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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十九年~二十年
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第六十話 雪風のいちばん長い日

終戦――

 「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ似テ時局ヲ収拾セムト欲シココニ忠良ナルナンジ臣民ニ告グ…………」


 燦々と照りつく夏の陽射しの下、半袖の軍服やシャツ姿の男たちがラジオを囲って、その声を立ち尽くすようにしながら聴いていた。


 「難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ似テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」


 やがてラジオの放送が途絶えると、周囲からはすすり泣くような声が代わりに聞こえ始める。

 ある者は崩れ落ち、その泣き声を堂々と洩らし。

 そしてある者は、呆然と夏の青々とした空を見上げる。

 都倉は、空を見上げていた。

 あの特攻作戦から四ヶ月。太陽が照りつく日の朝、戦争は終わった。日本の敗北という形で。

 敗戦という二文字が重く圧し掛かる中、都倉の胸の内には様々な思いが渦巻いていた。あれだけ戦ったのに、日本は負けてしまったという悔しさや哀しさ。そして一方で、『雪風』という艦に対し、よくぞ最後まで生き残ってくれた――という感慨もある。

 後者に関しては、戦争に負けたという事実よりも自分にとっては重要であると認識している。帝国軍人としては間違っている感情なのかもしれないが、彼女の生存という証に安堵している自分もまた自分なのだ。


 「………………」


 都倉は乗員たちの輪から離れた所で、一人呆然と立ち尽くす雪風の姿を見つけた。

 雪風の傍に歩み寄ると、魂が抜けたような顔で、雪風はポツリと口を開いた。


 「……大尉。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 「ああ、何だ」

 「……日本は、負けたんですね」

 「……ああ、そうだ。負けた」

 「……そう、ですか」


 泣くわけでも、悔しがるわけでもなく、雪風はただ現実を受け止めるように頷いていた。


 「………………」


 ふらりと立ち去る雪風の背中を、都倉はただ見送る事しかできなかった。






 海に向かって祈るのは、雪風の日課となっていた。

 この戦争が始まり、時が経つにつれて多くの仲間たちが沈むと、祈る日も増えていった。

 今となっては、祈らない日は無い程だ。

 この海には、戦いに赴き散っていった多くの艦が眠っている。その中には、雪風の数多い姉妹たちも含まれる。

 

 「……結局、私だけ生き残っちゃった」


 正直、先程のラジオは何を言っているのかよくわからなかったが、乗員たちが涙を流している光景を見て、大方の予想は付いていた。

 そして改めて、都倉から事実を聞かされて確信した。日本が戦争に負けたという雪風の予想は、当たっているという事に。

 つまり、戦争は終わったという事。

 生き残った――という事。

 自分だけ生き残った。

 そんな思いが、雪風の胸中にあった。


 開戦時、日本海軍が保有していた艦艇は約二百五十隻。

 戦時下、一等駆逐艦を含む艦艇を、日本海軍は四百隻を建造。

 しかしこの時点で、百隻以上あった一等駆逐艦は既に二十隻にも満たず、十八隻あった陽炎型駆逐艦に至っては、四月十日に厦門で『天津風』が敵機の空襲を受け沈没し、『雪風』ただ一隻だけとなっていた。


