第五十二話 男の領分
『信濃』沈没後、呉に入港し休養を過ごした『雪風』など第17駆逐隊の三隻は、昭和二十年の元旦を過ぎるや、徳山南方の大津島に居た。
都倉はそこで大尉に進級。
しかし都倉の進級を祝す暇もなく、17駆は大津島のある訓練基地へと向かったのだった。
「……あれが、『回天』ですか」
その兵器の名を、雪風は複雑な思いを含むように呟いた。
雪風の目の前、海上に潜水艦のような黒々としたものが浮いている。しかしそれは潜水艦ではなくほとんど魚雷に近かった。実際、それは確かに魚雷であった。
『雪風』『磯風』『浜風』の三隻は、特攻兵器『回天』の訓練標的艦として、瀬戸内海の大津島に移動した。大津島には回天搭乗員のために設けられた訓練基地があり、ここに殉忠報国に燃えた多くの若者たちが集まっていた。
『回天』は九三式酸素魚雷をヒントに開発され、魚雷であるがその中に一人の人間が操縦し、自ら誘導して敵艦に突っ込む。正に、人間魚雷と呼ぶべき存在だった。
前部部分には千六百キロの爆薬が詰められ、これは従来の魚雷の三倍に相当する炸薬であり、当たれば空母すら沈める事が出来ると謂われる。
訓練基地が設けられた大津島には海軍兵学校や予科練から志願した大勢の若者が集い、『回天』に搭乗して猛訓練の日々をおくっていた。
『雪風』らはこれらの搭乗員たちの訓練相手として選ばれたのであった。
「……そうだ。あれが『回天』だ。その名の通り、我が海軍の切り札だ」
「………………」
「あまり、良い印象を持っていなさそうだな」
「……それは、そうですよ。だって、特攻兵器ですよ?寧ろ、中……大尉は、あのような兵器の存在を認めるのですか?」
目の前にある特攻兵器という、恐ろしい思想の下に生み出された存在を、雪風は同じ兵器としてあまり良い感想を持ち合わせていなかった。
しかし都倉の方は、目の前にある特攻兵器を、意外にも是認しているようだった。それもそのはず、この時、訓練に励む『回天』搭乗員の中には都倉の同期も含まれていたからだ。それが兵士を死に追いやる特攻兵器だとしても、その兵器を使い同期が奮闘している様子は、都倉の胸を強く打ったのだろう。
だが、先にも述べたように、雪風の心情は、その兵器に対し是とする意志を持ち得なかった。
何故ならそれは、搭乗員の命を犠牲にする事を前提とした特攻兵器。
国の為に戦い死ぬ事は、雪風自身も美徳とさえ思っていた。この国を守るためなら、死んでも良い。しかし、死を前提とした戦い方――死そのものを戦術とするのは、愚の骨頂ではないかと。雪風はそうとも考えていた。
今や敵は日本本土にまで侵攻しつつあり、本土決戦となった場合は女子供や老人を含めた全ての国民が死して抵抗する事が、国を挙げて推奨されている。
「確かに死を前提とした兵器など、これまでの常軌を逸するような存在だ。だが、俺はそんな兵器に熱情を抱いて関わる兵たちの意志も尊重したいと思っている」
「…………………」
「あの『回天』には俺の同期も乗っている。俺は、同期の覚悟に、敬意を表したい」
「……それでも、私は――」
特攻自体はレイテ沖海戦と同時期に、フィリピンの海域にて既に実践されている。爆弾を搭載した航空機が、敵艦に突っ込み、大きな戦果を挙げた。
それ以降、日本は特攻という戦術とは言えない戦術に心酔するようになった。それは今後、続々と開発される特攻兵器の存在が物語る事となる。
いつから、この戦争は死ぬために戦うようになったのだろう。
日本は、座して死ぬより、戦って生き残る道を選んだはずではなかったのか。
