年十二月十一日
アリバイ湾
艦隊はレガスピの港があるアリバイ湾口に到着した。時刻は十一時五十分を指し、もうすぐ日付が変わる時間帯だった。周囲は夜闇でどっぷりと浸かり、ほとんど何も見えなかった。
真っ暗な艦橋で、都倉は海図台に広げたレガスピ周辺の海図に航路や艦の位置などを記入していた。光が洩れないように黒幕を張り、不自由な環境下で最善の仕事をこなしている。都倉たち航海士はこの日のために鍛えられた計算力や視力を駆使し、任務を着々と遂行している。
レガスピはルソン島の南東に細長く突き出した半島の東へ開いたアリバイ湾の奥にある港で、湾内は狭く、敵機に襲われでもしたら不自由な行動を強いられる事になるだろう。
見張り員たちは闇に塗られた海面をジッと凝視した。艦隊は第16駆逐隊を先頭に、慎重に湾内へと侵入する。
都倉も緊張を覚えつつ、海図に艦の位置を記入していた。落ちた汗がポツ、と海図に小さなシミを作った。
「………………」
雪風も闇の中で獣のように瞳を光らせ、目の前の海面を睨む。
敵である米海軍の新鋭艦にはレーダーという新兵器があり、それを駆使すれば闇の中でも攻撃できるという。こんな視界が効かない所でも、敵にはこちらが見えている可能性があるのだ。
息を潜めながら前に進む『雪風』。その後を輸送船や他の艦も続いた。
やがて雲に隠れていた月が顔を出し、辺りがぼんやりと明るくなった。
黒の絵の具に塗られたような海面に、淡い光が当たった。キラキラと波の形が浮き彫りになり、雪風の視界にも回復の兆しが見られるようになった。
陸地が、山が見える。雪風は周囲を警戒した。どうやら敵は逃げたようで、敵艦は一隻もいなかった。
雪風は敵艦がいない事を確信し、ほっと安堵した。
その時だった。
「右三十度、敵機!」
見張り員の叫び声が、響き渡った。
都倉を始めとした乗員たちが、雪風が西の方角に視線を向けると――明るくなった夜空から、ずんぐりとしたシルエットを浮かばせた敵機が真っ直ぐにこちらへと向かっていた。
「対空戦闘!」
飛田艦長の命令により、乗員たちはけたましく配置に就いた。『雪風』自慢の主砲である12.7cm砲がぐるりと旋回し、その砲口をぴたりと敵機に合わせた。
砲が火を噴く前から、25mm連装機銃が射撃を始めた。敵機に向かって機銃弾が放たれていく。
夜空に人工の星が無数に生まれ、敵機に襲い掛かる。敵機もまた、その銃口を『雪風』へと向けた。
バリバリと鳴る音が重なり、『雪風』の艦上に機銃の雨が降り注ぐ。
雪風は接近する敵機から目を逸らさないまま、敵の弾が周囲に弾く中、その場に立ち続けた。
両者の銃撃は互いに傷を与えずに終わった。
敵機は機銃掃射を浴びせながら、『雪風』と『時津風』の上空を通り過ぎて行った。
ずんぐりとしたその機体には、火を噴かせる事はできなかった。
敵機はそのまま、陸地の方角へと引き返していった。
雪風は唇を噛みながら、その背中を見送った。
艦橋では、乗員たちが敵機の識別を行っていた。だが暗すぎて誰も機種はわからなかった。
その中で都倉は、先程の経験を思い返していた。
「(あれが初めての実戦、か……。案外あっけないものだな)」
一機だけだったと言え、敵の襲撃を受けた事は紛れもない事実だった。そしてそれは都倉にとって、そして彼女にとっても初めての実戦だった。
予想よりあっけない初陣に、都倉は思わず笑みを漏らしていた。
「……こんな事で気が抜けるとは、俺もまだまだだな」
それは己の情けなさに対する自嘲だった。
そして考える。もし、相手が一機ではなく大編隊で襲ってきたら――艦隊はひとたまりもなかっただろう。この狭い湾内では身動きが取れず、敵機の餌食になるのは想像に容易い。
ここは真に敵地なのだ。飛行場を奪うまでに、艦隊が無事でいられるかはわからなかった。
しかし都倉が危惧していた事はその後も起こらず、日本軍は『雪風』などの支援を受けながらルソン島・レガスピに上陸。
上陸作戦は成功し、『雪風』などの艦はレガスピにその身を落ち着かせた。