 「私、本当に……一人ぼっち、だよ……」


 獅子崎の方には、共に水上特攻から生還し行動を共にしてきた『初霜』が浅瀬に乗り上げ、痛々しい姿のまま沈黙している。

 あれが最後の戦闘だったと記憶している空襲で、回避行動中に機雷に触れた彼女は、そのまま救助される事もなく放置されている。

 助けようにも、彼女が擱座している湾の出入り口は機雷で封鎖されており、『雪風』も身動きが取れない状況だった。



 四ヶ月前。特攻という決死の作戦においても、ほとんど無傷で帰ってきた『雪風』を待っていたのは、もはや戦う力を失った祖国の現実であった。



 全軍玉砕の先駆けとして散っていった『大和』以下海上特攻隊の出撃を最後に、日本海軍は完全に戦闘能力を失った。

 燃料は欠乏し、残された艦艇は外洋に出る事すらできなくなった。

 それは当然、『雪風』も同じであった。

 開戦から華々しい歴史を飾った二水戦が解隊された後、『雪風』は『初霜』と共に第31戦隊に編入され、日本海側の舞鶴に回航した。

 しかし六月になると舞鶴も敵の空襲を頻繁に受けるようになり、宮津湾に移動するもそこでまた空襲に遭った。

 そして『初霜』はその空襲の最中、湾から出ようとした時に機雷に触れ――


 「私は、やっぱり、疫病神――なのかな」


 余りの幸運っぷりに奇跡の艦と呼ばれた一方、その幸運が裏目に「疫病神」「死神」などとも言われるようになった自身の呼び名。

 周りの僚艦が傷つき沈む中、自分だけほとんど無傷で生き残った故の所以。


 「……決して、貴女は疫病神などではない」

 「――!」


 雪風が振り返った先に居たのは、あの戦いの海で沈んだはずの矢矧であった。第10戦隊に編入した時と同じ言葉を、彼女は囁いていた。


 「……言ったでしょう、雪風。貴女のせいで誰かが沈むなんて事、これまでも、そしてこれからも無いのだと」

 「でも、……でもッ」

 「本当に、雪風ったらしょうがない子ねぇ」

 「!」


 次に現れたのは、姉の初風であった。呆れながらも優しさが滲み出ているその微笑は、昔と変わらなかった。


 「幾らなんでも、そんな事あるはずないじゃない。雪風は一生懸命、頑張ってきたんだから」

 「そうですよ、雪姉! 雪姉が疫病神や死神などではありません。雪姉は、女神ですっ!」

 「初風姉さん、天津風……」

 「――お姉ちゃん」


 一瞬、息が詰まりかける。もう見る事はできないと思っていた、時津風の微笑みがそこにあった。


 「雪風お姉ちゃんは、私にとって、とても大切で大好きなお姉ちゃんだよ」

 「時津風……」

 「私もだよ、お姉ちゃん! 私も雪風お姉ちゃんの事、大好きなんだから! ねっ、磯風」

 「……そうだよ、姉さん」

 「浜風……、磯風……」

 

 二度と会えないと思っていた姉妹たちの顔が、目の前に並んでいる。

 その光景が、余りに信じられなくて。

 涙が、零れる。


 「ごめんなさい、皆。私だけ、生き残って……」


 姉妹たちや仲間たち、皆先に沈んだのに、自分だけ生き残った。

 だが、誰もそんな自分を責めようとしない。


 「……自分を責めるのは、もうやめて。雪風」


 初風が、優しく微笑みかけながら、言葉を紡ぐ。

 雪風はハッと、皆の顔を見た。彼女たちは、笑っていた。


 「――私達の分まで、最後まで精一杯生きて」


 朝日のように、眩い光が射し込んだ。そしてその光の奥へ吸い込まれるように、姉妹たちの姿が消えていく。


 「ま、待って……!」


 自分の前から消えていく姉妹たちに向かって、雪風は手を伸ばす。

 だが、その手は何も掴む事は無く――

 気が付くと、雪風は海の方へと手を伸ばしていた。

 目の前には平穏のような波静かな海面があるだけで、姉妹たちの姿も、あの光も、面影すら無かった。


 「……うっ、うあああ……ッッ」


 せき止めていた何かが決壊したように、雪風は声を上げて泣き出した。

 静かに漂う波の音が、雪風を優しく慰撫しているかのようであった。



 




