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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和二十一年~四十六年
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第六十三話 雪風は沈まず

 冬の寒気が染み渡る高雄沖は、多くの艦艇で埋め尽くされていた。冬の海にしては波静かな海面は、まるでこの日のためにわざわざ天候が用意してくれたのかの様だ。

 そしてその舞台に悠然と姿を強調するのは、一隻の老巧艦。既に艦齢三十年を迎える彼女は、周りの若い艦に負けんとばかりに機関を唸らせ、意気揚々と波を立てていた。


 「……懐かしいですね、こんな光景も」


 艦首甲板で風を浴びながら、目の前の光景を思い馳せるように眺めているのは、巫女服を着た一人の少女。

 雲のようなふわふわな髪、雪のような真っ白な肌、細い腕、どこからどう見ても少女にしか見えない外観でも、その身から滲み出る雰囲気はまるで八十年は生きたお婆さんのようであった。

 実際、艦としては十分すぎる程、歳をとっていた。最近は機関の調子も悪く、かつては幾度も危機を乗り越え、戦場を駆け巡った自身も今後は訓練艦として隠居する事が決まっている。


 ――そんな彼女の脳裏に、古い記憶が徐々に甦る。懐かしい軍艦マーチが聴こえてきた。


 水天の彼方に連なる連合艦隊の艦艇に、瑞光満ちる空には無数に煌めく銀翼。整然と並び、航行する姉妹たち。当時の自分を感慨させた、旭日旗を靡かせた戦艦の雄姿が浮かび上がる。

 

 「……!」


 自分の傍を通りかかる戦艦に最敬礼を掲げる記憶がまるで水面のように透き通ると、その奥から光と共に懐かしい面々が現れた。ソロモンの海に沈んだ比叡――その後ろには、時津風や天津風、浜風たち姉妹や戦友たちを含む大勢の顔ぶれが並んでいた。

 中央にいた比叡が微笑みかけた。そしてその手が自分の手を掴み、そっと両手で重ねた。


 ――今度は貴女の番よ、雪風。


 比叡の言葉を最後に、仲間たちの笑顔と共に目の前に広がっていた白い世界が消えていった。代わりに現れたのは、艦上から自分を盛大に迎える人々と、目の前を通過する自分に最敬礼を捧げる艦艇たち。

 

 「……ありがとう、みんな」


 民国五十三年――昭和三十九年十二月。『丹陽』は国府海軍の観艦式に参加、その雄姿を披露した。







 ある新聞の一面を眺めながら、彼は懐かしい気分に浸っていた。

 その新聞は海外から発行された台湾の新聞であった。一面には台湾海軍の観艦式の記事が書かれており、その写真には彼にとって見慣れた艦が映っている。


 「……雪風、元気そうだな」


 微かに震える手で、新聞の一面を眺めていた都倉は、目の縁に浮かんだ水分を指で拭い取った。

 戦後、都倉は『雪風』を立ち去った後、地元に帰って結婚し、横須賀市内の学校で教師になった。しかし教鞭をとる日々の中においても、時々届けられる風の便りで「我らの『雪風』が戦っているらしい」という話を聞く度に、頭を痛めていたものだった。

 そして都倉たち旧乗員たちによる『雪風』保存会が昭和三十七年に結成した。どうにか『雪風』を日本に戻し、記念艦として保存できないものかと、会員たちは資金を集めるなど各所に奔走を始めた。

 一時、『雪風』が現役を退いて基隆キールンの岸壁に繋がれているという噂が保存会の間で流れていた。

 だが、台湾の高雄沖で挙行された観艦式に参加した彼女の雄姿が紙面に掲載されると、彼女の健在ぶりを目にした会員たちは大いに喜んだ。


 「『雪風』はまだまだ健在ですね。さすがは我らの『雪風』です」


 戦時中は特別年少兵として乗艦し、『雪風』の水兵であった福森が子供のように喜びの声を上げる。彼は特別輸送艦、上海での引き渡しまで『雪風』と共にしてきた乗員の一人だった。上海で『雪風』を引き渡した後は海防艦で日本に帰り、戦後新たに創設された海上保安庁に入庁した。

 福森は『雪風』の健在ぶりに喜ぶが、都倉の方はある懸念を思い浮かべていた。


 「……だが、『雪風』の艦齢も二十五年だ。彼女が動ける間に、日本に返してもらわなければ」


 そう、既に老巧艦である彼女にはもう時間は無いのだ。

 この記事をきっかけに、『雪風』の返還運動はより一層の拍車をかける事になるのだった。





 この後、保存会は積極的に『雪風』の返還運動に邁進した。蒋介石総統に直接、請願書を送るなどの運動を繰り広げた。


 「……雪風、必ず君ともう一度会うぞ」


 そんな都倉たちの活動が実り、遂に「『雪風』の返還が決まりそうだ」という話も聞かれるようになった頃。

 保存会の間で現実味を帯びてきた希望を一瞬で覆してしまうような残酷な噂が流れてくるようになった。

 

 ――『雪風』は沈没した。


 ――『雪風』は老巧化が著しく、解体された。


 そんな噂が、保存会に届くようになったのだ。

 これを聞く度に、都倉は頑として受け入れなかった。


 「そんなはずはない。彼女が、そんな……」


 返還実現に一歩手前までこぎ着けたのだ。ここで挫けるような事があってたまるものか、と都倉は不安感が蔓延する保存会から一人抜け出し、単身で台湾に飛んだ。

 都倉はそこで、ある人物と面会する機会を得た。その人物は、軍を退役した『丹陽』の元関係者だった。

 その男は台湾の国会議員であった。彼の事務所に招かれた都倉は、妙な違和感を覚えた。

 それは選挙ポスターを見た時に抱いたものだった。

 どこかで見た事があるような?