このような特攻兵器を目にすると、当初の目的を忘れ――いや、趣旨がズレてしまっているような気がしてならなかった。
「……特攻だなんて」
雪風の呟き。だが、都倉は聞こえないフリをした。
『雪風』らを標的艦として猛訓練を行った『回天』は、その後、硫黄島や沖縄などの各戦線へと出撃し、玉砕していくのであった。
一月九日、米軍が比島リンガエン湾に上陸。ルソン島の制圧に乗り出した。
そして二月十九日、米軍は硫黄島にも上陸した。サイパン島より日本本土に近い硫黄島は、米軍にとっても重要な戦略拠点であった。この島に日本本土を爆撃するB29の中継基地を作りたいというのも目的の一つだった。
硫黄島に侵攻した米軍の次の目標は、沖縄か台湾かと言われていた。そうなれば、本土決戦は必至であった。
このような状況に備えて、連合艦隊司令部は新たな編制を実施した。
戦艦『大和』を旗艦とした第二艦隊などの編成である――
第二艦隊は残存する日本海軍のほとんどの主力艦艇を編成していた。海軍兵学校三十九期生であり、駐米武官を歴任した伊藤整一中将を司令長官とし、第1戦隊に『大和』『榛名』『長門』、第1航空戦隊『天城』『葛城』、既に沈没した『信濃』『雲龍』も含め、『隼鷹』『龍鳳』、六〇一空など。
そして古村啓蔵少将を司令官とした第二水雷戦隊に『矢矧』、第2駆逐隊『朝霜』『清霜』、第7駆逐隊『潮』『霞』、第17駆逐隊『雪風』『磯風』『浜風』、第21駆逐隊『初霜』『時雨』第41駆逐隊『涼月』『冬月』。
第二艦隊の他に第四、第六、南西方面艦隊などが編制された。
雪風は、編制表を見て複雑な思いに駆られた。既に亡き艦たちも編制として名を連ねている。『信濃』『雲龍』――そして、『時雨』。
かつては呉の『雪風』、佐世保の『時雨』と並び称されていた幸運艦の片割れも、遂に戦没に至った。彼女は船団護衛中に敵潜水艦の雷撃を受け、マレー半島沖にて沈没。
『雪風』もこの船団護衛に参加する予定であったが、機関の故障により呉に留まっていただけに、その胸中には歯痒いものがあった。
しかし彼女たちの名は今も、自分達の艦隊に堂々と並んでいるのを見ると、生き残った自分が何を為すべきかを、彼女たちの名前から教えられているような気がした。
二月一日。大津島から戻ってきた『雪風』は、呉の港に錨を下ろし体を落ち着かせた。その近くには『磯風』や『浜風』などの妹たちも付き添うように並び、そんな陽炎型の三隻を巨艦群が優しく迎えていた。
山のように気高い『大和』の艦橋に、更に遠くには『伊勢』や『日向』、『榛名』などの戦艦の姿もある。横須賀にいる『長門』を除き、日本海軍のほとんどの戦艦が呉に残っていた。
この日の夜、第二艦隊の艦魂たちの間で宴があると聞き、雪風たちもお呼ばれされていた。会場の『大和』の会議室には、既に戦艦参謀や矢矧、そして駆逐艦たちが揃っていた。
空母の艦魂たちは三ツ子島に繋留しており、この場にはいなかった。と言っても、空母の艦魂たちとは微妙な関係にあるので、近くに居たとしても参加してくれたのかどうかは不明であるが。
「おおい、こっちこっち~」
「涼月さん」
訪れた三人に手招きをしているのは、同じ駆逐艦の艦魂。秋月型駆逐艦三番艦『涼月』の艦魂だった。
近付いてきた三人を見た涼月が、んん、と声を上げた。
「……あれ? その後ろに付いてきてるハンサムな殿方はどちら様?」
「あはは……」
「まさか、俺の事か?」
