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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十九年~二十年
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第五十九話 介錯

 転覆の瞬間、爆風のような熱気が顔に当たった。

 目の前で不沈と謳われた巨艦『大和』が遂に艦橋を海面に叩き付け、海に沈んでゆく様は圧巻の一言であった。艦が沈没する間際、激しい風圧が熱となって射撃指揮所に押し寄せ、都倉は思わず顔を背けた。

 次に都倉が『大和』の方を見た時、第二砲塔付近で大爆発が起こり、キノコのような黒煙が天に昇っていた。

 高々と昇る黒煙を、雪風は呆然と見上げる。

 その黒煙の下に沈みゆく『大和』の姿は、既に見失っていた。


 「大和……長官……」


 巨艦(彼女)が天に遺した黒煙は余りにも大きすぎて、自分の存在が如何に矮小であるのかを思い知らされた。





 『大和』沈没後、海上に漂流する古村司令官の代わりとして、駆逐艦『冬月』に座乗していた第41駆逐隊司令の吉田正義大佐が指揮を執る事になった。

 彼の判断により沖縄突入は中止され、残存艦には「生存者救出」が言い渡された。


 『雪風』は『大和』の生存者救出に向かった。


 重油が浮いた海面には、そこかしこに黒い頭がぷかぷかと浮いていた。顔を真っ黒にした兵たちが、近付く『雪風』の方に向かって必死に泳いでいた。

 『雪風』は舷側からロープや竹竿、浮き輪を先に付けたロープなどを投げ入れ、数人が固まっている兵たちを優先して引き上げた。

 自力で艦まで泳いできた兵は、舷側に垂らした縄梯子を掴んで上がった。

 都倉は舷側に向かい、縄梯子を伝って上がってくる兵たちを次々と引っ張り上げた。


 「よし、もう大丈夫だ!」


 兵たちの顔はどれも重油に汚れ、疲労困憊の様子だった。

 無理もない。一時間半にも及ぶ戦闘の末、海に投げ出された挙句、ここまで泳いできたのだから。

 ロープなどで引き上げられた兵たちも、同様であった。

 しかしこの時、都倉は既に気付いていた。生存者の数が、余りに少ない事に。

 『雪風』が収容した生存者の数は、百数十名に過ぎなかった。

 出撃した『大和』に乗っていた全乗員は三千三百三十二名。しかし実際に救出された生存者は二百七十六名であった。


 他の沈没艦、損傷艦の乗員の救出も行われた。


 残存艦の指揮を執っていた『冬月』は、航行不能に陥った『霞』に横付けして乗員の収容に当たった。

 乗員収容後、自力で航行する事が不可能になった艦の方はどう対処するか――

 もし曳航するとなれば、日本に辿り着くまでに夜が明けてしまうだろう。そうなれば再び敵機の空襲に遭い、今度こそ全滅する危険がある。

 ならば、曳航という方針は断念せざるを得ない。

 残された答えはただ一つだった。





 水平線を夕陽が染め上げた頃。

 先程まで激しい戦闘が行われたのが嘘だったように澄み渡った海面に、夕陽の光が海面に反射してオレンジ色に煌めいていた。

 夕焼けに染まる『霞』の艦上にて、初霜が倒れた霞を抱きかかえていた。

 その近くに、冬月、雪風も居た。

 普段は冷静沈着の初霜も、涙を流して、自分の負傷した傷も気にせずに血だらけの霞の身体を抱き締めていた。同じ駆逐隊に所属し、付き合いが長かった初霜にとって、これから行われる事に、非常に辛いものがあった。


 「霞……」

 「……初霜さん、泣かないで……。あなたにとっては珍しい表情だけど、見てて気持ちいい気分じゃないです……よ……」


 嗚咽を噛み締めながら、自分の名を呼ぶ初霜に対して、霞は震える手で、そっと涙が伝う初霜の頬を触れた。


 「私の分まで……、生きてくださいね……」


 消え入りそうな、霞の声。

 周りからは、嗚咽を噛み殺したような声が啜り鳴く。


 「……ああ、約束する。霞、達者でな……」


 初霜の言葉を聞いた霞は、優しく微笑んだ。それが最後に見た、彼女の笑顔だった。

 そんな彼女に対し、敬礼を捧げる艦魂たち。

 そして霞の傍から次々と仲間たちが立ち去った後、霞は安らかな気持ちで瞳を閉じた。

 乗員たちの収容を終え、横付けしていた『霞』から離れた『冬月』が、魚雷発射管を構えた。


 「……ごめんなさい」


 冬月は涙を零しながら、ポツリと呟いた。

 周囲に「君が代」「海ゆかば」が次々と奏でられる中、『冬月』から放たれた魚雷が、ゆっくりと漂流する『霞』に向かっていった。

 そして全員が見守る中、被雷した『霞』は完全に東シナ海の海面下に沈没した。

 朝潮型駆逐艦最後の生き残りであった『霞』は、『大和』左舷側方に位置し、二発の直撃弾と数発の至近弾を受けて機関部が破壊され、航行不能に陥り艦隊から落伍した。そして曳航が断念され、夕刻に駆逐艦『冬月』へ乗員を移乗させた上で午後五時頃に『冬月』の雷撃により処分された。

