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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十九年~二十年
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第五十八話 散りゆく桜たち

 海上特攻隊の被害は、膨張するばかりであった。

 最も集中的に狙われた『大和』は、多量の爆弾と魚雷を受け、右舷側の機関の喪失に艦内への大量の浸水が影響し、その速力は十ノットまで低下。低速で進む『大和』は雷撃機アヴェンジャーの格好の標的となった。


 「……人気者は辛いな」


 周囲に火の粉が舞い散る艦上で、大和は不敵に笑みを零した。だが、その体は既に傷だらけであり、特に腹部の周りや足元が無残な外観を晒すようになっていた。

 敵機は『大和』の航行能力を削ぐために、舵や艦尾に集中して攻撃を行っていた。その影響で『大和』の行脚は鈍くなる一方であった。

 大和は同じく敵機と戦っている僚艦たちの姿を見た。自分よりも遥かに小さい艦たちが、懸命に群がる敵機に対し、砲火を撃ち上げている。周囲の海面には白い水柱が何本も上がり、炎や黒煙を噴き出している艦もあった。

 この第二波空襲で、艦隊は甚大な被害を被った。『霞』が直撃弾二発、至近弾一発を受け、航行不能となり艦隊から落伍。第一波の空襲で航行不能になった『矢矧』に横付けしようとした『磯風』も敵機の攻撃を浴び、同じく航行不能に陥っていた。

 ふと、大和は自分のすぐ近くで奮闘する『雪風』の姿を目にした。




 『雪風』は艦隊の中でも『大和』に最も近い位置にいた。おかげで敵機の激しい攻撃を受ける羽目になっていた。

 『大和』への攻撃から漏れた敵機が、そのまま『雪風』の方へと向かってくる。『大和』の脇を通り過ぎた敵機が、目の前に現れた『雪風』に対し、機銃掃射や爆弾の雨を降らせた。

 しかし『雪風』はそのような攻撃にも巧みに躱し、降ってくる爆弾などは右に、左へと回頭し、敵機の打撃をまるで上半身を捻らせるボクサーのように避けるのだ。


 「おもかーじッ!」


 弾が飛び交う外に向かって、艦橋天蓋から頭を出した寺内が、声を上げて操艦を行う。前に都倉が経験したように、航海長が肩を蹴られながら、操舵員に舵取りの指示を行う。寺内の思惑通りに動いた『雪風』が次々と敵の攻撃を躱し、空振りした爆弾が海面に着水、艦を何度も揺らした。

 寺内の冴えた操艦ぶりは、今回の戦闘でも遺憾なく発揮されていた。次から次へと押し寄せる敵の攻撃を避けながら奔走する艦の振動を感じながら、都倉は射撃指揮所で身を強張らせていた。


 「艦長は流石だな。敵の攻撃なんて、全然当たらないぞ!」


 右から左から、絶え間なく続く敵の攻撃。爆弾、機銃、様々な騒音が都倉の周囲を掻き乱す。最早、何が起こっているのかわからなくなりそうだ。

 だが、都倉は嫌なものを見た。ふと、右の海面を見ると、白い航跡がスーッと糸を引いてこちらに向かってくるのが見えた。


 「――右五十度、魚雷! 近い!」


 都倉は慌てて艦橋に通ずる伝声管に向かって報告する。

 だが、返事がない。

 

 「(これは、やばい……ッ!)」


 あの魚雷が土手っぱらに当たったら、ひとたまりもない。都倉はつい先程、真っ二つになって沈んでいった『浜風』の姿を思い出した。

 指揮所にいた他の兵たちも、息を呑んだ表情で、近付く白い雷跡を凝視する。

 都倉は全身を堅くし、彼女の事を思った。


 「(雪風……ッ!)」


 ――だが。魚雷は確かに『雪風』の方へと来たが、そのままスーッと艦底を通り過ぎてしまった。


 潜り抜けてしまった魚雷を見送り、都倉は緊張が解けたように深く息を吐いた。

 何故、魚雷が当たらなかったのかわからない。もしかしたらあの魚雷は、『大和』を狙ったものが逸れてしまったものかもしれない。『大和』に合わせて深度を深く調定していたので、『雪風』の下を通り過ぎたのだろうか。

 ともかくにも『雪風』の幸運である事に変わりはないが、同じく魚雷を浴びた先程の『浜風』と同様、他の艦はと言うと、残念ながら彼女のように運が味方した様子は、ほとんど見られなかった。

 




 度重なる航空攻撃により火災を発生させた『矢矧』は、航行不能のために海上を漂流していた。救助に向かった『磯風』も至近弾を浴びて航行不能になり、再び孤立した『矢矧』に敵機の大編隊が止めと言わんばかりに猛烈な攻撃を浴びせた。

