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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十四年~十六年
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第八話 彼との約束

 昭和十六年十二月二日

 パラオ


 この日、『雪風』はパラオに入港した。日本を出てパラオの港に入るまでの五日間、『雪風』は砲雷撃訓練を繰り返していた。

 この前日、日本では御前会議の席上で開戦が決定された。これは交渉相手の米国側から手交された所謂『ハル・ノート』を受け、日本が遂に対米戦への決意を固めたためであった。

 米国が提示した条件は、「支那大陸からの撤退」「三国同盟の破棄」等、日本側にとっては無条件降伏に等しい内容であった。

 このハル・ノートは明治以降日本が血を汗を流して獲得した大陸における権益を全て放棄し、四つの島に戻れというものであり、これは要求を行った側である米国に例えるならハワイやカリフォルニアといった国土を返して東部13州に戻れと言っているようなものだった。

 到底このような要求に日本が呑めるはずもなく、和平交渉で積み重ねてきた日本の努力は全て水の泡と化した。

 座して死を待つか、生存を賭けて戦を挑むか。

 日本は、後者を選んだ――





 対米戦の決意を固めた日本政府及び軍部の方針により、陸海軍の各部隊は開戦に向けて密かに動き出していた。

 それは『雪風』を含む第16駆逐隊も同じだった。

 パラオに着いた日の夜、『雪風』の艦上では四隻の姉妹が揃っていた。


 「ねえ、聞いた? 開戦の話」

 「勿論聞いていますよ、姉さん。みんな知っています」

 「今更何を言う」


 最早艦に乗っているほとんどの将兵ですら知っている話を、初風がわざわざ話題に上げた事に、妹たちは怪訝な反応を示す。

 初風は小さく溜息を吐く。もしかしたら、開戦の情報がただの噂話だったらという一抹の望みを僅かに期待していたのかもしれない。

 だが、その話は乗員たちも周知している事実だ。日本は米国と戦うつもりだ。パラオへの移動、そしてこれまでの訓練の日々がそれを物語っている。


 「私達は軍艦だ。国のために戦う事こそが本望だろう」


 天津風の言葉も正しいが、初風の本心もまた間違ったものではない。


 「でも、やっぱり戦争になるんです……かね」


 時津風が不安そうに尋ねる。

 その問いに答える者は、いなかった。


 「いつかは決着を着けねばならぬ相手だ。奴らを調子付かせたままにしていては、我が国の国体すら危うくなる」

 「そ、それは駄目です……!」


 天津風の言葉に敏感に反応したのは意外にも時津風であった。実際、天津風の言う通り米国側の要求は二千年もの間築き上げてきた日本の国体の解体を意味するものだ。

 交渉を続け妥協案まで掲示したのに、一方的に不平等な条件を付き付けられては黙ってはいられない。


 「そうだ、そのような事は絶対にあってはならない」


 天津風と時津風が顔を見合わせ、頷き合う。

 強い意志を見せる二人の妹を尻目に、初風がこれまで沈黙を守っていたもう一人の妹に尋ねる。


 「ねえ、雪風はどう思う?」

 「……え?」


 初風に声を掛けられた雪風は、一息ほど遅れた反応を返した。


 「どうしたんですか? ぼーっとしてたようですけど」

 「う、ううん。何でもないの」


 心配する時津風に、雪風は慌ててかぶりを振る。

 三人は明らかに雪風の様子がおかしい事に気付いていた。


 「そういえば、最近都倉少尉とも会っていないようね」


 初風の指摘に、雪風はぎくりと震える。


 「もしかしてそれが原因?」

 「雪姉、あの男に何かされたのですか!?」

 「ここの所、心ここにあらずって感じでしたけど、少尉と何かあったのですか?」


 ずいずいと迫りくる姉妹たちの追及に、雪風は逃れる術を持たなかった。


 「まさか、喧嘩……?」


 初風の推測に誰よりも強い反応を表したのは雪風だった。


 「――違うの! 少尉とは、本当に何もなくて……!」

 「少尉とは何もなくても、少尉に関係している事が原因なのは間違いなさそうね」

 「う……っ」