 『霞』の人的損害は、戦死十三名、戦傷四十七名で、喪失した他艦と比べ死傷者が少なかったのは艦長松本正十中佐指揮の下に奮戦した乗員全体の連携密なる功績が成した事だった。




 『霞』沈没後、『初霜』は戦闘中に沈没した『矢矧』の乗員救出に向かい、二十分後に『雪風』『冬月』も加わり、二水戦の古村司令官も救助された。

 救出された古村司令官は、『初霜』『冬月』『雪風』の三隻を率いて、他の損傷艦の捜索に向かった。

 『冬月』は姉の『涼月』を、『冬月』『雪風』は『磯風』を捜しに行く事になった。

 この海のどこかにいる姉の姿を求め、『冬月』は甑島付近まで北上、更に南下反転しながら必死に捜し回った。


 「……お姉ちゃん、必ず見つけ出すから」


 しかし六時三十分、『冬月』は前部に被弾し大破した『涼月』を捜索したが、遂に発見に至らず、佐世保へと向かった。

 後に『涼月』は自力で八日、佐世保に帰投する。





 一方、『磯風』の方は発見されたが、彼女は後部右舷に受けた至近弾によって機関部が浸水し、もはや日本に帰る力が残されていなかったので、『磯風』もまた『霞』と同じ理由で処分が決まった。

 そしてその処分を実行するのは――


 「嫌だ……ッ 嫌だよぉ……」

 「姉さん……」


 ――妹の処分の実行役に選ばれた雪風は、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくり、ふわふわした髪は何度も首を横に振る事によって乱れていた。


 「浜風を失って……、今度は磯風まで……。どうしていつも私の大好きな姉妹たちばかり……。私、一人ぼっちになっちゃうよ……」


 この二隻は共に佐世保海軍工廠で建造された後、『雪風』は第16駆逐隊に、『磯風』は第17駆逐隊にそれぞれ配属となった。

 そして『雪風』が17駆に編入した事で、二隻は再び一緒になった。

 だが、『雪風』はここに至るまで多くの姉妹を失っている。16駆を共にした『時津風』『初風』を失っており、敵の攻撃で大きな傷を負った『天津風』とも離れ離れになり、更に17駆に転属してからも『谷風』『浦風』を、そして今日の戦闘で『浜風』を失った。

 更に今、目の前にいる磯風さえ失おうとしている。

 しかも、雪風自身の手で。

 雪風の瞳から、大粒の涙がぽたぽたと磯風の頬の上に落ちる。磯風の頬から雪風の涙が伝い、磯風はそっと、涙の跡がくっきりと残る雪風の頬を撫でた。


 「一人ぼっちなんかじゃないよ。姉さんの周りにはみんながいるし……、私も姉さんの傍にいるから……」

 「いそかじぇ……、う、うぇぇ……ッ」


 愛する妹である『磯風』の処分に、雪風は拒絶し最後まで泣き崩れていたが、この残酷な現実を受け止めるしかなかった。

 そして闇夜が下る中、『磯風』から『雪風』に乗員が収容された。

 

