第六十二話 丹陽
民国四十七年(昭和三十三年)九月二日
金門島
台湾海峡の北側にある金門島の海上に、黒煙を燻らせた船が漂流していた。その船は既に自力で航行する力は無く、その命の灯火が消えるのをただ待っているだけのように見える。
「沱江姉さん! しっかりして!」
「……柳江、私はもう駄目みたい。体が全然、言う事を聞かないわ……」
「大丈夫だよ、沱江姉さん! 私が必ず連れて帰ってみせるから、頑張って!」
姉妹艦『柳江』に曳航される補給艦『沱江』の艦上で、『柳江』の艦魂が泣きそうな顔で、必死に姉の『沱江』の艦魂を励ましている。
彼女たちはつい先程、前線に物資を補給する道中、不運にも敵艦隊と遭遇し姉の『沱江』が甚大な被害を受けた。近場にある金門島は敵支配領域に最も近い最前線であり、彼女たち補給部隊は海上補給路を維持すべく夜間の補給作戦を行っていた。
だが、敵もまた水雷艇等を派遣し、この補給路の寸断を目論んでいた。今までは何とか補給を行えていたが、今回はあと一歩の所で敵艦隊と遭遇してしまい、命からがら逃げてきたのだった。
しかし沱江の方は本体の艦がひどく傷付いているように、その体も満身創痍であった。特に上半身は赤く染まる程の出血量で、その瞳からは徐々に光が失われている。
「駄目……。このままだと、貴女も巻き込まれるわ」
「嫌だ! 姉さんを置いていくなんて、絶対に出来ないんだから!」
妹は必死に姉の船体を引っ張っているが、もはや限界のようであった。妹に牽引されている姉――『沱江』は艦首から少しずつ沈み始めていた。
このまま索を繋げたままでは、沈没した際に妹まで巻き込んでしまう。沱江はそれを危惧したのだが、柳江の方は頑として譲らなかった。
「……柳江、もう良いわ。乗員たちを、お願い……」
「嫌だ、嫌だよぉ! 姐姐!」
その時、姉妹を繋いでいた索がビンと張り詰めた。同時に『沱江』が遂に沈み始めた。乗員たちが慌てて索を切り離そうと動き出し、曳航されていた『沱江』側の乗員たちも船から脱出しようと、二隻の間で混乱が起き始めていた。
「誰か、誰か助けて……ッ!!」
柳江の悲痛な叫びが、海上に響き渡る。
その声が、まるで届いたかのように――
「――こちら『丹陽』! 応答せよ!」
二隻の無線に、男の声が響いた。
「――!?」
味方の周波数を察知し、柳江は濡れた瞳を上げた。視線を向けた先には、二隻の艦が白波を立てながら猛スピードでこちらに向かっていた。
更に続く声を、柳江は聴いた。
「こちらは『丹陽』。これより、貴艦の救援に向かう。我々が到着するまでどうか耐えてくれ」
それは二人を絶望の淵から救い出す天の声であった。柳江は思わず、口元を綻ばせて涙を流した。その傍で、意識を失いかけていた沱江も微かに顔を上げる。
海中へと引き摺り込まれかけていた二隻の下に、その艦たちはやって来た。
二隻の補給艦姉妹がやられた料羅湾海戦後、『丹陽』は僚艦の『信陽』と共に彼女らの救援に駆け付けた。
『丹陽』は沈みかけていた『沱江』を助け、これを曳航した。
「間に合って良かったですね、丹陽姐」
「はい。本当に良かったです」
袖に青天白日の紋様を刻んだ、不思議な巫女服を着た少女――丹陽は、同郷の信陽(元初梅)の言葉に同意するように頷いた。
彼女らは輸送艦姉妹を襲った敵艦隊を撃退し、ボロボロになって逃げた二隻を助けるために急いでここまで駆け付けたのだ。
姉の『沱江』は本当に危ない所だった。もう少し救援が遅かったら、確実に沈んでいただろう。もしかしたら妹の『柳江』も失っていたかもしれない。
「信陽が真っ先に敵を撃退してくれたおかげだよ。貴女の奮戦のおかげで、彼女たちを早く救いに行く事ができた」
「そんな~。 褒めても何も出ませんよ?」
照れ臭そうに笑う信陽。実際、彼女の奮戦ぶりは高く評価されるべきものだった。
補給艦に大打撃を与え、勢いに乗っていた敵艦隊を、彼女は怯む事なく戦い抜いてくれたのだ。
『丹陽』と共に、日本から引き渡された『信陽』は、中華民国海軍の軍艦の中でも武勲艦として有名だった。
かつて太平洋中の激戦区を渡り歩いた自分を凌ぐ程の活躍ぶりを見せる後輩に、丹陽は同郷として誇りを抱くと共に、自分も負けていられないという気持ちを馳せる。
「丹陽姐こそ、すっごいスピードで救援に駆け付けたじゃないですか。私、追いかけるだけで精一杯でしたよ」
「ふふ、まだまだ若い娘には負けないんですから。助ける事も戦いなのですよ、信陽」
「丹陽姐、なんだか年寄り臭い」
「な、何ですって!?」
救援に間に合ったという安心感で、二人の顔は実に朗らかであった。
そんな二人の下に、新たな声が加わる。
「――あ、あのっ!」
緊張したような声が聞こえたと思い、二人が視線を向けると、そこには先程救助した輸送艦姉妹の妹――柳江が立っており、二人の顔を見るや頭を下げた。
「ありがとうございました! 姉さんを、助けて頂いて……」
「いいえ、仲間を助けるのは当然の事です。貴女もよく頑張っていましたね、柳江」
「……ッ」
