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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十九年~二十年
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第四十九話 最後の艦隊決戦

 昭和十九年十月二十五日

 サンベルナルジノ海峡


 栗田艦隊は駆逐艦を先頭に単縦陣の陣形で、遂にサンベルナルジノ海峡に到達した。

 この海峡は当該海域の中でも狭海峡であり、狭い所では幅五マイルという狭道であった。

 この水道を抜け切ればいよいよレイテ湾の目の前、つまり捷一号作戦の成功を見る事ができるのだが、肝心の米艦隊が待ち伏せしているのかどうか。そしてレイテに至る道中で、敵機動部隊の空襲があるのかないのかという、これらの不安が艦隊乗員たちの中で駆け巡り、緊張が包んでいた。

 しかし二十四日未明、スリガオ海峡を目前とした西村艦隊から、貴重な情報が栗田艦隊に届けられていた。


 「湾ノ南部水面ニ戦艦四、巡洋艦二、上陸海岸沖合ニ輸送船約八十ヲ認ム。スリガオ海峡ニ駆逐艦四、魚雷艇若干アリ。サラニレイテ島東南四十浬ニ、空母十二、駆逐艦十ヲ視認ス」


 これは第三部隊に属する『最上』から発進した偵察機が、勇敢にもレイテ湾上にまで飛び、本隊にもたらした唯一の敵状報告であった。

 そして西村艦隊は、往く先に圧倒的な数の敵艦隊が待ち構えていると知りながら、躊躇なく前進していったのである。

 結果、西村艦隊は壊滅、志摩艦隊も突撃を断念した事で、レイテ湾に突入するのは栗田艦隊のみとなっていた。

 こうして二十四夜半、戦艦四、重巡六、軽巡二、駆逐艦十一、計二十三隻の艦隊がサンベルナルジノ海峡に差し掛かった。

 栗田艦隊は知らず緊張を覚えたまま海峡を通っていたが、この時、小沢機動部隊が囮としてハルゼーの米機動部隊を引き付けてくれていたおかげで、海峡はがら空きの状態であった。

 この時、『雪風』は『榛名』の後方に従い、海峡を通過。艦隊は順調に進んだ。

 日付が変わった頃、栗田艦隊は難なく海峡を通り抜け、レイテの北に位置するサマール島の沖合に進出。


 午前六時四十五分。


 サマール島の沖合で、『大和』の見張り兵が左前方三万五千の距離に数本のマストを発見。これを聞いた『大和』艦長の森下少将はすぐさま下令した。


 「左砲戦!」


 森下艦長の咄嗟に下された命令により、『大和』の46cm主砲が重々しく動き出した。そしてこの身に生じる躍動をヒシヒシと感じているのは艦魂の大和であった。既にその手には鞘から抜いた刀が握られており、その瞳は真っ直ぐに敵艦隊と思われるマストを見詰めていた。


 「遂に見つけたぞ……」


 艦隊の左前方に位置し、一番近い距離にいた『矢矧』は発見した数本のマストが真っ先に空母のものである事を確認した。空母発見の報告を聞いた時、大和は闘志を燃え上がらせた。発見した敵空母は、妹の『武蔵』らを襲い沈めた恨み骨髄の敵機動部隊のエセックス級空母であると信じていたからだった。


 「武蔵らの仇、取らせてもらうぞ!」


 『大和』の主砲が、敵空母の方へと向けられた。

 第一、第二部隊の全艦に、戦闘準備かかれの命令が下った。



 『大和』が敵空母のマストを発見してから四分後には、『矢矧』を始め、『雪風』を含めた17駆の面々も敵空母の姿を捉えていた。

 艦隊の中で最も敵空母と近い距離に位置していたため、『雪風』からも敵空母のシルエットがくっきりと浮かんで見えていた。

 平たい甲板が特徴的なシルエットは、スコールの密雲を背景に、三隻が海上に浮いている。雪風はこの三隻の空母が武蔵たちを襲った張本人たちであると思い込んだ。そう思うと、体の奥底から熱いものがふつふつとこみ上げてくる。魚雷でも砲弾でも何でも良いから、とにかくあの空母にぶっ放したいとさえ思っていた。


