第六話 姉妹艦
昭和十六年八月の蒸し暑いある夜。毎日猛訓練の日々をおくる第16駆逐隊の面々が『雪風』のある一室に集っていた。
「ではこれより、第62回定例会議を始める」
音頭を取るように声を上げた少女に、他の二人の少女がヒソヒソと話し始める。
その内の一人は時津風だ。
「62回もやってたっけ?」
「こういうのはきっと雰囲気が大事なのよ」
「あはは……」
そしてその傍らにもう一人、苦笑いを浮かべる雪風も居た。
この場にいる少女たちは、雪風と同じ艦魂だ。第16駆逐隊に属する雪風の姉妹、つまり陽炎型駆逐艦の同型艦たちだ。
会議と言っても、その実態は彼女たちのお茶会だ。こうして顔を合わせ、近況報告をする事もあれば単に雑談したり戯れたり。その程度に過ぎない。
「一体どうしたの、天津風」
尋ねたセミロングの少女は初風だ。陽炎型駆逐艦七番艦『初風』の艦魂である。数多くいる姉妹艦の中、この場にいる四人の中では一番上だ。
そして尋ねられた方は天津風。陽炎型九番艦『天津風』の艦魂だ。陽炎型の中で、彼女のみが次世代型駆逐艦に向けた試作のボイラーを搭載している。今後実戦にてテストデータを出しながら活躍する事が期待されている。
短く纏めたポニーテールを揺らした天津風は、凛とした声色で返答した。
「新たに『雪風』に乗り組んだ都倉という人間の事だ。我々が見える人間が我が16駆に現れたという事実は、想像する以上に重大な事柄であると言わざるを得ない」
「え、今更……?」
きょとんとする初風だったが、天津風の顔は真剣そのものだった。
確かに艦魂が見える人間は数少ない。一隻の艦に一人いれば良い方と言う程で、四隻しかいない第16駆逐隊の一隻に一人が居るというのは珍しいケースだ。
だとしても、妹がここまで関心を抱くのを初風は不思議でならなかった。
しかもその関心が、警戒の側面が強く見えるのだから尚更だ。
「時津風、お前も都倉という人間に会ったようだな。どんな男だ?」
突然話を振られた時津風は、慌てて口を開いた。
「え、えっと! い、良い人そうでした……」
それが時津風なりの精一杯の返答だった。無理もない。元々何かを表現するのが苦手な上に、会った事があると言っても短い間に一言二言程度の言葉を交わした程度なのだから。
「天津風、何が言いたいの?」
話題の当事者である雪風が問いかけた。傍にいた初風と時津風は、その声に雪風の不満が含まれている事に気付いた。
二人の視線がぶつかり合う狭間に、初風と時津風は見えない火花を見た。
口をゆっくりと開ける天津風に対して、雪風の瞳が構えを見せる。
「雪姉、あの男に変な事はされていないだろうな?」
「……は?」
間抜けな声を上げたのは、雪風だけではなかった。
堰を切ったように天津風が雪風の手をガシッと掴みながら、顔をぐっと近付けながら次から次へとその思いを吐き出した。
「――雪姉の近くに男が現れたと聞いて、もう心配で心配で! もしその男が雪姉に付く悪い虫だったら……!」
「ちょ……ッ! 落ち着いて、天津風!」
ドタバタと騒ぎ始める姉妹たちの様子を、初風と時津風は傍観する事しかできない。
「男っていうのは獣だ! どんなに規律正しい帝国軍人だったとしても、雪姉の可愛さに魅了されればおそらく造作もない事だ! だから……!」
「だから落ち着いてって、天津風! ちょっと離れてよぉ!」
何故、天津風が都倉の存在を案じていたのか。その理由が今、判明した。
雪風の巫女服にすがり着く天津風の姿は、普段のクールな雰囲気を粉々に打ち砕いてしまうのに十分なものであった。彼女はそれ程までに雪風の事を姉として好いていた。
故に姉の傍に現れたという男の存在を、天津風は危惧したのだろう。
「そんな心配しなくても大丈夫よ、天津風!」
抱き着く天津風を引き離しながら、雪風は必死に声を上げる。
「都倉少尉はそんな人じゃないから!」
「しかし雪姉! 男というものは性欲の権化であります。可愛い雪姉に興奮を覚えない者などあり得ませぬ。現に私ですら雪姉に対し下半身がぬ」