 相次ぐ被雷と被弾により各部所で炎が上がり、浸水により右舷三十度に傾斜したが、『矢矧』の対空砲は火を噴き続けていた。

 傾斜増大、既に直撃弾十二発、魚雷六発命中により、戦闘能力を喪失しつつある『矢矧』に、遂に止めの魚雷が一発、命中した。

 魚雷の直撃を受け、『矢矧』は血のような真っ赤な炎を噴き上げた。


 「――ぐあああッッ!!」


 矢矧の身体からは大量の鮮血がほとばしった。艦上に強く叩きつけられた矢矧は、そのままうつ伏せに倒れて動かなくなった。その傍には彼女が常備していた眼鏡が、割れた状態で赤く染まり落ちていた。

 血の池から這い上がるように、矢矧は立ち上がろうとする。


 「……約束した。みんなで……沖縄に行くって……」


 仲間たちと交わした約束。だが、それは叶えられそうにない。

 何故なら自分はここで果てるからだ。矢矧は自分の死を悟った。

 既に艦は大火災に呑まれ、沈むのも時間の問題だった。乗員たちは総員退艦し、後は海底へと沈み往くだけである。


 「……ごめん。皆……」


 最後に、涙が浮かんだ。その涙が落ちた時、矢矧という魂は光となって消えていった。





 午後二時五分、日本海軍が最後に生み出した軽巡『矢矧』は、遂にその身を海底深くへと没していった。

 大爆発を起こしながら沈んでいく『矢矧』を見て、雪風は愕然と立ち尽くした。


 「……矢矧さん。そんな……」


 沈んでいく彼女を、雪風はただ見ている事しかできなかった。

 彼女は雪風にとっても大切な親友であった。軽巡洋艦と駆逐艦という艦種の違いはあれど、その間に結ばれた友情は確かであった。

 第17駆逐隊に編入された際、第10戦隊にやって来た雪風を、矢矧は快く歓迎してくれた。悪い噂や評判を全く気にせず接してくれた矢矧の姿に雪風は何度も救われたのだ。


 疫病神だとか、死神などと言われ落ち込んでいた自分に、矢矧は無表情の中でも微かに優しい色を浮かばせながら言ってくれた。


 ――貴女が気に病む必要なんて無い。貴女のせいで誰かが沈むなんて事は、これまでも、そしてこれからも無いのだから――


 あの時、都倉にも姉妹たちにも相談できず、一人落ち込んでいた自分を、彼女はそう言って諭してくれたのだ。

 あまり笑った顔を見た事がない、と妹たちから聞いた雪風だったが、矢矧はいつだって様々な感情を見せてくれる可愛い人だった。

 仲間を想い、どんな些細な事にも気を配る、旗艦としても艦魂としても優れた彼女。

 そんな彼女が――自分を置いて、海の底へ去っていく。


 「矢矧さんッ!!」


 雪風の声は、ただ虚空へと溶けていくだけだった。




 旗艦『矢矧』の喪失を中心に、第二水雷戦隊が甚大な被害を受けていた頃。第二波以降、連続的に襲い掛かる敵機による空襲は一層激しさを増し、『大和』も遂に満身創痍の状態に陥っていた。

 右舷への複数の魚雷命中が致命打となったのか、『大和』の傾斜は急速に大きくなった。二時十五分に十本目の魚雷を受けた『大和』は二十度まで傾斜し、二十三分には艦橋後方の戦闘旗が海面に着くほど傾斜していた。

 既に真っ直ぐ立っていられない程に傾斜が深まった艦橋では、伊藤整一中将が作戦の中止を命じていた。


 「艦隊幕僚は『冬月』に移乗し、残存部隊の接収に努め、生存者の救助に全力を注ぐように」

 「わかりました」

 「最早、この『大和』は沖縄に辿り着く事は出来なくなってしまった。 幕僚は『冬月』に乗り移り、沖縄へ先行せよ」

 「長官は?」

 「自分は、『大和』に残る」


 伊藤は微笑みながら、はっきりと告げた。

 幕僚たちと別れの挨拶を交わすと、伊藤は艦橋の下にある長官公室へと降りていった。

 長官公室に入り、一人部屋に留まる。可燃物は全て取り払っているので部屋はガランとしていた。あれだけ立派だった長官公室はひどく殺風景だった。床はひどく傾いており、立つことも出来ない。

 伊藤は目を瞑り、愛する妻と娘たちを想った。


 「(ちとせ……純子……淑子……貞子……)」


 妻と娘たちに思い耽っていた伊藤はふと、殺風景な部屋に違和感を感じた。そして壁に背を預け、腰を落としている、変わり果てた大和の姿を見つけた。


 「大和……、君もいたのか」


 伊藤は傾いた床の上を進んで、大和の傍まで歩み寄った。

 体中を血で真っ赤に染めた大和は、ゆっくりと伊藤の方に視線を上げると、微かに微笑んだ。


 「何をしている……。 早く……立ち去れ……」


 自分が沈むとわかっているのだろう。だが、伊藤は首を横に振った。


 「私も残るよ」

 「………………」


 伊藤の言葉を聞いた大和が、呆れたように笑みを零した。


 「今から何を言っても、貴方は聞かないのだろうな。 私の力で強制的に貴方を他の艦に移す事も可能といえば可能だが……、すまない、その力さえ私には残っていないようだ……」

