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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十九年~二十年
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第四十八話 七隻の艦隊

「呉の雪風 佐世保の時雨」と謳われた一隻。今回は珍しく、雪風が参加していない戦いを描いています。レイテ湾に向かう栗田艦隊とは別ルートを進撃するもう一つの艦隊――西村艦隊の戦いをご覧ください。

 ブルネイ出撃前夜、第三部隊に属する艦の面々が、一堂に会していた。

 しかし彼女たちの間には微妙な空気が流れているのもまた否めない事実だった。何故ならこの捷一号作戦のために編成された臨時に近い艦隊だったからだ。まともに合同訓練もした事のない、所謂、「寄せ集め」の艦隊だった。


 「皆さん、今回はよろしくお願いします」


 戦艦『扶桑』の艦魂が、頭を垂れる。サラリとした長髪が流れた。

 艦魂社会の間では高位の方である戦艦参謀とあろう者が、重巡、ましてや駆逐艦に頭を垂れるというのは、中々ない事であった。

 最早、時代遅れの中でも飛び抜けた時代遅れ――欠陥戦艦とまで言われた扶桑型。

 扶桑の態度に、彼女たちが驚きもしないのは、この艦隊の本質なのかもしれない。


 扶桑型が所属していた第2戦隊は開戦時、『扶桑』『山城』の他に、伊勢型戦艦の二隻で編成されていたが、航空機が主役となった後はほとんど出番が無く、『伊勢』『日向』は航空戦艦へ改造され戦隊を離れたにも関わらず、残された扶桑型の二姉妹はほとんど活躍の場が与えられていなかった。

 姉の『扶桑』はニューギニア島方面の渾作戦へ参加する事もあったが会敵には至らず、妹の『山城』に至っては捷一号作戦が発動されるまで、ほとんど日本本土から離れたことが無かった有様だ。

 

 「戦艦参謀殿、それはこちらの台詞です。私達の事、どうかよろしくお願いします」


 少し不機嫌そうに口を開いたのは、四いる駆逐艦の一隻、『満潮』の艦魂だった。短い頭髪に、ゴムで小さな団子のように髪を縛っている。その瞳は「参謀殿」と言った言葉以上に、刺々しいものがあった。


 「しかし、一つお聞きしたいのですが。この艦隊の旗艦は、扶桑殿でありましたか?」

 「いいえ。本艦隊の旗艦は、妹の山城です」


 その山城はこの場には何故かいなかった。

 満潮が不満そうな顔も隠さず、問い続ける。


 「それでは山城殿はどちらに?」

 「もうすぐ来ると思います」

 「満潮~。さっきから何を不貞腐れてるの?」


 図星を突かれたように、満潮は大きく見開いた目をその少女に向けた。

 少女は微笑んだ。満潮が歯を立てる。


 「何を馬鹿な事を。最上殿、それは貴女の勘違いです」

 「それはそれは失敬」


 少女は特に悪びれた様子もなくカラカラと笑った。満潮の顔がますます憮然となる。

 彼女はこの面子の中でも明るい雰囲気を醸し出していた。それはまるで、太陽のような存在だ。

 重巡『最上』の艦魂が、満潮のおでこに指を立てる。


 「でも、そうやって他人に当たるのは良くないよ。こうして同じ艦隊に配属された同士、仲良くしなくちゃ」

 「……ッ」


 最上の手を振り払い、満潮が呟いた。


 「……どうして、こんな部隊に配属されたのかしら。私」


 そんな満潮の傍には、顔がよく似た二人が困ったように顔を見合わせていた。

 彼女たちは朝潮型駆逐艦の艦魂である。元々は第4駆逐隊に属していたが、この4駆自体既に寄せ集めの部隊だった。それを言うのも、彼女たち朝潮型の三隻は、全滅しかけていた第4駆逐隊に穴埋めするような形で編入されたからだ。

 同じく第4駆逐隊に居た『野分』は主力の栗田艦隊に配属されており、残った三隻の朝潮型たちは西村艦隊へと配属になった。

 また穴埋め……。満潮は、自分達の扱いに不満を持っていたのだった。

 一方の『最上』は、開戦時は第7戦隊に所属し、ミッドウェー海戦での『三隈』との衝突事故修理をきっかけに航空巡洋艦へと改造されたが、戦隊へ復帰しても他艦との性能の違いで噛み合わなかったのか、第7戦隊が第8戦隊と統合された際に部隊から外され、行き場のないまま第二艦隊に留まっていた。


 「……明らかに、こんな部隊、小沢の部隊と違う意味で囮じゃないの」


 残存空母と航空兵力で構成された小沢機動部隊は、米機動部隊の囮役として本作戦に参加している。だが、この西村艦隊と呼ばれる第三部隊は、旧式の低速戦艦と寄せ集めの駆逐隊、戦隊からあぶれた航空巡洋艦。こんな非力な艦隊で、米軍と戦わせるだなんて。主力とは別ルートで進撃というのは、明らかに敵の戦力をこちらに向けさせて、主力部隊(栗田艦隊)を容易にレイテ湾へと突入させようという思惑が見え見えだった。


