第五十四話 日本海軍最後の作戦
この辺りから、一部、同じく沖縄水上特攻までの経緯を描いた神龍の作中と被るシーンがあります。
――天一号作戦。
その作戦こそ、日本海軍最後の作戦であった。
呉が空襲を受ける前の三月十九日、連合艦隊司令部は既に天一号作戦なるものを立案し、戦艦『大和』以下の第一遊撃部隊の出撃を考えていた。
硫黄島が奪われ、敵機動部隊が九州南方に動きを見せていた事から、連合艦隊司令部は敵がもうすぐ沖縄に攻めてくるのは必至であると考えた。
そこで、敵が沖縄に上陸した際は、航空部隊を中心とする必殺の特攻作戦を展開し、これに水中特攻として回天隊を加え、そして航空戦有利と見れば第一遊撃部隊(『大和』部隊)を特命によって出撃、水上特攻として敵攻略部隊を撃滅する――という主旨の作戦『天一号作戦』を計画した。
二十三日以降、沖縄に対する敵の艦砲射撃が熾烈さを増し、いよいよ敵上陸間近と受け止めた連合艦隊司令部は、三月二十六日、天一号作戦を発動した。
昭和二十年四月一日、『雪風』などの第17駆逐隊は呉を出航した。徳山沖の燃料廠にて集結し、燃料を補給する予定であった。
「総員、帽振れ!」
先日の空襲で傷付いた戦艦『榛名』の艦上から、榛名が軍帽を取ると、他の艦魂たちもまた各々の艦から帽振れを行った。
出航していく17駆側の艦魂たちも、見送る仲間たちに向かって、敬礼や帽振れで応える。
雪風も都倉の隣で、見送る仲間たちに敬礼を捧げていた。
遠ざかる見慣れた呉の光景を眺めながら、都倉は岸壁のどこかで見送ってくれているであろう彼女の事を思っていた。
出航前の二十六日、これが最後の上陸になると覚悟した都倉は、加代を呉に呼び寄せた。
呉駅まで出迎えた都倉の前に、汽車が到着する。どやどやと人の波が降りてくる中、都倉は波の間からその女性の顔を見つけた。
「加代、こっちだ」
「あなた」
都倉の目の前に現れた加代の顔は、汽車の煤煙で黒く煤けていた。都倉の前に立つと、加代は恥ずかしそうに顔に手を当てた。
「呉まで来る途中は、トンネルがたくさんあるの……」
あまり見ないで、と顔を隠したがる加代に、都倉は緩んでしまう口元を隠さないまま、ハンカチを加代に手渡した。
加代は無言でそれを受け取ると、黒く煤けた顔にハンカチを押し付けた。
白いハンカチはすぐに黒くなってしまったが、代わりに加代の顔は白く戻った。
顔を拭き終えた加代は、ハンカチを都倉に返すや、ジィッと都倉の顔を釘付けにするように見詰めた。
まるで愛する夫――正確にはまだ披露宴は挙げていないので、婚約者のままだが――の顔を記憶に刻み込もうとするかのように。
「行こうか」
「ええ」
手を差し伸べる都倉に、加代がそっと自分の手を重ねる。
人混みが多い呉駅から、二人は並んで歩きだした。
その日、二人は海軍士官たちがよく利用する旅館に部屋を取り、そこで互いの近況を報告し合った。都倉は加代の口から両親の近況も聞いた。横須賀近郊にある都倉の地元にも敵機が飛来するようになったと聞いていたので心配していたが、二人とも元気である事を知って深く安堵した。
「お義父様もお義母様も、皆、あなたの帰りを待っているわ。ねえ。披露宴、いつ挙げられるかしら?」
「ううん、どうだろうなぁ」
都倉は濁った返しをするが、加代も何かを察したように口を閉ざした。
これではいけないと、都倉は意を決し、口を開く。
「すまない。当分はまだ無理だ」
「そう……」
「実はな、加代。すぐまた出撃する事になるのだが、今度こそは無事に帰れるかどうかわからない。もしかしたら……」
「……嫌」
「加代?」
都倉が見た加代の顔は、その瞳から涙を溢れさせていた。
「そんな事、言わないで! 死んじゃ嫌だよ、賢二!」
子供のように泣きじゃくる加代に抱き着かれ、都倉は辛い思いに駆られた。三年ぶりに再会した加代は、本物の都倉を前にして、遂に耐え切れずその思いをぶちまけた。
あの日、同じ呉の街で都倉に別れを告げられ、そしてまたここで離れていこうとする都倉をしがみ付いて放さないように。加代は必死に訴えた。しかし軍服を着た都倉を止める事が叶わないのは加代自身もわかっている事だった。
「賢二が死んだら、私どうしたら良いの……。賢二は何もわかってない。もう、待ち続けるのは嫌だよ……」
「加代……」
「賢二、死なないで。私、賢二の事、子供の頃からずっと……」
堪りかねず、都倉は加代の背中に手を回し、抱き寄せた。
「すまない。だが、俺はやはり往かねばならない。これまで先に散っていった戦友たちのためにも、加代や親父、お袋たち、日本にいる人々を守るためにも、そして……」
脳裏に浮かぶ、少女の笑顔。
艦長たち、乗員たちの顔が次々と浮かぶ。
「共に戦う皆のために。俺は、絶対に往かねばならないのだ」
肩を掴み、その涙でぼろぼろに泣き腫らした顔を記憶に焼き付けるように、都倉は加代の顔をジッと見据えながら言葉を紡いだ。
都倉の決意を垣間見た加代は、大声を上げて泣いた。都倉は加代が泣き止むまで、ずっと抱き締めていた。
「賢二、私ずっと待ってるから。賢二が帰ってくるのを……」
次の日の朝、艦に戻る都倉に加代はそう言ってくれた。あの夜、正直な思いを吐露した加代の気持ちを知ったからこそ、都倉は加代の言葉が本当に有難かった。おかげで、都倉は自分の気持ちを割り切る事ができた。
四月一日、第17駆逐隊が呉を出航した日、米軍が遂に沖縄に上陸を開始した。開戦から四年目、日本本土の目と鼻の先、日本固有の領土に、遂に敵の軍靴が足を踏み入れたのである。
