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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和二十一年~四十六年
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第六十一話 第二の艦生

 昭和二十一年二月十一日、改修工事を終えた『雪風』は特別輸送艦として再スタートした。主砲も撃たず、魚雷を放つ事もない艦としての姿形を成した彼女の体には、長らく太平洋の荒波に洗われた『ユキカゼ』の文字の代わりに、『YUKIKAZE』のローマ字が塗りつけられていた。

 そう、彼女には新たな任務として復員輸送が任されていた。

 戦争が終わっても、日本国外には約六百万人の軍人、軍属、一般人を含んだ日本人が残されており、それらの人々の日本への帰還は急務の問題だった。大勢の人を運ぶのだから、客船が当たるのが一番良いのだが、商船隊には使える船が殆ど無かった。これは戦時中の徴用によって多くの船が任務中に撃沈・沈没し、失われたからであった。

 それを補うために、大日本帝国海軍に所属していた艦艇の内、航行可能な艦が復員輸送艦として任務に従事する事となった。

 都倉が艦を下りた後、復員輸送艦に選ばれた『雪風』は改修工事を終えると、馴染みのある呉から出航し、再び大海原を駆け巡った。

 その最中、満州から引き揚げ者を満載して博多に向かっていた『雪風』の艦上で、ある騒ぎが起こった。


 「誰か、医者はいないか!」


 溢れんばかりに乗り込んだ引き揚げ者の中から、乗員たちが必死に走り回り、声をかけている姿は雪風自身も何事かと驚いた。やがて、騒ぎの現場に行ってみると、そこには苦しそうに横になった女性とそれを囲う人々がいた。


 「嘘。もしかして、妊娠してる……?」


 その女性のお腹は見事に膨れていた。妊婦である。その顔は苦悶に満ちており、周りにいる人々が彼女を励ましていた。


 「わ、わわ。だ、大丈夫なのかな……」


 明らかに産気づいている妊婦の様子に、雪風はオロオロと慌ててしまう。しかし何も出来ない歯痒さが襲う。切羽詰まった状況の中、ようやく医者らしき者が現れ、周りにいた人々も補助し、出産が行われた。

 そして、『雪風』の艦上に元気な泣き声が響くようになった。

 雪風は、喜びに沸く人々の姿を見た。

 先程まで苦しんでいた妊婦の腕には、毛布を被った赤ちゃんが泣いていた。無事に出産が終わった事に、雪風は安堵した。


 「良かった。本当に……」


 胸を撫で下ろす雪風の目の前で、新たな命の誕生に沸き立つ光景が広がる。終戦の混乱でひどく疲れ切っていた人々の顔に、明るい表情が拡散していた。雪風は再び、母親となった女性に抱かれた赤ちゃんを見詰める。彼は自己の存在を主張するように、元気に泣き続けていた。




 『雪風』はその後、昭和二十一年十二月十八日まで十五回に渡って、中国や南方から多くの引き揚げ者を日本に連れ帰り、一万三千人以上の日本人を帰国させた。


 そして十二月三十日――


 特別輸送艦としての任務を終えた『雪風』は、特別保管艦に指定された。

 いよいよ、賠償艦として戦勝国側に引き渡される時が訪れたのである――






 

 昭和二十二年七月一日

 佐世保


 その日はよく晴れ渡った朝だった。まるで太陽が、彼女たちとの別れを惜しんでいるかのようであった。

 錨を上げた『雪風』は、ゆっくりと前進して佐世保の港から出航した。その後に続くのは、同じく中華民国へと引き渡される事が決まった駆逐艦『初梅』『楓』、海防艦『四阪』『第十四号』『第六十七号』『第百九十四号』『第二百十五号』の七隻であった。