 「それで良いんだ。 私は司令長官として、艦と運命を共にする」

 「そうか……」


 傾いた床に腰を下ろした伊藤は、大和と肩を並べた。


 「大和、死ぬ前にちょっといいか」

 「何だ? 時間がない。手短に頼むぞ……」

 「歌を唄ってくれないか……」

 「何……?」


 伊藤の発言に、大和は驚きを隠せなかった。


 「……何故、貴方が知っている? 私の歌の事は、妹しか知らなかったはずだが……」

 「すまんな。たまたま、君が一人で唄っている所を、見た事があって」

 「な……ッ!」


 大和は顔を赤くした。

 大和は、歌が好きだった。しかしそれを知っている部外者はほとんどいない。

 何故なら、周囲が抱く自分のイメージとかけ離れているとして、大和は他の艦魂たちには秘密にしていたのだ。

 しかし妹の武蔵だけには、自分の歌声を聴かせてやる事があった。単純に秘密がバレてしまったのが理由であるが。

 大和はレイテで沈んだ武蔵の事を思い出した。






 戦艦『大和』の艦内、その一室で、大和は武蔵の要望に応え、歌を聴かせていた。

 気恥ずかしそうに顔を赤く染めた大和が、ポニーテールを雅に靡かせ、その喉から美しい歌声を披露する。そんな姉の可愛らしく、美しい姿を、武蔵は堪能していた。

 大和が歌を歌い終えると、武蔵が拍手をしながら声を上げた。


 「凄いよお姉ちゃん。 やっぱりお姉ちゃんの歌声はいつ聞いてもいいねぇ」

 「まったく、今日はここまでだ」

 「え~? まだ聴~き~た~い」


 口を尖らせてぶーぶーと抗議する武蔵を、大和が溜息混じりに呟く。


 「何曲歌わせるつもりなんだ……。勘弁してくれよ、妹よ……」

 「だって本当にお姉ちゃんの歌声って綺麗なんだもん。 宝塚に入っても良いくらいだね」


 武蔵の言葉に、大和は笑い捨てた。


 「私は戦う為に生まれた戦艦だぞ? 歌が上手くても何の役にも立たん」

 「そんなことないよ。 歌は戦争をなくすんだよ、うん」


 武蔵はニコニコと微笑み、何度も頷いた。まるで本気で言っているように見えるのだから、大和は目を丸くしながらも、微笑むしかない。


 「だからお姉ちゃんの歌は、みんなにも聴かせてあげたいよ。それもみんなだけじゃなくて、アメリカとか、敵にも聞かせたら、きっとみんなお姉ちゃんの歌声で仲良くなるよ」


 妹の言葉に、大和はさすがに苦笑を浮かべた。

 だが、純粋に瞳を輝かせる武蔵にそう言われると、どこか嬉しくなっている自分がいた。


 「でも本当に勿体無い。みんなにも、お姉ちゃんの歌を聴いてほしいな」

 「それだけは本当にやめてくれ……。私のイメージが……」

 「みんな、きっと喜ぶよ?」

 「いや、だから……」

 「恥ずかしいんなら、私からみんなに伝えておいてあげる!」

 「え……? ちょ…ッ!待…ッ!」


 制止する暇も与えず、武蔵はその場から飛び出してしまった。その後、慌てて追いかけ回したのは言うまでもない。

 はしゃぐ妹の背を追いかけ、その姿と行動に何度も呆れるも、幸せな時間であった。

 そんな妹も、自分より先にこの世を去った。

 妹が自分の歌声でなくせるといった戦争によって。

 しかしもうすぐ、武蔵と同じ所に往ける。

 どうせまた歌を歌って欲しいとせがまれるに違いない。

 なら、練習のつもりで、ここで歌ってもいいか。


 「……仕方のない奴だ」


 誰に向けたものなのかわからないように言った後、大和はゆっくりと口元から旋律を紡ぎ出した。

 それは、国歌でも軍歌でもない、世界中の誰もが知る愛を歌った曲だった。

 沈みゆく戦艦が、最期に残すのは、己の身から噴き出す爆炎や、悲鳴のような咆哮ではない。

 その歌声は、確かに周囲へと届いていた。

 伊藤は目を閉じ、その歌声をずっと聴いていた。

 そしておもむろに、拳銃を取り出した。

 大和は虚空を見詰めて歌い続ける。その横で、大和の歌声を聞きながら、銃口をこめかみに当てる男の姿。彼は躊躇なく、引き金を絞った。


 ―――美しい歌声が奏でる中、一発の銃声が木霊した。


 歌を最後まで歌い切ったように、『大和』は遂に力尽き、大きな津波を生じさせながら転覆した。

 北緯三十度二十二分、東経百二十八度四分。

 午後二時二十三分、不沈戦艦と謳われた巨艦『大和』が、完全に転覆し大爆発を起こし、東シナ海の海底深くへと沈没した。



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