第五十一話 刹那の命
横須賀に『長門』を送り届けた後、『雪風』『磯風』『浜風』の三隻はまたしても重要な護衛任務を任される事となった。
それは、横須賀港内にいる空母『信濃』を、瀬戸内海へと護送するものであった。
日本の新たな空母として建造された『信濃』は、当初は大和型戦艦三番艦として竣工する予定であったが、日本海軍がミッドウェーで空母四隻を失った結果、急遽、フラット・デッキを取り付けて空母へと改造された。
まだ完成には至っていない『信濃』だったが、瀬戸内海の松山沖へと回航される事となった。その理由は、マリアナ諸島を掌握した米軍が今後、東京を空襲するのは必至であり、首都圏に当たる横須賀も決して安全とは言えなくなってしまったからだ。虎の子の『信濃』を米軍機の標的になる事を恐れ、内海へと移そうと言う事である。
最早、日本に安全な場所などどこにも無いと言うのが実情であるのだが――
「ひゃー、でかいなぁ……」
期せずして少女の口から漏れたのは、その声であった。
横須賀に入港した三隻の駆逐艦『雪風』『磯風』『浜風』は早速、繋留している空母『信濃』の方へと向かった。『大和』『武蔵』に次ぐ三番目の巨大戦艦として建造されただけあって、その姿は山のように大きかった。
空母に改造されて戦艦の面影は無いが、一目見ただけでも十分に世界一の巨大空母だと言う事がわかる。
感心しながら、高々と天に聳える艦橋を見上げるのはツインテールを跳ねた少女。浜風であった。
そしてその隣には二人の少女。雪風と磯風も、同じように巨大空母の艦上へと足を踏み入れていた。
十一月二十五日、この日は三隻の駆逐艦長が『信濃』に呼ばれており、各艦の内火艇が『信濃』に接舷していた。艦長たちは既に艦内へと入り、今頃は『信濃』艦長との間で今後の作戦について話し合っている頃だろう。
艦魂である雪風、磯風、浜風も、自分達が護衛する艦の艦魂と顔を合せるため、『信濃』に訪れていた。
「本当に大きいですね。流石は大和型、と言った所でしょうか……」
「……正に、不沈空母?」
雪風と磯風も顔を見合わせ、初めて目撃する巨大空母に感嘆する。
このような空母の艦魂は、どんな娘であるのだろう。
そんな興味を抱いた途端、それは突然現れた。
「わぁー! いらっしゃーい!」
弾けるような無垢な声に、三人は思わず驚いてしまう。
一斉に視線を向けると、そこには第一種軍装を着た背の小さい少女がこちらに駆け寄ってくる姿があった。
少女は三人の前で急ブレーキをかけると、太陽のような笑みを携えて、ピシッと敬礼した。
「初めまして! 私は信濃といいます! どうぞよろしくお願いします!!」
元気な声で挨拶する『信濃』の艦魂に、雪風が微笑んで答える。
「はい。こちらこそ」
そしてその隣から、浜風の弾んだ声が飛び出す。
「任せてよ!」
無垢な彼女に好印象を抱いたのか、浜風が友好的な態度を持ちながら、信濃の手を握り締めた。
信濃も嬉しそうに笑った。
「私、この日をとても楽しみにしていたんです。生まれてからずーっと、横須賀から出た事がありませんでしたから」
どうしてそこまではしゃいでいるのか、その理由が三人にはよくわかった。
当初は大和型戦艦の三番艦として設計され、戦局によって試行錯誤を繰り返し、ようやく空母として形が整いつつある彼女。横須賀で身を燻る毎日だった彼女にとって、大海原に出る事は飛び跳ねたい程に嬉しい事だった。
艦として生まれた者として、これから待ち受けている初の航海に、信濃は胸を躍らせていた。