 そして彼と直接対面した時、都倉は驚いたものだった。


 「お久しぶりですね、都倉さん」

 「もしかして、日景くんか……」


 日本語で挨拶してきた彼は、日景晃斗であった。お互いにすっかり歳をとったものであると、都倉は笑った。


 「僕は内戦中、『丹陽』に乗っていましてね。病気をきっかけに軍を辞めましたが、今は健康になって議員をやっています」

 「そうか。だが、彼女は『雪風』だよ。日景くん……いや、兪議員」

 「これは失礼」


 二人は親しい友人のように、笑い合った。

 都倉は兪から内戦中での『雪風』の事を聞いた。兪の話を聞いて都倉が思わず笑ってしまったのは、彼女の幸運っぷりは台湾でも健在だったという事だった。あわやという場面を何度も乗り越えたと、兪は笑って話してくれた。


 「本当に彼女はまるで神通力を持っているかのようだった。どんな攻撃や事故にも、彼女は難なく躱してみせた」

 「それが『雪風』だよ。そうだ。『雪風』は沈まないんだ」


 都倉は、もう一度呟いた。


 「そう、『雪風』は沈まないんだ……」

 「都倉さん……」

 「兪議員、頼む。『雪風』が日本に帰れるように、協力してくれないか」

 「………………」


 都倉の懇願に、兪は口を噤んだ。

 これは何かの思し召しなのか、兪は台湾の国会議員だ。何かしてくれるかもしれないと、都倉は淡い期待を抱いていた。

 勿論、それはただの都倉の願望に過ぎないものである事は、都倉自身も理解していた。それでも都倉は藁でも縋る思いで、日本から台湾まで訪れたのである。

 頭を下げる都倉は、膝の上で握り締めていた拳に、別の手がそっと重なるのを見た。


 「頭をお上げください、都倉さん」

 「兪議員……」

 「喜んで協力しましょう。彼女が、日本に帰れるように……」

 「……ありがとう、兪議員」


 都倉は思わず、兪の手を掴み、声を殺して泣いていた。







 兪の協力も取り付け、都倉は日本に帰国した後も、『雪風』の返還実現のために熱心に働いた。

 台湾にいる兪とも連絡を取り合い、彼女の行方も捜した。

 だが、都倉が彼女の存在を再び知った時――それは、自身の願いが叶わなくなった事も意味していた。


 「『雪風』は、解体されました」

 「………………」

 

 台湾からの電話で、都倉は兪から無情な現実を言い渡されていた。

 告げる側の兪の声も、どこか落ち込んでいるようであった。


 「台風による浸水で、大きな被害を受けたそうです。老巧化が激しかったのもあり修復も難しく、解体が行われたと……」

 「……そうか」


 その事実を聞かされた時、都倉の頭は意外にも冷静であった。

 というよりは、周囲がまるで浮き世離れしたように見えた。見えるもの、聞こえてくるもの、全てがまるでテレビか、映画を観ているかのようで、現実味が感じられない。それ故に、冷めていた。


 ――しかしそれは、紛れもない現実だった。






 昭和四十六年十二月八日

 横須賀市 海上自衛隊横須賀地方総監部


 かつては横須賀鎮守府があった場所に、旧海軍の艦の一部が鎮座していた。それは台湾側から返還された、駆逐艦『雪風』の錨と舵輪であった。

 日本、台湾両国から参列した人々の中には、保存会の会員たちだけでなく寺内元艦長や都倉、兪の姿もあった。

 日章旗と青天白日旗が風に吹かれた会場に集った参列者が見守る中、会場のグラウンドに船の錨と舵輪が運ばれてきた。

 この二つの部品を、『雪風』の乗員であった会員たちは、釘付けになって見詰めた。


 「……こんな姿になってしまったのか」

 「あの『雪風』が、これだけになってしまった」


 彼らは思い思いに呟き、泣き出した。その涙は共に戦火を潜り抜けてきた『雪風』という艦に対する追悼の涙であった。

 泣き声が周囲から上がる中、都倉は一人、ジッと彼女の一部を見詰めていた。

 自分がかつて握っていた舵、そして錨が、都倉の目に焼き付く。

 脳裏に浮かぶ古い記憶。だが、それらは鮮明に思い出せた。彼女の可愛らしい笑顔と共に。

 巫女服を自慢げに見せ付けていた雪風。

 巫女の話に夢中になる雪風。

 姉妹たちと戯れる雪風。

 飛沫を浴びながら、艦上に毅然と立つ雪風。

 自分の悪戯に「意地悪です」と頬を膨らませる雪風。自分を呼ぶ雪風。

 そして、頬をほのかに赤く染めながら告白する雪風。

 彼女の様々な表情と記憶が濁流のように押し寄せ、都倉の視神経を完全に現実へと引き戻した。兪の電話を聞いて以降、どこか呆けていた自分の意志が、確実に目を覚ました瞬間。都倉はようやく現実を受け止め、彼女の遺品を目の前に、せき止めていたものが溢れ出すように涙を流した。


次回で最終話です。

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