「きゃあー! 何を口走りやがってるのあなたはぁぁぁッッ!?」
さすがに収拾が付かなくなりそうなので、ここで初風が介入を決断する。
「はいはい、そこまで。いい加減にしなさい、天津風」
雪風から引き剥がした天津風を、後ろから時津風がガッシリとホールドする。離せ、と抵抗を続ける天津風の前に、初風が仁王立ちするや――
「――ふんっ!」
「グゴッ!?」
天津風の頬に向かって、初風の拳が食い込んだ。
初風にグーで殴られた天津風は、そのまま消沈した。
ふぅ、とほのかに赤くなった拳に息を吐きかけた初風はやれやれと首を振った。
「こんな事で取り乱すだなんて、情けないわよ天津風。仮にも貴女は誇り高い陽炎型の一隻。他の艦型駆逐艦に笑われちゃうわよ?」
その時の初風の瞳は、撃沈した天津風を支えていた後ろの時津風さえ震えあがる程だった。
「も、申し訳ありません……」
頬を赤く腫れさせた天津風は、謝罪と反省の意を示すと同時にぐったりと項垂れた。
「は、初風姉さん。天津風も私を心配してくれたんです。どうか許してあげてください……」
危うくその巫女服を何故か剥かれかけたというのに、天津風に対する慈悲を要望する雪風に、初風は先程までの表情とは打って変わってニコッと笑った。
「雪風は偉いわね。大丈夫、天津風も反省しているようだし、これ以上とやかく言わないわ」
「ありがとうございます……」
「でも、そうね――」
初風の言葉に、雪風は思わずドキッとした。
「私もその人に会いたくなってきちゃったわ。ねえ、その少尉に私達を紹介してくれないかしら」
「と、都倉少尉に姉さんたちをですか?」
「ええ。天津風のためにも、少尉の事もちゃんと紹介した方が良いと思うの」
雪風はぐったりした妹を一瞥し、もう一度初風の方に視線を戻して頷いた。
「わかりました。少尉をみんなに紹介します」
――という事で、都倉は他三人の少女たちを前にしていた。
三人とも雪風とそう大した差は感じさせない外観年齢で、やはり姉妹というだけあってみんな雪風に似ている。
「少尉、紹介します。こちらは私の姉妹たちです。左から初風、天津風、時津風。陽炎型駆逐艦の艦魂たちです」
雪風が並んだ三人を姉の方から順番に紹介していき、都倉も各々に挨拶をする。
「初めまして。俺は都倉賢二少尉だ」
「都倉少尉、お噂は雪風から聞いています。時津風からも」
時津風とは既に顔を合わせている。都倉が視線を向けると、時津風が少し照れ臭そうに見詰め返した。
「妹が世話になっています。私は陽炎型駆逐艦七番艦『初風』の艦魂。よろしくお願いしますね、トックン」
「トックン!?」
三人の反応に、初風はアラ、と口に手を当てる。
「お気に召さないかしら?」
「いや、気に召すとかそういう問題ではなく……」
「可愛らしくて良いと思いますけど」
ふふ、と微笑んでいる初風の言葉は本気なのか冗談なのかよくわからない。船に酔ったような顔で、都倉は手を上げた。
「その呼び方は、出来ればやめて頂きたい」
「そうですか、残念です。もし気が変わったらいつでも許可をくださいね、都倉少尉」
色々と言いたい事はあるが、敢て無視を決め込んだ方が得策だろう。都倉の意思を汲み取ってくれたのか、それとも彼女自身もこの状況を変えた方が良いと判断したのか。隣にいた小さなポニーテールの少女が踵を揃えた。
「私は陽炎型駆逐艦九番艦『天津風』の艦魂だ。以上!」
「お、おう。よろしくな、天津風……」
「ふん」
何故か初対面から敵意丸出しに見える。俺、何かしたかな?と、ありもしない自らの非を思い返してしまう。
「私は時津風です……。先日はどうも……でした」
「ああ、よろしく時津風。先日はありがとな」
「い、いえ。お礼を言われるような事は何も……」
「少尉、時津風と会ってたんですか? それに、何かあったんですか?」
「いいや、大した事ではないよ」