しかし信濃は知らなかった。大本営は帝国海軍の勝利を報じるばかりで、実際の戦局はひた隠しにしていた。勿論、『武蔵』が沈没した事も信濃は知らない。それ故に、信濃がこれ程までに期待で胸を一杯にしている姿を晒すのは、無理もない話であった。
「嗚呼、本当に楽しみです。呉に行けば、お姉ちゃんたちにも会えるかなぁ」
「………………」
三人は、何も言えなかった。
正直に言って、この回航も、実際の所は危険を伴う航海であった。
横須賀から瀬戸内海に行く間、その航路は実に危険と隣り合わせのものであった。そもそも本土周辺の海域は、制海権、制空権共に敵が握っていると言っても過言ではなかった。空には敵機が飛び回り、海中には敵の潜水艦が潜んでいる。
上層部は『信濃』護送の航路に、夜間での外洋コースを選択した。昼間の場合、敵機動部隊に見つかって空襲を受ける危険があると判断したためだった。
だが、駆逐艦隊側はこの外洋コースの方がかなり危険だと考えていた。最近、『金剛』と『浦風』を目の前で失った事もあり、雪風たちも沿岸に沿って進むコースの方が良いのではないかと話したばかりだった。
しかも先のレイテ沖海戦で、各艦の水中聴音器等を破損しており、肉眼での見張り以外に潜水艦発見の方法は無い。肉眼では夜間の敵潜発見は困難だ。
外洋に出るだけでも危険なのに、上層部は敵機の空襲を受ける恐れがあると言いながら、直掩機も出せず、夜間航海を実施するよう言い渡した。世界一の巨大空母に、直掩機の一機も出ず、三隻の駆逐艦だけで護るなど無茶な話である。
しかしそんな話を、信濃に聞かせるわけにもいかなかった。
彼女は純粋に、この航海を楽しみにしており、自分達を信頼してくれている。
「……信濃殿、お任せください。必ず、貴女を目的地までお送りします」
「はい! よろしくお願いします!」
三人は顔を見合わせた。その顔には、強い決意が秘められていた。
『信濃』から戻った後、雪風は都倉と顔を合した。
しかしその顔はやけに疲れ切っていた。
都倉は寺内艦長のお供として、砲術長と共に『信濃』へと赴いていた。『信濃』の艦長公室では、司令代理や各艦長たちが集い、意見交換が為されていた。
「艦長たちは昼間航行を望んだが、全て却下されたよ。司令代理の前川中佐も同調してくれたのだが、阿部艦長(『信濃』艦長)の肝は既に夜間航行を決めておられたので、そのように決まった」
「……やはり、そうなりますか」
雪風は残念そうに下を向くが、仕方のない事だった。阿部艦長も水雷屋だ。駆逐艦長たちの言い分も理解しているのだろうが、軍令部が夜間航行を指示した以上、その命令には従わなくてはならない。
「雪風も、『信濃』の方に行ったそうだな」
「はい。彼女と会ってきました」
「『信濃』の艦魂は、どんな娘だった?」
都倉の問いかけに、雪風は微笑みながら答える。
「……良い子そうでしたよ。とても純真で、見ていて心が洗われるようでした」
「……成程、それは貴重な存在だな」
都倉の言い方に、雪風はクスッと笑う。
「なら、護ってやらんとな」
「はい。彼女を……絶対に、護り通します」
雪風の脳裏には信濃の無垢な笑顔が浮かんでいた。
二十八日の定刻、『信濃』は三番ブイを離れ、運命の処女航海へと出た。
七万トンの巨大な空母が、三隻の駆逐艦と共に、黄昏に染まる浦賀水道を通る。
浦賀水道を出る直前、信濃の下に雪風が訪れた。
「信濃殿、いよいよ外洋に出ます。外洋は敵がおり、とても危険ですので、気を引き締めてください」
「はい! 了解です!」
ハツラツと答える信濃だが、雪風の言っている事を、真の意味で理解はしていないだろう。