 「(落ち着け、熱くなり過ぎちゃ駄目……)」


 雪風は深呼吸した。カーッとなっていた己の頭が少しずつ冷やされていく。

 やがて全艦に砲戦用意が言い渡された。雪風は察した。艦隊決戦だ。

 一瞬歓喜に沸くが、またすぐに冷静になる。

 現在の敵艦隊との距離を思い浮かべる。二万五千。これでは遠すぎる。我が身に搭載された四門の主砲は、最大射距離は一万五千から六千といった所である。確実に敵空母に報いるなら、最低でも一万五千までは近付かなければならない。


 「――きゃ!?」


 ――ズドォォォン、と火山の噴火に似た轟音が響き渡った。

 雪風は思わず驚いてしまう。それが味方の砲撃であると知りながら。

 振り返ると、高く掲げた砲身から黒い煙を燻らせた巨艦が一隻。

 やきもきしていた『雪風』より一足先に、『大和』が第一弾を発射していた。



 午前六時五十九分、『大和』は距離三万二千で六門の主砲から初弾を発射した。六発の46cm砲弾が飛翔、敵空母の近くに落ちていった。

 続いて第一、第二部隊の各戦艦が砲撃を開始。『長門』『榛名』『金剛』の順で次々と砲弾を放った。

 しかしどれも敵艦には届かない。やはり三万ではまだ遠かった。

 日本の戦艦群が放った砲弾が次々と着弾すると、赤、黄、緑などの様々な色を染めた水柱が生じた。

 着弾地点を識別するため、火薬の色を違えていたのだった。続々と襲い掛かるテクニカラーの水柱に阻まれ、敵空母三隻は慌てて退避を始めた。

 これを追うように、栗田艦隊は砲撃を繰り返しながら接近した。

 この時、敵空母は艦首を風上に向けようとする動きを見せていた。空母は艦載機を発進させる時、艦首を風上に向ける傾向がある。敵機の空襲を恐れていた栗田艦隊はこれを阻止せんと熾烈な砲撃を加える。

 栗田艦隊はこの敵空母を正規空母と思い込んでいたが、実際は護衛空母六隻と駆逐艦七隻を率いた米軍の上陸支援部隊であった。

 何故、彼らは丸裸の状態で海峡にいたのか。それは小沢機動部隊に誘き寄せられたハルゼーの機動部隊がいなくなった事、未明にスリガオ海峡から来襲した西村艦隊の突撃に対する備えで疲弊していたキンケイドの第7艦隊がレイテ湾内に錨を下ろしていた事。それらの事象が重なり、彼らは不運にも、自分達を守ってくれる存在がいない所を日本艦隊に発見されてしまったのだ。

 

 ――そして遂に、一発の砲弾が敵空母に命中。炸裂し、その鉄の塊に火柱を生じさせた。


 続けて数多の砲撃によって生じた水柱に囲われながら、直撃弾を受けた敵空母(護衛空母)は、甲板を燃やし大きな黒煙を昇らせていた。これを認めた『大和』を始めとした各艦は歓喜に包まれた。


 「遂にやったぞ!」

 「我らの砲撃が、敵空母に当たったぞ!」


 被弾し炎上する敵空母を前に、戦艦部隊及び巡洋艦部隊は「突撃セヨ」という栗田長官の命令に従い、更に敵艦隊へ接近した。その後ろを、二水戦や第10戦隊が続いた。相手がもし戦艦部隊であったなら肉薄攻撃をして前に出る事ができたのだが、今戦っている相手は空母と駆逐艦の部隊であり、空襲による反撃があると見て、射程距離の長い戦艦と巡洋艦の砲撃によってこれを制圧しようと司令部が意図したのであった。

