最終話 おかえり、雪風
太平洋を狭しと駆け巡った小さき不沈艦も、今は舵輪と錨しか偲ぶよすがもない。
台湾から返還された『雪風』の舵輪は江田島の海軍兵学校教育参考館に、錨は同館の庭に保存されている。
日本と台湾、両国の名艦として活躍した彼女の雄姿も、時代の流れと共に人々の記憶から薄れていく。それは『雪風』だけでなく、あの戦争を戦ったどの艦にも言える事だった。
だが、確かに彼女の存在は、都倉たちの心に生き続け、そして彼らから次の世代へと語り継がれていくのである。
それはすなわち、日本海軍を代表した『雪風』という艦は決して幻にはならないと言う証である。
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真っ黒に染まった暗闇に、白い霧のようなものが周囲を流れている。
方向がわからず、足がどこに着いているのかさえわからない。
進んでいるはずなのに、白波が立たない。
まるで、空中に浮いているかのようだ。
だが、確かに歩いている。
しかし、足元を含め、周囲に何も無い。
正に、無であった。
だが、想像していた無ほど、無でもない。
――これが、死というものなのだろうか?
彼女は、そう思った。
奇跡の艦などと言われた自分も、最後は天災にやられ、実にあっけないものだった。
海上特攻隊として出撃したあの日――陸に咲き誇る桜を見て、自分は桜のように美しく散れるのだろうかと考えた事がある。
そして改めて、自分の最期を振り返ってみる。
……美しいものではなかったな。
せめて、皆と同じように戦いの海で沈みたかった……かもしれない。
しかしそれを今、願っても仕方のない事は彼女自身も理解していた。
いつか、彼の口から聞いた事がある。運命。
これが運命なのだ。
それを理解し、納得もしていた。だが、しかし。
――あの頃に、戻りたかったな。
姉妹や仲間たち、大好きな人に囲まれた、あの煌めきの日々に。
「――雪風」
懐かしい、自分の本当の名を呼ばれ、振り返った。
しかし懐かしいのは、自分の名前だけではない。
その声。
毎日のように聞いた、その声は、ひどく優しかった。
暗闇を彷徨い、冷めかかっていた心が溶けるような暖かな声。
「都倉……大尉……」
あの頃のままの姿で、雪風の目の前に立っている都倉。
終戦直後、復員のために自分の傍からいなくなってしまった、意地悪だけど大好きな人。
心が何かを決める前に、雪風は彼の方へ駆け出していた。
「大尉!」
飛びつく雪風を、都倉が優しく受け止める。
胸に顔を押し付け、泣きじゃくる雪風の頭を、都倉はそっと撫でた。
「……やっと会えたな、雪風」
「はい……ッ! 大尉、大尉ぃ……ッ」
子供のように泣く雪風を、都倉はいつまでも抱き止めてくれた。
そんな彼の温もりに触れて。
涙が、止まらなかった。
日本を離れ、異国の海で戦い、最期の瞬間までずっと会いたいと思っていた、大好きな人。
「君に会いたがっていたのは俺だけじゃない。他の皆もだ」
「え……?」
抱き寄せていた雪風を、都倉はそっと離した。
そして、都倉の後ろへと、雪風の視線を向けさせる。
雪風はその光景に驚いた。
「みんな……」
そこには時津風、天津風、初風、そして浜風や磯風、大和や比叡など、大勢の仲間たちが雪風を待っていた。
守りたかった、みんなの顔。
もう一度会いたかった。
みんなに。
「雪風!」
「お姉ちゃん!」
「雪姉!」
自分を呼ぶ姉妹たちの声。
「皆、雪風を待っていたんだ」
再び溢れそうになる涙。
都倉が優しく、言葉を続ける。
「雪風、俺とお別れした後も……沢山、苦労したようだな」
「……ッ!」
「もう休んで良いんだ、雪風。みんなの所に行っても良いんだ」
「……う、……ッ」
その言葉が、雪風の心に、響く。
「お疲れ様」
ずっと抱えていた想いが溢れるように、雪風は大声を上げて泣いた。
ずっと、ずっと戦った。
ずっと、ずっと会いたかった。
でも、もう良いんだ。
休んでも、良いんだ。
「……おかえり、雪風」
「……はい! ただいま、ですっ!」
涙を零していた顔は、すっかり笑顔になっていた。
それはまるで、太陽のような眩しい笑顔であった。
終
今回の投稿を以て「駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦」は完結致しました。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
雪風視点とは言え、三年八ヶ月に及ぶ大東亜戦争を開戦から終戦まで書いたのは何気に初めてでした。こうして最後まで書き切る事ができたのも、ご感想や声援をくださった読者の皆様のおかげです。
そして相変わらず拙い文章だったと思いますが、楽しんで頂けたならば幸いです。
またいつか。