 自分の反応を見て、一瞬で看破してしまった初風に対して、雪風はぐうの音も出ない。

 観念した雪風は、風船のように溜めこんだ息を吐き出すように口を開いた。


 「……実は、少尉の部屋である写真を見つけてしまったんです。その写真を見た時から、なんだか変な感じになっちゃって」

 「写真?」


 三人は同時に首を傾げる。


 「どんな?」

 「若い女の人が映った写真。着物姿で、とても綺麗だった……」

 「それって……」


 初風はどこか楽しそうに驚き、

 時津風は頬を紅色に染め、

 天津風は背中に毛虫が這ったような青白い顔をしていた。

 そして最初に声を上げたのは、初風だった。


 「雪風!」


 今度は雪風が驚く番だった。雪風の両肩を、初風がガッシリと掴んだ。


 「お姉ちゃんは嬉しいわ。貴女も女の子らしくなったわね」

 「は、はい?」

 「焼餅を妬くなんて、立派な女の子よ。天津風の場合はおかしいけど、貴女のそれは至極まともなものよ」


 さりげなく妹を罵っている初風と、その隣で何故か頬を紅色に染めながらこちらをガン見する時津風と、既に白目を剥いている天津風という状況に、雪風は思考が追い付かず呆然としていた。


 「ふふ、雪風ったら可愛いんだから。大丈夫よ、雪風」

 「どういう事ですか、初風姉さん。それに大丈夫とは……」

 「気になるのなら少尉に直接聞いてみると良いわ。写真の女性が誰なのか」


 初風の提案に、雪風はひどく驚いた。


 「そんな! それに、私は……」


 確かにあの写真を見た時から、自分でもよくわからない感情に悶々とする日々をおくるようになっている。

 訓練に差し障りがないようには心掛けているが、何故か都倉の事を避けている自分がいた。

 そんな自分が居る事も含め、今の自分自身に何が起こっているのかよくわからない。


 「(そうか、あの写真の綺麗な女性が誰なのか気になっているから。でも……本当にそれだけ?)」


 それだけでは説明が足りない気もする。

 このもやっとした気持ち。

 写真の女性が気になるからと言って、何故、都倉に会おうとしない?

 だが、初風の言う事もあながち間違いではないのかもしれないと雪風は考えた。取り敢えずは直接の原因となった写真の事を追及し答えを得れば、この胸の内に渦巻く気持ちも理解できるかもしれない。

 雪風は意を決した。


 「わかりました。少尉の所に行ってこようと思います」

 「頑張って、雪風」


 姉妹たちに見送られ、雪風はその場から光と共に立ち去った。


 「……面白くなってきたわね」

 「姉さん、楽しそうですね?」


 うふふと微笑む初風とそれを訝しむ時津風。そしてその隣で白目を剥きながら立ち尽くす天津風の存在は完全に無視されていた。






 訓練を並行しての航海を終え、パラオの港に落ち着いた『雪風』の甲板から、都倉は生温い風を浴びながらパラオの夜闇に溶け込んだ陸地を眺めていた。

 トロールという町がある方角からは、電気の灯りが見えていた。パラオは第一次大戦の結果、日本の統治下となってから急速にインフラなどの整備が進み、日本人も住むようになって人口が増加し、トロールは特に非常に栄えた町となっていた。

 都倉はパラオに向かう途中、司令が鎮守府から受領したという命令書の中身を拝見させてもらっていた。

 命令書には部隊の目的地であるパラオなどの事が書かれていたが、所々に切り抜かれた箇所も見受けられた。


 「この部分は一体何なのでしょうか」

 「我が隊には関係のない部分だ。気にする必要はない」


 しかし都倉はその部分が真に重要な部分なのではないかと読んでいた。

 第16駆逐隊の行動には関係ない箇所らしいが、わざわざ読めなくしているのは、それ程の秘密があったからか。

 日本が開戦を決意したという話を聞いた時、都倉はその推測が確信に変わりつつあった。

 だが、開戦の話は聞いていても、正確な日時や攻撃方法は司令のみが知るものとなっている。

 『雪風』が今後、どのような行動に出るのか。

 それはまだわからかった。


 「少尉、お久しぶりです」


 不意に声を掛けられた都倉は驚いてその少女を見た。雪風だった。彼女の言う通り、こうして顔を合わせるのは数日ぶりだった。


 「どうしたんだ、雪風」

 「少尉にお尋ねしたい事がありまして……」


 尋ねたい事?