優しく微笑む丹陽に、顔を上げた柳江はぐっと涙を堪えるような表情になった。
そして、再び頭を下げ、肩を震わせるのだった。
途中で米軍と合流し、無事に二隻の輸送艦を馬公に連れ帰った『丹陽』は、その後、休養を取るために着岸した。
ここ最近の『丹陽』は哨戒任務に明け暮れており、先月から続いている此度の台湾海峡危機に際しては、直接的に参加していなかったものの、今回もパトロール中に友軍の輸送艦が攻撃を受けたと聞き、救援に駆け付けた。
敵は今も中華民国の領土である金門島を狙っている。最前線であるこの島が奪われるような事があれば、次は台湾本土に違いない。
明日も哨戒任務。それまでの束の間の休息であった。
「やあ、丹陽。今回はよくやってくれたね」
「どうもです。兪少佐こそ、お疲れ様でした」
夜空の下、艦首甲板に佇んでいた丹陽の傍に、無精髭を生やした男が訪れた。中華民国海軍の制服を着た彼は、『丹陽』の航海長を務める国府軍人・兪承旭少佐であった。
「あの輸送艦の娘たち、大丈夫だったかな?」
「はい。お姉さんの方はかなり重傷でしたが、妹共々何とか」
「それは良かった」
ホッと安堵の表情を見せる兪。彼は実際に沈みかけた船の様子を見ていたので、その艦魂はどうなったのか気懸りだったのだろう。
「そうそう、彼女たちが言っていましたよ兪少佐。少佐の呼びかけを聞いて、諦めかけていた心が立ち直ったって……。少佐にも感謝してるって、言ってましたよ」
「そ、そうかい? それは照れるな」
あの時、彼女たちに無線で呼びかけたのは兪であった。彼の無線は、輸送艦の乗員たちにも結構な希望を与えていた。
「……それと、丹陽。体の調子は大丈夫かい?」
「何ですか、急に。少佐まで、私を年寄り扱いするんですか?」
「救援に向かう時、かなりすっ飛ばしただろう」
「平気ですよ、少佐。機関の調子も変わりありませんし、丹陽は大丈夫です」
兪の心配は彼女の艦齢に関係していた。日本から引き渡され十余年、彼女は生まれてもうすぐ二十年、それは艦として老巧に近付きつつある。
にも関わらず、彼女は現役の上、中華民国海軍の艦隊旗艦として活躍している。その栄光は、決して衰える節を見せない。
「なあ、丹陽。君はどうして、そこまで頑張ってくれるんだ? かつては敵だったこの国のために、一体どうして……」
「ふふ、今更何を言っているのですか。少佐」
丹陽は知っている。自分がどうしてここにいるのか。
確かに自分は戦争に負けた日本からの賠償艦として、この国に引き渡された身である。しかし敗戦国の艦である自分を、こうして優しく受け入れてくれたのは、目の前にいる兪を含むこの国の人々である。
自分は軍艦である。その心に従うのなら、礼を持って迎えてくれたこの国と人々のために戦うのは当然の事である。
式典が行われたあの日、再会した兪が言った言葉を、丹陽は一日たりとも忘れた事はない。
――君が来てくれると聞いた時から、僕達は非常に楽しみにしていた。君は今日から、中華民国海軍の大切な艦だ。一緒に戦える事を、嬉しく思うよ――
ラバウル以降の再会を果たした日景晃斗――いや、兪承旭を始めとした国府海軍の軍人たちは、丹陽を暖かく迎えてくれた。戦況が悪化し、大陸から台湾に後退する時、自分が旗艦に抜擢された時はひどく驚いたものだった。
――何も不思議な事じゃない。日本で奇跡の艦と言われた君が、中華民国海軍艦隊の旗艦となる。君の代わりなんていないんだよ――
台湾での再武装を経て、旗艦という称号と共に『丹陽』という名前を与えられた時。丹陽は自分がここにいる意味を悟った。
「私のような艦を受け入れてくれたこの国に、恩返しをするだけです。それが軍艦としての、丹陽としての、私の使命です」
「丹陽……」
星が美しく輝く夜空の下で兪が見た丹陽の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。
彼女の外観は初めて出会った時と全く変わらない。しかし当時の彼女には無かったものが、今の彼女にはあるように感じられた。それが何なのか、兪自身もよくわからない。だがそれもまた丹陽という存在を形成している一部である事は、確実に理解できた。
終戦から約二年後の夏に、賠償艦として中華民国に引き渡された『雪風』は、中華民国海軍の艦として就役を果たした。
しかし彼女が新たに着任した中華民国軍は、内戦の真っ只中であった。
引き渡しからすぐに『雪風』は戦火に巻き込まれ、引き渡し式典が行われた上海が共産党軍に占領されると、『雪風』は上海から脱出した。
やがて内戦に敗れた蒋介石総統を乗せた『雪風』は台湾へと移動、同時に中華民国海軍艦隊の旗艦に任命され、艦名も『丹陽』に改名となった。
台湾に移動後、『丹陽』は再武装を行い、台湾に残っていた日本軍の機銃や高角砲などで独自の砲塔などを付けていたが、やがて弾薬補給の問題から米国式へと変わり、再び軍艦として生まれ変わった。
彼女は第二の祖国となった中華民国のために、台湾海峡を走り回る事になる。