これまでの硫黄島や台湾と違って、沖縄は日本古来からの正真正銘の領土だ。本土決戦の一部と言っても過言ではない。沖縄には県民五十万人が暮らしており、日本軍もおよそ十万人の兵力が集結していた。しかし上陸した米軍の兵力と比べると圧倒的に劣勢であった。
日本軍十万人に対し、米軍側は艦艇1300隻、航空機1800機、戦車500輌、地上兵力約十八万人であった。
日本に残された唯一の戦力として存在する第二艦隊。その旗艦『大和』に、第二水雷戦隊の古村啓蔵少将が来艦した。彼の訪問先は、第二艦隊を統率する司令長官。伊藤整一中将の下であった。
「長官。航空力のない第二艦隊は、最早有効な機能を持つとは思えません」
「私もそう思う」
伊藤は同意するように、言葉を返した。
それが予想外であったのか、古村は一瞬戸惑うような仕草を見せながら口を開いた。
「はい。ですから、この際、第二艦隊を解散して不要な人員を陸揚げしてはどうかと考えます」
「ふむ……」
「これは、第二水雷戦隊各艦長の一致した意見です」
二水戦に所属する各艦長たちから纏めた意見を聞いた伊藤は、緊張した面持ちを浮かべる古村をジッと見詰めてから、頷いた。
「私もそう思っていた。山本先任参謀を呉に派遣し、連合艦隊司令部に秘密電話をかけてもらおう」
伊藤の言葉に、古村はほっと息を吐いた。
第二艦隊を受け持つ伊藤も、古村が提示した案が司令部に受け入れられれば、無駄な死を少しでも減らすことができると考えていた。伊藤自身もまた、海上特攻作戦にはあまり気乗りしていなかった。
しかしその提言は実現される事はなかった。何故なら、山本先任参謀を派遣しようとした矢先、連合艦隊司令部から命令が通達されたのだ。
それは、沖縄における陸軍の総攻撃に呼応して発令された『天一号作戦』の一環だった。
GF(連合艦隊)電令作第六〇三号。
「第一遊撃部隊ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ。急速出撃準備ヲ完成スベシ」
――連合艦隊司令部からの、海上特攻準備の発令だった。
「司令部は本気でこの『大和』と第二艦隊を特攻させるつもりか」
伊藤は命令に対する怒りを覚えると共に、その意図を掴み損ねていた。作戦の具体的内容、その目的がわからないのではますますその命令に対して疑問を抱かざるを得ない。敵機動部隊の囮となるのか、それとも陸軍と共に突入する捨て身の作戦なのか、そこの所がはっきりしていなかった。
「連合艦隊司令部の腹は決まっている、という事だな」
「大和……」
凛とした空気と共に、降ってきた声に伊藤が振り返る。そこには道着を着た美しい女性が立っていた。伊藤の目には、その姿がありありと見えていた。
伊藤整一中将もまた、艦魂が視認できる人間の一人だった。大和の顔を見た途端に、伊藤は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「何故、伊藤殿がそのような顔をする」
「……大和。私は第二艦隊の指揮官として、最善の限りを尽くす。君達をむざむざと、死なせたりはしない」
決意を露にした伊藤を、大和は静かに見守っていた。
命令受信後、伊藤は連合艦隊司令部に作戦に対する反対意見を表明し、これを伝えた。だが、返ってきたのは更なる命令書の着電だった。
GF電令作第六〇七号。
「一、 帝国海軍部隊及六航軍ハX日(六日以降)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス。
二、 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス。第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始。敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス。
三、 海上特攻隊ハY−1日黎明時豊後水道出撃。Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入。敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ。Y日ヲ八日トス」
GF電令作第六一一号。
「一、 電令作第六〇三号ニヨル第一遊撃部隊兵力ヲ『大和』、二水戦ニ改ム。
二、海上特攻隊豊後水道出撃ヲ第一遊撃部隊指揮官所定トス」
「海上特攻は避けられないようだな……」
扉越しに背を預けて腕を組んだ大和が、命令書を読んでいた伊藤に視線を向けた。
伊藤は、冷静に答えた。
「そのようだ。どうしても我々を特攻に往かせたいそうだ。これを見てくれ」
伊藤が命令書の紙面を、大和に見せ付ける。
紙面には第一遊撃部隊の『海上特攻隊』としての編成が載っていた。
第二艦隊
司令長官:伊藤整一中将
旗艦:戦艦『大和』
第二水雷戦隊
司令官:古村啓三少将
旗艦:軽巡洋艦『矢矧』
第41駆逐隊『冬月』『涼月』
第17駆逐隊『磯風』『浜風』『雪風』
第21駆逐隊『朝霜』『霞』『初霜』
ちなみに直掩の航空機は存在しない。戦艦一、軽巡一、駆逐艦八隻の、レイテの時と同じ丸裸艦隊である。
こんな脆弱な艦隊では、沖縄に辿り着けるわけがない。しかし、これには単に敵を撃破するという本来の目的とは程遠い意味が含まれている事。そちらの方が寧ろ重要だった。日本海軍の象徴たる『大和』が散る事によって全軍特攻の海軍の決意を知らしめる、というものであった。
「……私だからこそ、か」
国の名前を背負った戦艦として、己が選ばれた事を理解した大和は、何かを悟るような目で編成表を見詰めた。