彼女は戦況が悪化している事など露知らず。まさか日本本土の周辺海域に敵潜水艦がうようよしているだなんて想像していないだろう。
だが、ここで本当の事を教えても無駄だと雪風は思った。
どちらにせよ、自分達が守り通すだけだ。
「元気があってよろしい。必ず、呉に一緒に行きましょうね」
「はい! 誓いましょう。私達は必ず、呉に行くと!」
「ええ」
そう。自分達は必ず、目的地に辿り着ける。
何せ彼女は世界一の巨大空母だ。何かあっても、沈みはしないだろう。
――しかしそれは、余りにも楽観した、愚かな考えであった。
昭和十九年十一月二十九日
午前三時二十分
潮岬沖
巨大空母『信濃』がその身を徐々に右へと傾き出していた。速力は落ち、その体内の区画には浸水が始まっている。
そしてその『信濃』の周囲を、三隻の駆逐艦がまるで猟犬のように駆け回り、見えない敵を捜しながら次々と爆雷を投下していた。
「うう……ッ、痛いよぉ……」
信濃は右の横腹周辺を赤い血で染めながら、嗚咽を漏らしていた。小柄な体はどんどん重くなり、喉に異物が詰まったかのように息苦しい。
「どうして……こんな事に……」
何故、自分がこのような状況に陥っているのか、信濃には理解できなかった。
楽しみにしていた初めての航海。その途上で、敵潜水艦の雷撃に遭うだなんて。ここは日本の近海なのに。何故、敵潜水艦が潜んでいたのか。
日本は勝っていたんじゃないの?
だって、あんなに戦果を報じていたのに。
日本軍は強いんだ。
なのに、どうして……。
「み、んな……」
信濃は自分の周りを走り回る三隻の駆逐艦たちを見た。彼女たちは必死になって、自分を襲った敵潜水艦を捜している。
だが、信濃は敵潜水艦なんてどうでも良かった。
三隻に向かって、手を伸ばす。傍に居てほしかった。
「一人は、嫌だよぉ……。誰か、助けて……」
彼女の願いは、闇が支配する虚空へと虚しく通るだけだった。
『信濃』が被雷する直前、都倉は当直のため艦橋に入っていた。
当直交代の際、前直から「敵潜水艦らしきもの」が海面で確認され、警戒がより一層高まっていた。
だが、午前三時十七分。都倉はズシーンと言う衝撃を感じ取った。急いで後方に目をやると、『信濃』に一本の巨大な水柱が上がっていた。
そしてその後、『信濃』の右舷側に連続して三本の大水柱が上がるのが見えた。
「戦闘配置に就け! 爆雷投射用意!」
艦橋にいた寺内も、直ちに命令を次々と下令した。『磯風』『浜風』もこれに倣って、『信濃』の周囲を駆け巡り、爆雷を落としていった。
僅か四本の魚雷ではあったが、水深浅い場所に命中した事、そして未完成だった己の体が、『信濃』にとっては不運であった。
敵潜水艦側にとっては『信濃』を大型のタンカーか隼鷹クラスの空母だと考え、魚雷の深度を浅く調定しており、それが工期を極端に短縮された未完成の船体に大打撃だった事が、怪我の功名であった。
水平線から日が昇り始めても、『信濃』の傾斜はますます深まるばかりだった。
『磯風』『浜風』が『信濃』を曳航し、『雪風』は周辺の警戒に当たる事となった。
二隻の機関の馬力は合わせても合計十万四千馬力である。しかし七万トンの巨体を引っ張るには、二隻の駆逐艦が全力を出しても、ほとんど動きを見せなかった。
『浜風』は『信濃』との距離を一杯に詰め、全速力を掛けて更に引っ張ろうと努力するが、それでも『信濃』は動かない。
「……このまま『信濃』が沈むと、『浜風』も引き摺り込まれてしまう」
双眼鏡を握り締めていた寺内が呟いた。
その横で、都倉も緊張気味に、曳航の光景を見守る。
午前十時、阿部艦長は遂に曳航を断念。総員退艦を下令した。