 終戦の日、『雪風』は第41駆逐隊に編入され、十一日後に第一予備艦となった。

 駆逐艦では無くなった『雪風』に新たな任務が下る事は、既にこの時噂はあった。

 しかし、それは同時に別れの意味も含まれていた。


 「……雪風、やっぱりここにいたか」

 「都倉大尉……」


 岸壁に繋留されている『雪風』の艦上。舫いが伸びる艦首甲板に、都倉は巫女服を着た少女の背中に語り掛けた。その声は寂しさに満ちていた。

 振り返った雪風の表情もまた、寂しそうに揺れていた。


 「本当に、行ってしまうのですか?」

 「ああ。残念だが、お別れだ」


 はっきりと事実を告げられ、雪風はひどくショックを覚えたような顔になる。

 しかし言葉にする都倉もまた雪風と同じくらいに辛かった。

 『雪風』が第一予備艦になった頃、ほぼ同時に航海科、機関科を除く乗員たちは復員する事が決まっていた。終戦まで『雪風』の砲術長を務めた都倉も同様だった。


 「……寂しく、なりますね」

 「ああ、そうだな」


 悲しそうな瞳を向ける雪風に、都倉は真っ直ぐに見詰め返す。

 都倉もまた、彼女との別れに寂しさを感じていた。

 しかしこの『雪風』という艦から離れる事に寂寥感を覚えるのは都倉だけではなかった。三年八ヶ月に及ぶ戦争を生き延びた『雪風』の乗員たちの間には、一つの家族のようなムードが漂っていた。

 共に肩を並べ、同じ艦に乗り、戦ってきた戦友たち。そして『雪風』という艦に、寂しさと共にやれるだけの事はやったと言う満足感を抱きながら、乗員たちは各々の郷里へと帰るのだった。


 「……あの、大尉」

 「何だ?」

 「……私、都倉大尉に伝えたい事があるんです」

 「伝えたい事?」


 都倉が訊ね返すと、はい、と雪風は小さく頷いた。しかしその表情は先程の寂寥感から真剣なものに変わっている。

 束の間の緊張感が過ぎた後、意を決したように雪風の口が開いた。


 「――私、」


 一瞬、喉に異物が引っかかったかのように言葉が詰まる。言葉が続かない雪風の口は、開いた一方で塞ぐ事もない。都倉は不思議に思いながらも、雪風の言葉を待ち、その水面のように揺れる瞳を真っ直ぐに見詰め返した。

 一方の雪風は、折角決意したと思ったのに、肝心の言葉が出てこなくて内心焦っていた。まさか自分がここまで動揺するだなんて、正直に言って予想を遥かに越えていたからだ。ここまで恥ずかしいものだなんて。しかし、逃げるわけにもいかなかった。これは自分で決めた事なのだから。

 都倉の方を真っ直ぐに見詰めたまま、雪風は声を絞り出すように言葉を紡いだ。


 「――都倉大尉の事、好きです。一人の男性として、以前からずっと好きでした」


 言葉に出す前はあれだけ緊張したのに、いざ出してしまえば後は楽だった。顔はまだ熱いけど、切り出すのもやっとだった口も、今は流暢なものであった。


 「初めて出会った時から意地悪で、何でそんな事言うんだろうって思う事は何度もありました。でも、そんな都倉大尉の事も嫌いではありませんでした。大尉と話したり、お酒を飲んだり、一緒に過ごしていると楽しんでいる自分がいたんです。指輪を貰った時も、嬉しかった。そしていつの間にか、貴方の事が好きになっていました。今まで、あの約束――戦友としての関係を壊したくなくて、この気持ちを隠していました。でも、今だからこそ言えます。大尉――貴方の事が、好きです」


 戦争が終わって、復員の話を聞いた時から――雪風は、都倉に自分の想いを告げる決意を抱いていたのだった。

 今までは彼と交わした約束を守るために、敢て自分の想いを殺してきた。

 しかし戦争が終わり、自分が駆逐艦では無くなった事で、雪風は自分の想いを隠す理由を失った。失ったというよりは、この想いを伝えたいという自意識が芽生えていたのかもしれない。ただ一つ言える事は、後悔はしたくなかった。だから別れの日、雪風は自分の気持ちを都倉に伝えようと決心した。

 やっと、伝えられた。

 まるで付き物が落ちたかのように、雪風は自分の体が軽くなったような気がした。

 今までジッと雪風の言葉を微動だにせず聞いていた都倉の様子に、雪風は最早緊張も何も無かった。どんな反応が返ってきても、すんなりと受け止められる自分がいると確信を持っていた。

 やがて、都倉の口が言葉を紡いで開き出す。


 「……有難う、雪風。俺は君と出会えて、一緒に戦えて、本当に良かったと思っている」


 雪風は都倉の言葉を聞いた。それは彼の純真な思いであった。


 「――雪風、君は俺の誇りだ」


 その言葉を聞いた時、雪風は目の前の世界が霞み、自分が泣いている事に気付いた。

 雪風の胸の内は、まるで日が昇った空のように晴れやかだった。


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