 『雪風』も含め、彼女たちは皆、武装を撤去され丸裸の状態だった。

 日本の土を背にして、八隻の艦隊は粛々と佐世保の港を離れていく。


 「……もう、日本に帰る事はないんだね」


 向後岬を振り返り、雪風は寂しげに呟いた。

 自分の後ろに付いてくるのは、黙々と続く非武装の七隻の艦たち。

 彼女たちもまた、自分と同じように戦勝国へと引き渡される運命を背負っている。

 この先、敗戦国の賠償艦である自分達がどうなるのかわからない。不安が募るのは当たり前だった。しかしその運命を受け入れる他はない。


 「……これが、私にとって最後の艦隊かぁ」


 朝日に照らされて、雪風の目の縁に白いものが光った。




 佐世保を出て二日後、七月三日午前十一時に『雪風』は上海に入港した。引き渡し式は七月六日であった。

 そしていよいよ引き渡しを前日に控えた日の夜、雪風の下に『初梅』の艦魂が訪れた。


 「雪風さ~ん」

 「どうしたの、初梅」


 現れるやいきなり胸に飛び込んできた自分より幼い少女を、雪風は優しく受け止める。

 彼女は橘型駆逐艦十四番艦『初梅』の艦魂。彼女自身は昭和二十年四月に進水、六月に就役という終戦直前に誕生した艦で、日本海軍が最後に竣工させた駆逐艦であった。


 「私達、この先どうなるのでしょう。明日、自分が引き渡されると思うと、怖くて怖くて……」

 「……初梅」


 まだ生まれて一年弱、そもそも海軍に在籍していたのは半年にも満たないのだから、彼女のような幼い艦にとってかつての敵国に譲渡されるなど不安でしかないのだろう。

 雪風はよしよし、と初梅の頭を撫でた。


 「大丈夫ですよ、初梅。貴女は一人ぼっちじゃない」


 その言葉を紡いだ瞬間、あの坊ノ岬に散っていった妹の顔が浮かぶ。

 そんな雪風の心情も露知らず、初梅は雪風の胸の中から泣きそうな顔を上げた。


 「私も不安ですが、きっと大丈夫。皆、一緒だもの」


 実際の所、向こう側に引き渡された後、自分達がどんな扱いを受ける事になるのかはわからない。今は武装も無い、軍艦としては使えない状態にあるのだ。もしかしたら解体、だってあり得る。

 それは現実味のない言葉ではあったが、嘘偽りのない思いでもあった。雪風の言葉に、安心したような表情を浮かべる初梅。


 「それに私達は武装が無くても、向こうに渡っても恥ずかしくないぐらいに整備されているんです。もっと自信を持って、堂々とすれば良いんですよ」


 賠償艦として戦勝国側に引き渡される事が決まった時、『雪風』の乗員たちは最後まで入念に整備を行い、その日まで準備を進めてきたのだ。


 「何も心配しないで。明日を迎えましょう、初梅」

 「……はい、雪風さん」


 ようやく初梅の顔に笑顔が戻り、雪風も微笑んだ。

 そしていよいよ、七月六日の引き渡し式を迎えるのであった。





 昭和二十一年七月六日

 上海


 式典が開かれる上海の港で、日本の国歌である「君が代」の吹奏と共に、『雪風』の艦尾から日章旗が降ろされた。

 最後の瞬間まで、『雪風』の乗員として務めを果たしてきた男たちも、ジッとその光景を見守っている。

 そして、日章旗が降ろされた艦尾には、代わりに中華民国の青天白日旗が掲揚された。

 それを見た途端、それまで涙を堪えていた者たちも、遂に声を上げて泣き出した。


 ――『雪風』はもはや、日本の艦ではない。


 そんな現実を、思い知らされたのだ。

 泣き崩れる男たちを前に、雪風もまた涙を流していた。艦尾に靡く新たな国旗。それは『雪風』が中華民国海軍の艦となった事への証だった。



 引き渡し後、『雪風』の乗員たちは最後の引継ぎを行うため、中華民国側の将校や兵たちとやり取りを始めていた。

 中華民国側の将兵たちは、整備が行き届いている『雪風』の様子を見て、感嘆しているようだった。

 特に台湾出身の将校たちは涙を浮かべながら、乗員たちに感謝の言葉を捧げていた。

 雪風はその間、予想していなかった再会を果たしていた。


 「雪風!」


 久しぶりにその名を呼ばれ、雪風は振り返った。自分の傍に駆け寄ってくる男の姿が見える。

 雪風は驚きながら、その男を迎えた。


 「久しぶりだね、雪風。元気だった?」

 「……日景さん?」


 あのラバウルに向かう途上で――都倉と親しげに話していた若き青年の顔が重なる。

 雪風の目の前で、五年前と変わらない無垢な笑顔を浮かべているのは、落水しかけた高砂族を都倉と共に助けた日景晃斗であった。

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