 だが、敵空母部隊もただやられてばかりではなかった。激しい砲撃に曝されながら、敵空母が必死に飛び立たせた艦載機群が、遂に栗田艦隊へと反撃してきたのである。

 小癪にも第10戦隊にまで襲い掛かってきた敵機に対し、『雪風』も全機銃を以てこれに対抗する。


 「舐めないで!」


 怒ったような雪風の声と共に、ハリネズミのような『雪風』の二十八挺の機銃が一斉に火を噴いた。

 この時、『雪風』の射撃には明らかに苛立ちが含まれていた。敵艦が見える距離に居るというのに、主砲が届かない、その上更に敵機の来襲。『雪風』の機銃射撃は、その怒りをぶつけるように、敵機へと猛烈な攻撃を浴びせた。

 『雪風』の25mm機銃弾が敵機を一機、撃ち落とした。胴体から火を噴かせた敵機は、そのまま海中へと突っ込んでいった。


 「……空母が見えていると言うのに」


 艦橋にて双眼鏡を覗き込んでいた都倉も同じだった。舵を操舵員に任せ、都倉は遠方に見える敵空母の姿を恨めしげに見詰めていた。

 双眼鏡で敵空母を覗いていた都倉は、ある異変に気付いた。いつの間にか上空に厚い雲が近付き、ポツポツと雨が降り出してきたのだ。

 それはあっという間に、大スコールとなった。その大雨スコールは、敵空母が見えなくなってしまう程だった。


 「糞、こんな所でスコールだなんて」


 都倉は悔しげに呟いた。先程から敵空母の背景で澱んでいた密雲が、遂に艦隊戦の上空へと飛来したのだった。突然降り出したスコールは正に艦隊決戦の水を差し、艦隊の一部は尚もスコールの中に入り前進を続けた。


 スコールの中に入った『雪風』は、雨に打たれながら対空機銃の砲身を回し続けていた。機銃員たちがずぶ濡れになりながらも、見張りを怠らない。

 そして本当に、低空から敵機が一機、機銃掃射を浴びせてきた。激しいスコールが降る中、25mm機銃弾が突っ込んでくる敵機に向かって放たれる。敵機は火だるまになり、海中に落ちていった。


 「スコールから出たら、また来るぞ」


 艦橋ではそんな会話が為されていた。とっくに砲戦用意が完了している主砲は未だ発砲できず、相変わらず対空機銃のみが活躍している。主砲を撃てないという苛立ちが艦橋を包み込んでいたが、思わぬ展開が彼らに待ち受けていた。


 「一、二番砲塔、射撃準備!」


 突然、射撃指揮所から切迫した声が届いた。

 主砲を撃つのか!?

 しかしどうして。

 都倉はすぐにその答えを知った。スコールの切れ間から、自分達と似た小柄な艦船群が姿を現したのだ。

 それは果敢にも突撃してきた六隻の敵駆逐艦であった。都倉はこれを見、興奮を覚えた。

 やってやろうじゃないか。

 都倉は寺内の指示を待った。都倉が見た寺内の表情は、意気揚々としていた。

 ほぼ同時に、『大和』から駆逐艦隊に対し、突撃命令が下った。


 「ようし、機関全速前進! 同じ駆逐艦相手に負けたら恥だぞ!敵に目にもの見せてやれ!」

 「合点承知! 目にもの見せてやります」


 寺内が声を上げると、射撃指揮所にいた砲術長が応じた。これと同時に、魚雷発射準備の指令も言い渡された。

 敵駆逐艦の一隻が先んじて魚雷を発射。狙われた『矢矧』が回避行動を取って、左に舵を切った。

 その敵駆逐艦に向けて、『雪風』の主砲が回る。


 「主砲発射! 撃ちー方始めッ!」


 寺内の号令により、砲術長が復唱、『雪風』の12.7cm砲が発砲する。連続斉射であった。砲身が焼けるのではないかと思う程に撃ちまくる。『雪風』の猛撃を浴びた敵駆逐艦『ジョンストン』は直撃弾を受け、積載していた爆雷が誘爆、たちまち炎に包まれた。