 「姉さん……。 みんなを、頼んだよ……」

 「うん……ッ、うん……ッ! 必ず、生きて日本に連れ帰ってみせるから……ッ」


 雪風は磯風の手を、そっと包み込んだ。

 そして名残惜しそうに姉の手が離れていき、今度は磯風の方から手が伸ばされ――目の前で泣きじゃくる姉のふわふわした髪を撫でた。


 「姉さんの髪は、やっぱり気持ちいい……」

 「――ッ! 磯風ッ!」


 雪風は耐え切れないと言わんばかりに磯風を抱き締め、わんわんと声をあげて泣いた。磯風は微笑みながら、そっと泣きじゃくる姉を抱き締めた。


 「……お姉ちゃん。今までこんな無愛想な妹で迷惑掛けてごめんなさい。私や浜風の分まで生きてね……」


 雪風はハッと、磯風の顔を見た。

 磯風の瞳から、初めて一筋の涙が零れていた。


 「な、なに謝ってるの……、謝るのは私だよ! 今まで、悪いお姉ちゃんでごめんね……」

 「そんなことない。お姉ちゃんは私たちを大切にしてくれた……。姉妹想いのお姉ちゃん……本当に、ありがとう……」

 「私の方こそ、ありがとう……」


 二人の姉妹は再び抱き締めあった。既に二人の顔には、柔らかい綻びが口元に浮かんでいた。


 「浜風たちに、よろしくね……」

 「うん……」


 その時、どこからかラッパが鳴り響いた。処分実行の合図だった。ラッパが鳴り終わると、続いて「君が代」が流れ、そして「海ゆかば」が流れてきた。

 いよいよだ。

 磯風からそっと離れた雪風は、踵を揃えて敬礼した。磯風も返礼する。

 二人の姉妹は微笑み合い、そして雪風は、最後に手を振った。


 「……またね」


 さよならは言わない、また会える想いを込めて。


 「……うん」


 涙を浮かばせながらも、輝くような微笑みを最後まで見せてくれた雪風は、光と共に消えていった。残された磯風は仰向けになり、星が輝く空を見た。


 「こんな綺麗な夜空の下で死ねるなら……いいか……」


 磯風は、クスリと微笑んだ。そして、最後に呟く。


 「雪風のお姉ちゃん……、あなたで、本当に良かった……」


 やがて、遠方から砲撃音が聞こえた。





 当初、『磯風』の曳航は検討されたものの既に日は暮れ、朝には敵機の空襲があると予期されていたのでやはり『霞』と同様に曳航は断念された。そして処分の実行役に『雪風』が選ばれたのだが、砲術長である都倉は不本意な役回りに不満を抱くと共に、彼女の事を心配していた。

 『磯風』は『雪風』の砲撃で処分する事が決まっていた。そしてそれを実行するのは、砲術長の都倉自身であった。

 これ程、辛い思いをした事がなかった。しかしそれは彼女も同じであろう。


 「……やるしかないんだ」


 僚艦の処分。そして雪風と磯風の関係を知っている以上、背けてはいけない非情な現実だった。


 「右砲戦、右九十度。目標、『磯風』……」


 命令を口にする声は沈みがちになり、何ともひ弱なものである。ここまで気の乗らない砲撃もないだろう。レイテでの敗北に続いて、『金剛』や『浦風』の最期の看取り、『信濃』の生存者を救助し、また更に『大和』の生存者を救助、そして『磯風』の処分――

 砲塔が『磯風』の方へと回る。そして目標を明確にするために、探照灯が照射され、『磯風』の姿が暗闇から照らし出される。それを見た途端、都倉は一瞬、声が詰まりそうになった。

 絞り出すように、その声を放った。


 「撃ち方始めッ!」


 四発の砲弾が、『磯風』に向かって放たれた――はずなのに、水柱は『磯風』よりかなり手前に昇っている。

 ――おかしいぞ。停止している艦に当たらないなんて。

 まさか。

 都倉は彼女の事を思った。

 四本の水柱が『磯風』の遥か手前に上がった光景を目の前にした雪風は、嗚咽を噛み殺しながら、ジッと前を見据えていた。

 ――外した。

 動いている艦ならともかく、止まっている艦に当たらないなんて通常ではない。

 だが、彼女は確かに通常ではなかった。


 「……いそかぜぇ」


 辛くて、胸が張り裂けそうだった。


 中々目標に命中しない砲撃に、乗員たちが首を傾げている間、都倉はより強い決意を抱いていた。

 中断するわけにもいかない。何としてでも、当てなければ。

 砲撃が当たらないので、寺内の指示で魚雷による処分に変更となった。


 「魚雷発射!」


 水雷長の号令に伴い、一本の魚雷が放たれる。しかしこれも調整が崩れてしまっていたのか、スーッと『磯風』の艦底を通り過ぎてしまった。


 「駄目だ。やはり鉄砲でいこう」


 これにより再び砲撃に切り替えられた。名誉挽回のチャンスであった。

 しかし都倉の思いは、晴れなかった。

 息を吸い込み、平常心を保ってから、都倉はもう一度、声を上げた。


 「撃ち方始めッ!」


 砲塔が再び火を噴き、砲弾が暗闇の間を通り抜けて、『磯風』の方へと飛翔する。

 雪風は、光に照らし出される妹の姿をジッと見据えていた。

 その瞳は、固い決意によってきつく結ばれていた。


 「……磯風」


 妹の名を呟いた瞬間、『磯風』の身に赤い光が生じた。

 遂に砲弾が『磯風』に命中し、中甲板に積んであった魚雷が誘爆、大爆発を起こした。

 激しい爆発の後、遅れて轟音が響き渡る。


 「『磯風』沈没ッ!」


 雪風はゆっくりと目を開き、妹がいた海を見た。

 そこには天高く昇る黒煙と、海面に燃える紅蓮の炎が照らす赤い光だけで、妹の姿などどこにもなかった。

 束の間立ち尽くしていた雪風は、ガクリと膝を折った。

 そして嗚咽を噛み殺すように、瞳に溜まった涙を零して、泣き出した。




 日本に帰る力を失った僚艦たちを介錯した『雪風』と『初霜』は、翌八日に佐世保に入港した。

 結局、この海上特攻隊で生き残ったのは『冬月』『涼月』『初霜』『雪風』の四隻のみで、この内の二隻は損傷しドック入りは避けられなかったため、実際に戦闘可能な艦は『雪風』と『初霜』の二隻であった。

 『雪風』は『大和』『矢矧』『磯風』らの乗員を救助し、甲板に満載して佐世保に帰った。

 こうして六隻の艦を失い、伊藤長官を始めとする三千七百名以上の戦死者を出し、『雪風』自身も三名の戦死者を出した沖縄への水上特攻は終わった。唯一、彼ら、彼女らの死が無駄ではなかったのは、この出撃によって敵機動部隊を引き付け、航空特攻が大きな戦果を挙げた事であった。


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