 都倉は復唱した。はい、と雪風は頷くがその様子はどこかおかしい。

 雪のような白い頬に、ほのかに射す紅色の花。ちらちらと動く瞳と、もどかしそうに絡み合う指。

 都倉は疑問を膨らませながら、雪風の言葉を待った。


 「そ、その……。少尉には……」

 「ん?」


 雪風の口から次に出た言葉は、都倉の予想を越えたものだった。


 「……大切な人は、いますか?」


 都倉は危うく間抜けな声を漏らしそうになった。その言葉を言った本人も、自分は何を口走ったのかと言わんばかりに顔を真っ赤に染める。


 「え、ええっと! その! ご、ごめんなさい。いきなり変な事を聞いてしまって……!」


 雪風は慌てて声を上げるが、都倉は応える事ができない。

 だが、雪風の質問が変なものだとは、都倉には到底思えなかった。


 「……ああ、そうだな」


 都倉の言葉に、雪風はビクッと震えた。


 「君の質問に対して、俺が自身の気持ちから正直に答えるのならば――居る、と言っておくべきだろう。大切な人、それは俺という存在に必然なものとして確かに居る」

 「そう、ですか……」


 それは……と、雪風が探るように尋ねる。


 「……少尉が持っている、あの写真に写っている女の人ですか?」


 雪風の言葉に、都倉は驚いた。


 「知っていたのか」

 「はい……」


 それきり、雪風は黙り込んでしまった。都倉はそんな雪風に答える。


 「……そうだな。あいつは俺にとっては、大切な存在だ」

 「………………」

 「だからこそ、守ってやりたい」


 都倉は最近将兵たちの間で広まっている開戦の話を思い出す。

 己自身、そして目の前にいる彼女にとっても、その初陣は近いだろう。都倉は呉で水路部から受け取った海図の中から、ルソン島やスラバヤなどの地図を目撃した。どれも日本が掲げる南進論において、重要な要衝となる場所だ。この地域に、『雪風』がいずれ行く事になる。だが、地図に描かれているどの地域も今は敵地である。

 自分たちを取り巻く昨今の情勢は、雪風の問いを改めて意識させる機会にもなる。

 故に都倉は答えた。その問いに対して、真摯に、正直に、素直に。


 「だが、俺一人の力では無理だ」


 都倉は顔を上げた雪風の表情を見た。

 その顔に向かって、ゆっくりと近付いていく。


 「守るべきものを守るためには、結束した力が必要だと俺は思う。大切なものとは個人によって異なるし、同じものでもある。だから皆で協力して挑む事こそが近道だ」


 目の前に立った自分を見上げる彼女の瞳は、まるで雪の結晶のようであった。

 ――子供のようだと思って悪かったな。


 「雪風」


 君は、紛れもない――


 「俺と一緒に戦ってくれないか。戦友として」

 「都倉少尉……」


 その問いを投げかけてくれた彼女に、都倉は感謝すると共に、その手を乞うた。

 差し伸べられた手に、雪風はそっと自らの小さな手を重ねる。


 「勿論です、少尉」

 「有難う」


 雪風の微笑みを見て、都倉も笑った。

 そして雪風は、その都倉の顔を見て、決意した。


 ――この人の守りたいものを、私は守ろう。


 雪風はかつて観兵式で抱いた決意を思い返した。

 この国を守る。自分はそのために生まれ、戦い、そして生き抜く。

 目の前にいる彼と力を合わせ、守りたいものを守るのだ。

 彼の守りたいもの、自分の守りたいもの。それは二人によって異なり、そして同じもの。

 雪風は、己の決意を胸に秘め、本当の戦う理由を見つけた。







 『雪風』がパラオに到着した十二月二日、この日、連合艦隊司令長官山本五十六大将から南雲中将の機動部隊にある命令が発信された。


 ――『ニイタカヤマノボレ一二〇八』


 水天荒れ狂う北太平洋上、ハワイに向かっていた機動部隊は予定通り攻撃を実施する作戦開始命令を受信。


 そして十二月八日――


 『雪風』がパラオを出撃した日、空母から飛び立った日本海軍の航空部隊が、ハワイの真珠湾基地を攻撃した。


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