 これを認めた『雪風』の艦橋、そして一番砲塔内では乗員たちが歓声を上げていた。敵駆逐艦は炎に包まれ、沈みかけていた。

 息も絶え絶えな敵駆逐艦の横を通り過ぎ、『雪風』は敵空母に向かって前進する。

 他の駆逐艦たちも攻撃を始める。第17駆逐隊の『浦風』『磯風』、そして『野分』も『雪風』と並び、距離一万で魚雷を次々と発射。魚雷を撃ち終えると、敵の砲弾を浴びる中、反転した。


 「左魚雷戦! 発射用意!」

 「発射用意ヨシ!」

 「発射始め!」


 『雪風』も彼女らと共に魚雷を発射。寺内の「発射始め」を聞いた都倉は、「面舵一杯」を下令した。

 艦が右に舵を切る。だが、都倉は水雷長から声を掛けられた。


 「悪い、航海長。発射をミスした。もう一度頭を立て直して、やり直しを」

 「わかりました」


 水雷戦とは斯くも難しいものだ。しかもスコールの合間から、陣形を保っての激しい撃ち合いの最中である。敵駆逐艦も煙幕を張り、空母を隠そうと必死だった。そして砲撃や魚雷も怠らない。これは互いにとっても負けられない戦いだった。

 針路を敵空母の方へと戻し、体勢を立て直した『雪風』は今度こそ魚雷を発射する。


 「発射用意、撃てッ!」


 『雪風』から四本の酸素魚雷が発射された。直後、『雪風』は舵を右に切って、反転した。

 反転し、敵の砲撃から逃げながら、『雪風』の艦橋で、水雷長がストップウォッチを取り出した。


 「魚雷命中まで十秒。九、八、七……」


 敵の砲撃が遠ざかる。魚雷が放たれた先にいる敵艦隊は、自分達に幾数もの魚雷が近付いている事など気付いていないだろう。


 「五、四、三……」


 刻々とカウントダウンが刻まれる中、都倉は緊張した面持ちで、水雷長の声を聴いていた。

 雪風もまた、雨に打たれながら、後ろを振り返った。

 その時だった。


 「――零!」


 魚雷を発射して十分が経った頃。敵空母の傍に一本の巨大な水柱が立ち昇った。

 『雪風』が放った魚雷が、敵空母に命中した事を物語っていた。


 「魚雷命中!」


 艦橋内は歓喜に包まれた。都倉はストップウォッチを握っていた水雷長と顔を見合わせ、笑った。

 寺内は満足そうに頷いている。

 見ると、水柱が沈下した後、艦影も消えていた。


 「おい、航海長。機械室にも教えてやれ」

 「は!」


 寺内に言われ、都倉は嬉々と喫水線下にある機械室に報告を行った。


 「本艦の魚雷により、敵空母一隻を轟沈!」


 伝声管を伝って、機械室から返ってきたのは乗員たちの歓喜に沸いた声であった。


 「こちら機械室。機関各部異常なし。士気は旺盛、ディーゼル発電機はますます好調!」


 機関長の弾けたような声が、後から聞こえてきた。

 駆逐艦に続き、敵空母を我が方の魚雷を以て沈めた事に、『雪風』の乗員の誰もが、予想していなかった戦果に喜んでいた。

 それは彼女も同じであった。


 「私が、空母を……」


 雪風は微かに震える自分の手を見下ろす。そしてその手をぎゅっと握り締め、噛み締めるように呟いた。


 「武蔵さん、仇は討ちましたよ……」


 雪風は嬉しさの余り、涙が出そうだった。





 戦闘が一段落した頃、敵空母を撃沈し満足気に走る『雪風』は、沈みかかった敵駆逐艦の傍を通りかかった。

 その艦は先程、『雪風』自身が砲撃を浴びせた米駆逐艦『ジョンストン』であった。火災が生じる艦からは救命ボートが降ろされ、海に漂流した米兵たちが泳いでいる光景が見られた。

