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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十九年~二十年
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第五十七話 坊ノ岬沖の死闘

開戦、坊ノ岬沖海戦。

 沖縄に向かっていた『大和』以下第二艦隊の海上特攻隊は、二百機の敵機大編隊と遭遇し、暴風雨のような激しい攻撃に曝された。

 各艦が被害を受け、その中でも致命的な重傷を負った艦があった。

 特攻隊に加わる陽炎型三姉妹の一人、『浜風』に爆弾が命中。450キロ爆弾の直撃をまともに浴びれば、ブルキ張りの駆逐艦ではひとたまりもなかった。

 その身を火炎と黒煙に覆われた『浜風』は、一気に速力を落とした。


 「痛い……。痛いよぉ……」


 轟々と燃え盛る炎の中、小柄な少女が血の海に溺れながら倒れていた。

 普段は元気に跳ねているツインテールが黒く煤け、乱れていた。体中は火傷や裂傷など、数え切れない傷で埋め尽くされており、どこかしこも血だらけであった。


 「雪風お姉ちゃん……磯風お姉ちゃん……ぐすッ」


 苦痛に顔を歪ませながら、浜風は姉たちの名を呼んだ。涙が溢れ、視界がぼやける。


 「ぐす……ッ。誰か、助けて……」


 体中が死に蝕まれていく感覚に、浜風は恐怖したが、既にその身は動かす事ができなくなっていた。流す涙も、遂に途絶える。さっきまで泣き叫んでいた声も出なくなっていた。

 いよいよか、と浜風が自分の最期を悟った時だった。


 「浜風! 浜風ッ!!」


 闇に呑まれそうになった浜風の意識を引き戻す存在が現れた。沈みそうになっていた意識を取り戻し、ぴく、と反応する浜風。それは、最近会ったばかりなのに、懐かしさを感じてしまう姉の声だった。

 ぼやける視界には、雲のようにふわふわな髪をした雪風と、普段はいつも無愛想な磯風の二人の顔があった。雪風は涙で顔をぐしゃぐしゃにしていて、いつも無愛想であるはずの磯風の表情でさえ歪んでいるように見える。