魚雷命中より丁度七時間後であった。
右に傾斜を深めた『信濃』から、乗員たちが退艦していく。信濃は一人、泣きながら手を伸ばしていた。
「やだ。置いていかないで……」
横腹から消えない血の色。そして、ぐしゃぐしゃに涙で潰れた顔は、ひどく痛々しい。
その眼前に三つの光が射し、信濃が待ち焦がれていた三人の顔が現れる。
だが、どの顔も悲しみに揺れていた。
「……雪風さん、磯風さん、浜風さん。良かった、また会えて……」
信濃は、安堵するように笑った。
その瞳からは涙が溢れている。口元からは、血が零れていた。
「ねえ、置いていかないよね……? 私、沈まないよね……?」
「………………」
「嫌だよ……。こんな所で一人、死ぬだなんて……。絶対に……」
「信濃殿……」
手を伸ばす信濃。
しかし三人は、その手を掴む事ができない。
自分達にはその手を引っ張る力もない。余りに大きすぎる彼女を、非力な自分達ではその手を引く事がしたくてもできないのだ。
絶望に染まりつつあった信濃の顔を、浜風が抱き寄せた。
「……ごめんね、ごめんねぇ」
信濃の頭を抱き寄せ、その顔を胸に押し付けた浜風が泣きじゃくる。雪風も、その姿を見て涙を零した。
磯風も、顔を逸らし、肩を震わせている。
『浜風』は最後までこの巨大空母を引っ張ろうと懸命に頑張った。自分が巻き込まれる危険も顧みず。
しかしとうとう限界だった。浜風は、そっと信濃から離れた。
まるで奈落の底に突き落とされたかのような目を開けた信濃を前に、三人は敬礼を掲げる。
絶望に揺れる瞳。
その瞳を、三人は決して目を逸らす事なく、見据え続けた。
そして、諦めたような瞳へと変わる。その変化を、三人は見届けた。
「……私、」
信濃は、光に包まれながら立ち去る三人の背中を、ただ見詰める。
一人にしないで、と。手を伸ばすが、声は出なかった。
置き去りにされたように、一人になった信濃は、憎い程に青々とした空を見上げた。
艦載機を飛ばす事もなく、二日ばかり海の上を走っただけで、自分はもうすぐ海の底へと沈む。
「……誰か、助けて。大和お姉ちゃん……、武蔵お姉ちゃん……」
顔も見た事のない姉たちに助けを乞いながら、信濃は光の粒子となった。
断末魔の巨像のように、『信濃』は右に転覆し、艦首を天空へと高く突き上げ沈み始めた。
十時五十五分、日本の希望の星であった巨大空母は遂に一度も戦う事なく、深い海底へと没した。
阿部艦長は艦首の旗竿に体をくくりつけ、艦と運命を共にした。
『信濃』には一千四百余名の乗員の他に多数の工廠技術者や工員たちが同乗していたが、駆逐艦に救助された者は一千八十名、戦死者は七百九十一名であった。
三十日、三隻の駆逐艦は呉に入港した。しかしその周囲に空母の姿は無かった。
大和は妹との対面を待ち望んでいたが、代わりに目の前に滑り込んできたのは、謝罪に来た駆逐艦たちの泣き顔であった。雪風、磯風、浜風の三人は涙を浮かべながら、大和に『信濃』護衛の失敗を報告すると共に謝罪した。
だが、大和は三人を責めるような事は一切言わなかった。
「君達が謝る事はない。これも、信濃の運命だったのだ……」
武蔵に続き、もう一人の妹を失った大和の瞳は悲しげだった。
しかし大和は涙も見せず、微笑みながら、三人に労いの言葉を伝えた。
「有難う。そして、護衛任務……ご苦労であった」
「……大和、長官」
その時、雪風が見た大和の瞳は恐ろしい程に感情がこもっていないような、そんな目をしていた。
それはまるで海底のように暗い色。
この時の大和が何を考えているのか、雪風にはわからなかった。