既に他の艦魂たちに囲まれ、注目を浴びている都倉が訊ね返す。艦魂たちが集う宴会場に、一人の人間が紛れ込んでいる。それだけで、注目の的になるのは十分過ぎた。
「ちょっと、お姉ちゃん。こんな男より、私に構ってよ!」
「こら、冬月。失礼じゃないの」
「それも、俺の事か……?」
その隣で嫉妬を露にするように頬を膨らませるのは、妹の秋月型八番艦『冬月』の艦魂だ。初めて目にする都倉に対する容赦のない態度は、姉を取られまいとする妹の精一杯の抵抗であった。
「涼月さん、冬月さん、お久しぶりです。もうお体は大丈夫なんですか?」
「ええ、何とか。最近、ようやくドッグから出られるようになってね」
雪風の質問に対して、涼月がそっと寄り添う冬月の頭を撫でながら答える。彼女たちの首筋には、うっすらと治りかけているような傷跡が浮かび上がっていた。
この二隻の姉妹は揃って敵潜の雷撃を受け、艦首を損傷し、呉のドッグに長い間入渠していたのだった。
彼女たちの元気な姿に、雪風は安堵の表情を見せる。
「で、その人は噂の?」
「えっと、都倉大尉です」
「ふぅん……」
意味深に笑みを浮かべ、チラリと一瞥した瞳は怪しげな光を放っていた。どんな噂が飛んでいるのか知らないが、自分にとってはあまり聞こえの良いものではなさそうだと都倉は思った。
そして相変わらず、その隣には姉の腕を掴み、こちらを睨みつけている少女が一人。少なくとも彼女だけは自分の事を歓迎していないのがわかる。
「初めまして、大尉。私は秋月型三番艦『涼月』の艦魂、涼月よ。そしてこっちは妹の冬月」
「ああ、よろしく」
「べーっ」
……やはり、あまり歓迎されていない。
雪風に誘われ付いてきたが、本当に自分なんかがこのような場に来て良かったのだろうかと今更ながら疑問符を浮かべてしまう。
「あら、中々の殿方じゃありませんの。『雪風』には勿体ないくらいですわね」
「朝霜さん、そういう事を言うのは良くないと思うな……」
「あら、貴女はそう思わない、霞さん。ねぇ、初霜さん」
「……それはお前だけだ」
周囲、全方位からヒシヒシと感じる視線。自分は正に注目の的だ。
日本に残された第二艦隊の面々たち。この娘たちが、日本海軍の最後の希望なのだ。
何故、都倉がこのような場に訪れたのか。
「さぁ、大尉。こちらです」
雪風に手を引かれ、都倉が駆逐艦たちの輪から離れる。向かった先は雰囲気が一段と変わった空間。まるで鉛が降ってきたかのような重みが体に圧し掛かる。
「失礼します、戦艦参謀の皆様」
彼女たちの前に出るや、毅然とした姿勢で立ち尽くす雪風。都倉もそれに倣うように、艦長たちを目の前にした時のように直立不動となった。
二人の前で顔を並べているのは、呉に錨を下ろす戦艦の艦魂たち。第二艦隊旗艦の『大和』を始め、『伊勢』『日向』『榛名』の四隻の艦魂たちが、都倉に視線を注いだ。
「あら、雪風。来たわね」
「はい。お久しぶりです、皆さん」
「標的艦訓練、お疲れ様」
言葉を最初に返したのは和服を着たうら若き女性であった。清楚でお淑やかな雰囲気に、思わず緊張してしまう。どことなく加代と似ているのが原因だろうか。
そしてそのすぐ隣には、大きなツインテールを跳ねた少女が同じく視線を注ぐ。二つに縛った髪に引っ張られているかのようなつり目に、都倉の顔が水面のように映り込む。
そしてこちらを微笑ましく見詰める大和に、誰に対しても厳しそうな顔を浮かべる榛名。戦艦たちの視線が正に都倉という人間に一極集中の如く向けられている。
「初めまして、大尉。まずは自己紹介としましょうか。私は伊勢型戦艦一番艦『伊勢』の艦魂、伊勢と申します。そしてこちらは妹の日向です」