 顔を煤だらけにし、救命ボートに乗り込む米兵たちの姿を見ていると、どこからかダダダと射撃の音が聞こえた。

 これに驚いた都倉だったが、すぐに反応したのが寺内であった。


 「おい! 撃つな!」


 憎き米兵を目の前にして理性を抑えられなかった誰かが、勝手に機銃を撃ったようである。だが、それを察知した寺内が、大声で「撃ち方止め」を命じた。


 「酷い事をするんじゃない」


 寺内が戒め、射撃を始めた機銃員はすぐに命令に応じた。

 幸いにも弾は当たらなかったようで、救命ボートに乗った米兵たちはジッとこちらを見詰めている。そして都倉は、寺内が救命ボートに乗っている米兵たちに向かって敬礼している姿を目撃した。最初、都倉はその光景に呆気に取られたが、すぐに米兵たちの方へと視線を戻した。

 寺内の敬礼は米兵たちにも見えているはず――救命ボートに乗った米兵たちの内、一人の将校らしき人物が答礼しているのがわかった。都倉はその時、両者の間で交わされた敬意を垣間見たのだった。




 戦いは、栗田長官による集合命令によって幕を閉じた。

 敵護衛空母をエセックス級の正規空母と思い込んでいた栗田司令部は、相手の方が速度が上回るとして、もし逃げられれば鈍足の戦艦群では補足できなくなると判断した。その間にも敵機の空襲が激しさを増していたので、一旦艦隊を集合させようと結論を出したのだった。

 集合命令が掛かった時、最前線にいた駆逐艦隊は、敵空母に対する再度の魚雷攻撃を行う機会を目前にしていた。

 目の前に敵空母が見えているのに、と激怒した寺内は単艦での再度突入を主張したが、都倉たちに引き戻され、渋々集合命令に応じたのであった。

 この海戦で、『雪風』は「正規空母一隻撃沈、新型空母一隻大火災、駆逐艦二隻撃破、主砲四百六十二発発射(残九十八発)、機銃一万発発射、魚雷四本発射(残十二本)」と報告。

 実際には米側は護衛空母一隻、駆逐艦三隻を失い、日本側は空襲により重巡『鳥海』『鈴谷』『筑摩』、『筑摩』の救助に向かった駆逐艦『野分』が米艦隊に補足され沈没、『熊野』が中破した。一方、『雪風』は航行不能となった『鈴谷』の救援に向かったが、救助活動を始めようとした所、『鈴谷』は大爆発を起こし、『雪風』は難を逃れた。

 午前十一時、集合を終えた栗田艦隊は、再びレイテ湾へと進撃を再開した。


 だが、思いもよらぬ結末が、艦隊に降りかかるのであった――


 戦闘を終えた『雪風』の士気は旺盛であった。敵空母一隻を撃沈(と信じていた)、駆逐艦一隻撃沈という戦果を挙げ、レイテ湾を目前としていた事もあって、乗員たちの気合がますます入っていた。

 しかし艦隊が集結した後、敵の空襲が激しさを増していた。いよいよハルゼーの敵機動部隊近しと栗田司令部は考えていた。

 初期の目標であるレイテ湾突入を決行しようと、栗田艦隊は第三警戒航行序列を敷いて、進撃を再開。

『大和』を中心に、前方に『能代』『長門』、右方に『羽黒』『金剛』、左方に『榛名』『利根』、その右と左に駆逐艦を配し、『雪風』は『利根』の左後方に居た。

 艦隊の位置は、スルアン島の北方六十マイルで、二十ノットで進撃を続ければあと三時間でレイテ湾に到達する航程であった。

 だがしかし、午前十二時二十六分。栗田長官は突然、全艦に反転を命じた。

 それはレイテ湾突入を諦める意味を示していた。


 「――反転だと!?」


 栗田長官の反転命令を聞いた『雪風』艦内も騒然としていた。

 都倉もその命令の意味がわからなかった。


 「レイテには突入しないという事か!」

 「ここまで来て……」


 悔しげに呟く乗員たちの顔を見て、都倉も同じように拳を握り締める。長官は臆病風にでも吹かれたのか、と言う者もいたが、長官が何を考えその判断に至ったのかは誰にもわからない。しかし確かに言える事は、その命令には、従うには抵抗があるという事だけだった。