雪風から逃げていた所を見逃してくれた恩義を話すわけにもいかない。ここはさっさと話題を逸らした方が良いだろうと、都倉は雪風の追及から上手く躱してみせた。
既にこの時点で三人の個性が、都倉には垣間見えた気がした。
第16駆逐隊に所属する雪風の姉妹たち――初風、天津風、時津風。三隻とも帝国海軍が理想の果てに生み出した一等駆逐艦だ。この目の前にいる幼い彼女たちが、水雷戦隊の主力として活躍する事になるだろう。
しかし本当に雪風だけじゃないんだな――と、都倉は思った。
艦魂は皆、若い女の姿をしているとはずっと前から知っていたとしても。
こんな女子供と言えるような、年端もいかない少女が戦場に駆り出される事になるのは忍びない気もする。
彼女たちの正体は駆逐艦とも重々承知している。
理屈だけではない。人としての言い表せない何かを感じざるを得ないというだけの話だ。
せめて、もう少し大人に見えたらな……なんて。そんな言葉は口が裂けても彼女たちの前では言えるはずもない。
こんなザマでは、もし女子供まで戦争に加わるような事があったら、きっと自分は――
「少尉?」
「――!」
気が付くと、雪風が不思議そうに都倉の顔を覗き込んでいた。
「どうしたのですか、神妙な顔になって」
「……いや、何でもない」
怪訝に顔を覗き込んでくる雪風にこれ以上不審がられないように、都倉は口元を緩ませてみせる。
「他の三人と並んでいると、君の恰好はより際立って見えるなぁと思ってな」
「な、なにがそんなに可笑しいのですかぁ~ッ!」
都倉の発言に頬を膨らませる雪風。
そんな二人のやり取りを、初風と時津風が微笑み、天津風が嫉妬するように口をへの字に曲げる。
都倉がそう言ったように、三人は『雪風』の艦内でもよく見かける白が眩しい水兵服を着ていた。水兵の恰好をした姉妹たちに囲まれると、雪風の巫女服は更にその異様さを強調させる。
「別に良いじゃないですか。私達は艦魂なんですから」
「そこは海軍の規律も関係ないんだな……」
「貴様、雪姉の恰好に文句があるのか。雪姉の可愛いお姿を愚弄するのは私が許せんぞ」
「天津風はちょっと黙っててね」
にっこりと笑みを浮かべる初風に、硬直した天津風は「はい」と小さな返事を漏らしながら大量の脂汗を流していた。
都倉はそんな彼女たちを見て、優しく笑った。
「そういえば、少尉の恰好は変わっていますね」
時津風の指摘に、雪風たちも都倉の服装に視線を向ける。
都倉が着ているのは、最近士官たちに支給された苧麻製の軍服であった。以前まで、士官たちは白麻の軍服を夏用として着ていたが、今回からはより熱が逃げやすい苧麻製のものを着るようになっていた。
「海軍にもそんな服があったんですね」
「ああ。今年はこの服を着るようになってな、暑い日は涼しくて快適だぞ」
都倉の説明に感心を浮かべる時津風や雪風。
初風もそれを微笑ましそうに見詰めているが、どこか陰りが見える。天津風は神妙な顔付きで黙っているだけだ。
都倉は二人が何を思ったのかを察していた。
今年の夏から軍服が変わった事を、都倉は日本の政情が関係していると踏んでいた。
苧麻は熱帯や亜熱帯に生える植物だ。その植物を原料に作られた服は通気性が良く、他の服より熱が逃げやすいので暑い地域に行くならもってこいだ。
そう、例えば南方とか――
この頃、日本政府や陸海軍の上層部は南進への決意を固めつつあった。
この夏まで日本は北進か南進かで悩みに悩んでいた。
六月の段階ではドイツ軍のソ連領侵攻を受け、同盟国であるドイツ軍と連携してソ連を撃破する北進論が掲げられていた。日本海軍ではそれ以前にも南部仏印進駐を推進する南進論が主張されていたが、一時はこの北進論に従ってソ連を攻撃した方が正しいという方針も流れるようになった。
しかし昨年夏のノモンハンでソ連の戦車部隊と戦闘を経験し、辛酸を舐められた陸軍は北進論に対して同調する動きを見せようとしなかった。
陸軍が動かなかった結果、そこでまだ南進論が上がるようになる。