「貴方が『雪風』の航海長? 噂は聞いているわ。初めまして」
伊勢型姉妹の感触は中々悪いものではなかった。一瞬、そのつり目の印象もあって、妹の方はどうかと思ったが、その口元は確かに緩んでいた。
大和、榛名は作戦行動を共にした事もあり、向こうも都倉の事はよく見知っていた。
「ほら、都倉大尉よ。大先輩なんだから、シャンとしなさい」
「う、うるさいな。お前に言われなくったって、わかってるよ……」
そしてその後ろからおずおずと姿を現したのは、都倉と同じ人間の男であった。都倉よりも若々しい青年で、階級章は少尉を示す桜が見える。
青年はピシリと、敬礼した。
「お疲れ様です、大尉殿。自分は二ノ宮朱雀少尉と言います」
「都倉大尉だ」
都倉は二ノ宮と名乗った少尉と固い握手を交わした。二ノ宮の方は恐縮している様子だったが、都倉は肩の力を抜くよう促した。艦魂が見える者同士、気が合う部分もありそうだった。
「今日は俺の方から無理を言ったんだ。宜しく頼むよ」
「いえ、そんな。自分も大尉とお会いする事ができて嬉しく思っています」
二ノ宮は艦魂が見える帝国海軍軍人であり、戦艦『榛名』の砲術士であった。彼の存在を雪風から聞いた都倉は、是非に会って話をしたいと申し出たのだ。
勿論、艦魂を視認できるという希少な同士というのもあるが、他にも理由があった。
「砲術に関して、貴様から話を聞きたい」
実は、これまで『雪風』の砲術長を務めていた大尉が他の艦に転出した事により、二月一日付で、都倉は航海長から新たな『雪風』の砲術長に任命されていた。『雪風』に着任してから航海科一辺倒だったにも関わらず、砲術科――しかもその「長」を任命されるという類を見ない配置転換だ。これは寺内艦長が「駆逐艦乗りは何でもこなさなきゃいかん」という事で、砲術長を任じられたのだ。
しかし元々航海士であった都倉にとって、砲術とは殆ど未知の領域に等しかった。練習艦『香取』で訓練の合間に砲術士を短期間だけ務めた事はあったが、砲術学校で専門的な教育を受けたわけではない。やはり不安などは大きかった。
艦魂が見える――しかも砲術士、これも何かの縁だと、都倉は二ノ宮にすがるような思いで訊ねた。我ながら情けない話だが、今後にとっても必要な事だ。
あれこれと話を聞いている途中、二ノ宮がふとこんな事を口にした。
「しかし大尉、正直に申しますと自分が乗っている戦艦と駆逐艦では砲塔からして余りに異なる場合もあります。駆逐艦の砲塔は戦艦と違って目まぐるしく旋回しますし、弾の発射速度も12.7cm砲の方が速いです。自分の話が本当に参考になるのか、心配ではあるのですが……」
「いや、確かに貴様の言う通りだ。そうか、うん。駆逐艦にはまた駆逐艦の領分があると言う事か」
戦艦と駆逐艦。同じ砲術と言えど、その中身は決して同じとは言えない。
そんな簡単な事にも気付けない程、自分は追い詰められていたらしい。
苦笑する都倉。だが、彼と話せて良かったと思う自分もいた。
「有難う。わざわざすまなかったな」
「いえ、お役に立てたのなら光栄です。宜しければ、またいつでも」
「助かるよ」
男同士のやり取り。その間に交わされるものには、彼女たちの入る隙もない。それもまた彼らの領分であった。
違う部署の人間がその「長」に……というのも変な話ですが、元々通信士として着任し、航海長、砲術長を経験された田口康生氏をモデルとさせて頂いております。今後、都倉は砲術長として『雪風』にて戦う事になります。