 ここまで払った犠牲は何だったのか。まずそれだ。ここに至るまで、何隻の艦と、大勢の将兵を失ったのか。

 ここで撤退すれば、彼らの死は無駄になってしまう。それを思うと、許せなかった。

 寺内自身も怒りを覚えていたが、しかし、命令は命令だ。従う以外の道はなかった。


 「……取舵一杯。艦を反転させよ」


 寺内の静かに通った声に、都倉は悔しさを隠し切れない調子で「取舵一杯」を操舵員に命じた。

 艦は波を切り、反転した。レイテ湾に背を向け始める艦隊。その内の一隻として、雪風もまた名残惜しそうにレイテ湾を後にする。

 雪風の瞳は、悲しげに揺れていた。武蔵や仲間たちの顔が次々と脳裏に浮かぶ。彼女たちの死に、雪風は思いを馳せた。しかし、彼女たちと共に目指していたレイテ湾は、どんどん遠ざかっていった。



 しかし、敵はそう簡単に彼らを逃がしはしなかった。

 反転し、撤退する栗田艦隊に襲い掛かる敵機の波状攻撃は熾烈を極めた。空母から飛び立った艦載機と陸地から飛来したB24による雷爆撃で、軽巡『能代』が沈没、対空砲の奮戦が報われ、敵機を数十機撃墜したが、重巡『熊野』と『大和』が被弾した。

 『雪風』もまた、敵機の猛爆に曝される――




 昭和十九年十月二十六日

 シブヤン海


 艦隊が反転して翌朝、再び来襲した敵機編隊に対し、『雪風』の対空兵装が火を噴いた。

 敵機が飛来するや、寺内は鉄兜も被らず艦橋天蓋から顔を出し、辺りを見渡した。その口には煙草すら咥えられており、悠々とした余裕さえ見せていた。

 落ちてくる爆弾の方向、敵機の角度を見計らいながら、寺内は度々怒鳴り、操艦を命じていた。


 「来たぞ! 面舵!」

 「面舵!」


 寺内の怒鳴り声に、都倉は操舵員に命じる。

 この回避運動も、水平爆撃と急降下爆撃では転舵の方向が異なるため、都倉も苦労していた。

 しかも敵機の轟音、落ちてきた爆弾が海に炸裂する音、対空機銃の射撃音。騒音に包まれた状況下では、寺内の号令ですら聞き取れない事もあった。

 その度に、都倉は天蓋に上がった寺内に、肩を蹴られるのだった。


 「取舵!」


 と言われれば、寺内は都倉の肩を左足で蹴る。都倉は痛みに堪えながら、舵に命令を伝える。

 何とか命中弾は避けているが、敵機の攻撃は激しさを増すばかりだった。周囲から聞こえる轟音や爆発音、それらの騒音が囲い、都倉の感覚すら奪い取らんとする。


 「航海長、今度は当たるかもしれんぞ」


 さすがの豪傑艦長もそんな弱音を吐く程であった。

 実際、『雪風』は数多の至近弾を浴び続けていた。

 しかし都倉は信じていた。この艦長ならば、そして武神の神が宿るこの艦なら、きっとこの状況を抜け出せると。



 この撤退戦における敵の空襲からも逃げ延びた艦隊は、数隻の艦を失いながらも、二十八日にブルネイへと帰還した。

 しかし出撃時の威容な陣容は既に無く、生き残った艦も傷だらけであった。僅かに『大和』『長門』『金剛』『榛名』『利根』『羽黒』『矢矧』等の他は全て駆逐艦で、なんとも寂しいものになっていた。

 大小被害のない艦はなかったが、その中でもただ一隻だけ、『雪風』だけがまた無傷で帰還を果たしたのであった。

 囮役を買って出た小沢機動部隊も、空母『瑞鶴』を始め、参加した四隻全ての空母と、軽巡『多摩』、駆逐艦二隻が沈没。他の艦も皆、損傷した。

 結局、捷一号作戦は失敗に終わった。レイテ湾に突入し、敵の上陸部隊と船団を攻撃できず、連合艦隊は壊滅状態に至ったのであった。


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