 浜風は、微かに笑みを零した。


 「お姉ちゃん……」

 「浜風! しっかりしてッ!」


 雪風が泣き叫ぶように浜風を呼び、磯風も無言で下唇を噛んで表情を歪ませていた。


 「戦闘中に……自艦を離れるなんていけないんだよ、お姉ちゃん」

 「浜風を無視して戦えるわけないじゃないッ!」

 「でも、最期にお姉ちゃんたちに会えて……、嬉しいなぁ……」


 だんだんと声が小さくなっていく浜風の瞳からは、徐々に光も失われていった。それに気付いた雪風が咄嗟に妹の名を叫ぶ。


 「浜風ッ! 駄目、目を閉じちゃ駄目!」

 「お姉ちゃん……私の事はもう良いから。戦いに、戻って……」

 「浜風……」


 戦闘はまだ続いている。速力を落とした『浜風』は格好の標的だ。生き残った機銃が未だ火を噴いているが、最早この艦に戦う力は残されていなかった。


 「浜風を置いていけるわけないじゃないッ! 私の、大切な妹なんだよ!?」

 「……浜風」


 涙を零す雪風の肩を、磯風がそっと触れる。

 浜風は、もう一人の姉の辛そうな顔を見た。

 磯風は目の前で息絶えようとしている浜風を見詰め、辛そうに下唇を噛んだ後、ゆっくりと敬礼した。


 「心配しないで」


 そう言って敬礼する磯風を、雪風は驚くように見詰め、浜風は安堵するように微笑んだ。


 「なに言ってるの、磯風。そんな、やめてよ……。まるで浜風が……」

 「姉さん」


 磯風の冷静な声が。しかしその声には確かに辛さと悲しみが含まれていた。


 「また、会える。だから、そんなに悲しまなくても良い」

 「……また、会えるの? 本当に?」


 無言で頷く磯風。

 雪風は涙で真っ赤に充血した瞳を、磯風から浜風に向ける。

 浜風は微笑んで頷いていた。


 「うん。 また、会えるよ……」

 「浜風……」


 その時、艦が大きく揺れた。同時に浜風が咳き込み、大量の血の塊を吐き出した。

 明らかに艦としての命が尽きようとしていた。

 小さな女の子が、血を吐きながらも、にっこりと姉たちに向かって微笑んでいる。


 「もう……いって……」


 いつも姉に甘えていた浜風。しかしこの時の浜風は、一切、弱い姿を見せなかった。姉たちを心配させまいと、苦しいはずなのに、その顔は笑顔だった。これ以上妹に無理させてはいけない。せめて、安からに眠れるように、妹の望み通りにしてあげよう。


 「……わかったよ。浜風……」


 雪風は立ち上がり、磯風と並んで、立派に戦った妹に敬礼を捧げる。

 自艦に戻るため、磯風が辛そうに背を向け、光に包まれて消える。遅れて雪風が光に包まれる。その直前、雪風が涙を目の縁に浮かばせながら、妹に負けない笑顔を、見送る浜風に向けた。


 「……またね」


 さよならは言わない。また会えると信じているから。

 浜風が見た雪風の笑顔は、いつも知っている優しい姉の笑顔だった。

 二人の姉が去り、浜風は一人で仰向けになって目を閉じる。直後、止めの一撃が容赦なく浜風に襲い掛かった。

 航行不能に陥った『浜風』に止めの魚雷が命中した。艦体中央部に魚雷が炸裂し、『浜風』は真っ二つに折れて、艦首と艦尾を天空に掲げながら轟沈した。





 壮絶なる最期を披露した『浜風』の姿を、都倉は『雪風』の射撃指揮所から見ていた。

 去年の春以降共に肩を並べた僚艦の死に、都倉は胸が苦しくなった。

 ふと、下を見下ろすと、呆然と『浜風』がいた前方を見詰める雪風の姿があった。妹の死を目の前にした雪風の心情を想い、都倉は再び敵機が飛び回る上空を睨むのだった。


 かくして嵐のようだった第一波が去った。


 被弾した測手の血痕が飛び散っている射撃指揮所で、都倉は冷静に周囲の状況を見渡した。『大和』はまだまだ健在であり、速力も落ちていなかった。

 だが、この時点で艦隊は手痛い被害を受けていた。

 『矢矧』が右舷機関部に魚雷を受け、航行不能。『涼月』が前部に爆弾の直撃を受け、大破していた。

 そして『浜風』が爆沈し、艦隊はたった二十分の間に一隻の駆逐艦を失い、二隻が大きな傷を負った。

 だが、沖縄まではまだ遥か先だ。そしてそれ即ち、敵の空襲が続くという事である。

 

 ――彼女は、大丈夫だろうか?


 ふと、都倉は艦魂の彼女が気に懸かり、艦首の方を見た。しかしそこに彼女の姿はなかった。

 彼女の事を気にしてしまうのは、先程『浜風』が沈んだ光景を見てしまったからか。雪風、という個の存在を知っていると、意識を向けてしまうのは仕方のない事だった。


 「おおい、鉄砲よ」


 同じく下の方から、声が上がった。都倉がハッと下を見ると、艦橋天蓋から頭を出した寺内が口元に煙草を咥えながらこちらを見上げていた。


 「中々当たらんのう。敵機がどんどん来るわ」


 寺内の言葉に、都倉は胸がチクリと痛んだ。


 「はい、申し訳ありません」

 「大丈夫だぁ、そのうち当たる。今度はタマを惜しまんでも良い。どんどん撃て」


 そう言って、寺内は煙草の煙を噴かせた。

 寺内の言葉は、呉軍港空襲の際、『雪風』が一万五千発の機銃弾を撃って、二水戦の砲術参謀から「撃ち過ぎだ」と注意された時の事を言っているのである。あの時は弾も貴重だから有効に使え、と忠告を受け、この戦いでも無意識に倹約していた所があったのかもしれない。


 ――他人を気に懸けるより、まずは自分の心配を。


 都倉は自嘲するように口元を綻ばせた。今日が最後になるのだから、どんどん撃てば良いのだ。遠慮はいらない。それに、それこそが彼女にとっても、良い結果が得られる要因になりうるかもしれない。