日本海軍が南進論を推進する理由は、米英と戦争になった場合に東南アジアに眠る石油が必要になるからだった。
支那事変の泥沼化によりこじれた米英との関係が、もし完全に決裂し開戦したら。無資源国である日本は戦うために必要な石油をどこからか確保しなければならない。
石油の大半を米国から輸入していたが、八月一日に米国は日本に対し石油の輸出禁止の措置を執った。
こうなれば、日本が石油を用意するにはボルネオやスマトラなどの蘭印の石油を確保するしかない。
しかしこれを叶えるためには、シンガポールに拠点を置く英国の東洋艦隊などその勢力を殲滅しなければならない。
つまり、蘭印の石油を手に入れるためにはシンガポールを奪取しなければ始まらない。
そしてシンガポールを攻めるためには、その根拠地として仏印サイゴンに基地を置いておきたい。仏印の支配者であるフランスは昨年五月にドイツに降伏し、蘭印に関しても同年春にオランダがドイツに屈している。
なので日独伊三国同盟を締結した日本がそれらの地域に軍を進駐させる事は不可能ではない。
石油輸出禁止で、遂に日本は南進を決意したのか。
南方に着ていくのに最適な苧麻製の軍服を支給された時、都倉はそう考えていた。
「巫女服だって案外涼しいんですよ?」
そんな都倉の懸念を含んだ推測を払うかのように、雪風の呑気な声が上がる。
「え? いや、むしろ蒸して暑そうに見えるんだが、そうなのか?」
「私のはちゃんと特別仕様なんですよ」
誇らしげに胸を張る雪風に、都倉は疑惑を孕んだ視線を向け続ける。
雪風はくるりと回って見せた。その刹那、都倉は僅かな隙間から見えた肌を見た。その一瞬だけで、結構な隙間を発見し、そしてその奥底から顔を出していた部位の一部を都倉は目撃してしまっていた。
「どうしたのですか? 目を背けて」
「いや……」
「ほら、ちゃんと見てください!」
またくるくると回転する雪風を、都倉はやはり直視するわけにはいかなかった。
「確かに君の服の通気性は理解できた。 だからもうやめなさい」
「ん~、目が回りました……」
「言わんこっちゃない」
回り過ぎて足元がおぼつかない雪風に、都倉はそっと腕を伸ばす。
そのさりげない動作に、周囲からわっと小さな黄色い声が漏れた。
「大丈夫か?」
「んー、ぐるぐるしますぅ」
顔色を青くしながら寄りかかった雪風と、それを支える都倉の図。そしてその二人を周囲から眺める三人の少女。
「……私達はそろそろ御暇しましょうか」
「そうですね」
「うぐぐ」
初風と時津風が顔を見合わせ、天津風が歯ぎしりを立てる。
「それでは、少尉、雪風。私達はこの辺で失礼しますね」
「もう帰るのか?」
「はい、今日はご挨拶という事でお邪魔させて頂いただけですので」
その時、チラリと都倉に支えられた雪風に視線を向ける初風。
優しげに微笑む初風の表情は、まるで我が子を見守る母の如く慈愛に満ちたものであった。
「都倉少尉、雪風をよろしくお願いします」
その言葉を言い残して、初風は一足先に光に包まれて消えていった。
「ほら、私達も行きますよ。姉さん」
「うぐぐ~」
続いて時津風、そして最後まで都倉を睨みつけていた天津風も立ち去っていった。
彼女たちがいなくなった後、調子を取り戻した雪風はあれ?と声を上げた。
「みんなは?」
「帰ったよ」
「え~、いつの間に? どうして……」
自分を残してさっさといなくなってしまった姉妹たちに疑問を持ちながら、雪風はゆっくりと都倉の傍から離れた。
「あ、すみません。重かったですか?」
「いいや。排水量二千トンの君が重いわけないだろう?」
「……本当に意地悪な人ですね、少尉は」
頬を膨らませる雪風だったが、すぐに微笑みに変わった。
「少尉、姉や妹たちとも仲良くしてください。私達の事、今後ともよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。よろしく」
都倉はこの日、雪風の姉妹たちと出会った。
それは新たな戦友たちを得た事と同じだった。