 そう考えている間に、敵の第二波がやって来た。





 百機ほどの第二波敵機大編隊を捕捉し、上空には既に多くの敵機が見えていた。空気を揺るがす轟音が鳴り響く中、矢矧は傷を負った身を無理矢理立ち上がらせる。


 「矢矧さん、無理はしないでください!」

 「大丈夫だ、雪風。私はまだ戦えるよ……」


 敵機の攻撃を受け、航行不能に陥った二水戦の旗艦の周囲には、追随する駆逐艦の艦魂たちが揃っていた。いや、正確には大破した『涼月』を除く、五隻の艦魂たちだった。


 「敵が来た。 そろそろ貴女達も自艦に戻った方が良い」


 お腹周りや太腿などに包帯が巻かれた矢矧の姿は痛々しい限りだった。『矢矧』自身、敵機の魚雷攻撃を機関部に受けて機関部員が全滅、航行不能に陥り、艦隊の中でも速力を落としていた。もう戦う力もあるのか疑わしいような状態だった。

 しかし彼女の瞳に宿る強い光は、まだ根強い戦意が感じられた。

 それより……と、矢矧は自分の事も差し置いてある気懸りを抱いていた。それは自分自身が重傷を負った第一波で、一人の妹を失った雪風と磯風の事である。

 この戦争で数が減った陽炎型姉妹において、またしても一人、彼女たちは大切な姉妹を失った。浜風の死は想像以上に重く圧し掛かっている事だろう。しかし彼女たちは妹を失った直後でも、戦意を衰えず、更に我先に航行不能になった情けない自分の事まで心配してくれている。


 「矢矧さん、どうかご無事で……」

 「ありがとう。貴女達も、武運を祈る」


 矢矧は頷き、口元に柔らかい微笑を浮かべる。そして告げた。


 「必ず、一緒に沖縄に行こう」


 矢矧の発言に、雪風たちが驚いたように目を見開いた。

 しかしすぐに、彼女たちの口々から興奮した声が上がった。


 「そ、そうですよ! みんなで行くんですッ!」

 「皆で生き残って、沖縄に行こう!」

 「沖縄に辿り着くまで、死ねるもんか!」


 雪風、冬月、霞などが声を上げ、他の艦たちも頷き合う。

 妹を失った雪風と磯風。駆逐隊旗艦の朝霜を亡くした初霜や、霞。敵の攻撃で大破し、この場にはいない涼月の代わりに意気込む冬月。そんな彼女たちを見渡してから、矢矧は深く頷いた。


 「……約束しよう。皆で必ず、沖縄に行くと」


 一隻の巡洋艦、そしてその艦に伴う駆逐艦たち。一同が一つの思いになって頷き合った。

 共に武運を祈り合い、それぞれの居るべき場所に戻る彼女たちを見送った後、矢矧はその瞳を白刃のように鋭く煌かせ、キッと空を睨んだ。


 「……来い、鬼畜米英。我々は貴様らに朽ち果てるほど脆弱ではない。大和撫子として、大和魂を貴様らに見せ付けてやる」


 黒煙をマントのように靡かせ不協和音を奏でながら航行しながらも、軽巡『矢矧』は、それでも迫り来る敵を威嚇するように、荒々しく白波を立てて迫る敵機に立ち向かった。




 午後一時二十分、敵の大編隊――SB2Cヘルダイバーが五十機ほど、上空から飛来した。

 それから間もなくして、『大和』の左舷側からTBF/TBMアヴェンジャー二十機が低空を這うようにして接近。

 これに対し、『大和』は回避行動を取ろうとするが間に合わない。

 雷撃機が放った魚雷、三本が『大和』の左舷部に命中した。この魚雷命中により、副舵が取舵のまま故障。一分後、傾斜が八度に傾いたので、右舷側に三千トン注水し復原。

 しかしまたすぐに左舷部に魚雷が二発炸裂し、またしても傾斜が十五度になった。立て続けに左舷に集中して魚雷攻撃を浴びた『大和』はそれでも尚、速力は十八ノットを発揮していた。


 「この程度で、私を沈められると思うなよ……!」


 その巨艦に何発も魚雷などを浴びたその姿は、まだ健在であった。左の脇腹から血が出ているが、その膝はぴんと伸び、毅然とした振舞いで立ち続けている。体の各所に傷が見られるが、その手に握られている刀はまだ鋭利に輝いていた。


 「ぐ……ッ!?」


 衝撃が彼女の身を揺さぶり、同時にその右の脇腹から血を噴出させた。珍しく敵の魚雷が右舷に命中したのだった。

 一時四十三分、『大和』の右舷後部に更に魚雷二本が命中。

 まるで悲鳴を上げる鯱のように、『大和』は咆哮した。

 ――大和もまた、遂にその足を挫いてしまう。


 「……くっ。まだまだ……」


 この時、『大和』は左舷側に集中して攻撃を浴びていたので、左舷への傾斜が激しくなり、注水用のタンクだけでは復原が不可能になっていた。

 そこで右舷にも魚雷が次々と命中したので、平均が保たれると期待されるも、その効果はすぐには起こらなかった。

 このため、まだ兵員がいる右舷機械室や罐室にも注水が行われた。辛い決断ではあったが、おかげで一時的に傾斜は止まった。

 だが、ここまで全速を出していた『大和』も、遂にその速力を徐々に落としていった。





 一方、航行不能になった『矢矧』に駆逐艦『磯風』が近付いていた。二水戦司令官の古村少将が17駆司令艦の『磯風』に旗艦を移し指揮を執ろうと考え、『磯風』に指示したものだった。

 漂流する『矢矧』に、『磯風』が横付けを行おうとする。


 「大丈夫ですか?」


 横付け作業を開始する傍ら、磯風が矢矧の下に駆け寄った。両者とも基本的に感情を表に出さないタイプだが、矢矧はまだ表情が豊かな方であった。しかし今の矢矧の表情は苦悶に歪み、その姿も目を背けたくなる程に痛々しいものになっていた。


 「……感謝する、磯風」

 「礼には及びません。共に、沖縄へと参りましょう。沖縄で待っている五十万人の日本国民と十万人の将兵を助けに行くのです」


 矢矧は血が滲んだ口元を緩ませ、頷いた。

 磯風は手を伸ばす。座り込んでいた矢矧が、その手を取った。

 遂に舫索が両艦の間で結ばれる。しかし、それが彼女の運命を決した。


 「敵機来襲!」


 兵の叫び声に、磯風と矢矧はハッと頭上を見上げた。

 気が付くと、既に自分達の上空には敵機の編隊が押し寄せていた。敵機は一斉に二隻に襲い掛かり、爆弾を落としていった。『磯風』は回避行動を取ろうとするが、『矢矧』と横付けするために速力を落としていたので間に合わなかった。

 『磯風』の後部付近に爆弾が落ちた。白い水柱が立ち昇ると同時に、磯風の身に異変が起こった。


 「がは……ッ!」

 「磯風!?」


 血を吐いて倒れた磯風の傍に、矢矧が血だらけの下半身を引きずりながら近寄った。


 「磯風……。しっかり……」

 「……心配ありません、至近弾です。目立った損傷は……」


 その時、磯風は胸に圧迫感を感じた。


 「――ッ!?」


 磯風は胸を抑えながら、立ち上がりかけた体を再び崩した。矢矧が悲鳴を上げ、何度も磯風の名を呼ぶ。しかし磯風は身を横たえたまま、動けなかった。


 「(何……!? この胸が締め付けられるような苦しみは……)」


 何が起こったのかまるでわからない磯風。激しく咳き込み始めて、矢矧の目の前で血の塊を吐き出した。

 矢矧は血と共に咳き込む磯風を見詰めた。その姿は、自分と同じだった。

 『磯風』は右舷後部への至近弾により、機械室に海水が浸水した。救助しようとした『矢矧』と同じ運命を、『磯風』は辿ってしまったのである。

 駆逐艦『磯風』、彼女もまた航行不能に陥ってしまった――



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