 「み、満潮姉さん……」


 心配そうに、不安そうに姉の袖を引っ張る妹たち。朝雲と山雲だ。しかし満潮は見向きもせず、ただ最上や扶桑を睨んでいた。

 険悪な雰囲気が漂う中、新たな声が加わった。


 「遅くなってごめん。皆」

 「……お酒、持ってきたよ」


 それはまだこの場に来ていなかった二人であった。申し訳なさそうに頭に手をかける時雨と、相変わらず眠たそうな顔の山城。山城の手には一升瓶が握られていた。


 「ど、どうしたの?」


 変なタイミングに来てしまったと、その場の雰囲気からすぐに察した時雨が困惑気味に言った後、扶桑が手を叩きながら、場の雰囲気を吹き飛ばした。


 「さぁさぁ。お酒も来た事だし、皆さんで飲みましょう」

 「もしかして、これを取りに行ってたの?」


 扶桑が山城から一升瓶を受け取り、その横で最上が時雨に訊ねる。

 

 「うん。扶桑さんからのお願いで、皆と飲むお酒を探しに行ってたの」

 「探しに、ねぇ……」


 どこから持ってきたかはあえて聞かない最上は、時雨に意味深な笑みを浮かべる。

 それに対して、時雨は舌をチロリと出して、悪戯っぽい笑みを返すのだった。



 日本酒を開けた少女たちは、思い思いに酒を飲み交わした。

 あれだけ敵意を剥き出しにしていた満潮も、扶桑や山城と他愛のない世間話をしている。

 それを見て、ほっと安堵する朝雲と山雲。そして微笑ましそうに見詰めていた最上が、時雨の方に寄ってきた。


 「お酒の力は偉大だね」

 「うん、そうだね。でも……」

 「ん?」


 時雨はフラッと頭を揺らすと、最上に心配された。

 大丈夫、と手で示すと。時雨はほのかに赤く染まった頬を緩ませた。


 「慣れない事は、しないものだね。もう酔いが回って来たみたい」

 「時雨はあまりお酒、飲まなさそうだもんね」

 「そう見える?」

 「君はどこか大人っぽく見えるのだけれど、やっぱりまだ子供っぽさが隠し切れていない感じ。その左目を隠してる前髪のせいかなぁ」

 「やっぱ、切った方が良いかな?」

 「それ、どうして伸ばしてるの?」

 「うーん、この方がカッコいいかなと思って」

 「やっぱり、子供っぽい」


 最上が笑う。時雨は恥ずかしそうに、更に頬を赤く染めた。


 「でも、よく似合ってるよ」

 「……有難う」


 照れ隠しも込めて、時雨は顔を下げながら酒をチビチビと飲む。

 最上は顔を上げ、酒を飲み交わす光景を眺めながら口を開いた。


 「扶桑殿はすごいなぁ」

 「扶桑さん?」

 「うん。きっとこのために、お酒を持ってこさせたんだろうね」


 顔を上げ、時雨もその光景を見渡した。

 この部隊への配属に不満を流していた満潮や、不安そうに身を小さくしていた朝雲と山雲。

 部隊の存在価値を自覚し、皆の期待になろうと努めていた扶桑や山城。

 そして時雨もまた――彼女たちと分かり合えるとは思っていなかった。時雨はこのブルネイに訪れ、自分と似た境遇の雪風と再会を果たした。自分の真の理解者は、雪風だけだと思っていた。

 しかし――彼女たちもまた。


 『時雨』もまた所属していた第27駆逐隊が解隊となり、この部隊に配属された。第27駆逐隊は開戦時、初春型の『有明』『夕暮』及び白露型の『白露』『時雨』で編成。初春型の二隻が戦没後、白露型の『春雨』と『五月雨』を編入していたが、これらも昭和十九年八月までに『時雨』を残して戦没した。


 この寄せ集めの部隊は、似たような境遇を持った者たちが集った部隊なのだ。

 時雨は、この部隊に自分が居る事を、ふさわしいとさえ思うようになった。

 そしてこの面子で一緒に戦えるのなら、悪くない。そんな気さえしていた。


 「……最上さん、帰ったら髪を切るの手伝ってくれない?」

 「お、良いよ。楽しみだね」


 二人は微笑み合い、約束と共に盃を交わした。





 あの日の夜、艦の航海灯で辺りは明るかったけど、今日の夜は余りに暗かった。

 暗闇が前を塞ぐように降り、第一遊撃部隊第三部隊――西村艦隊はスリガオ海峡を目前としていた。

 西村艦隊は栗田艦隊とほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊との意思疎通ができていなかった。向こうで何かあったのだろうかと思っても、確かめる術がなかった。

 午後七時頃に、艦隊には連合艦隊司令部から「全軍突撃命令」なる電信を傍受していた。これは栗田艦隊にも届いているはずである。西村中将は、単独でのレイテ湾突入を決断し、スリガオ海峡突入に向けた陣形の形成を指示した。


 「単独でレイテ湾突入……。西村中将はそう決断されたのね」

 「……扶桑姉さん。今から向かえば、私達日本海軍のお家芸である夜戦を以て敵と戦える。中将はそれを企図して……」

 「わかってるわ。でも……」


 我らが提督の決断に、二人の姉妹は話し合う。

 山城は西村中将の決断に賛成している様子だった。扶桑の方は思う所があるようだが、別の方向から声が被さった。


 「突入以外の道はない」

 「――!」


 新たに参入した声に、扶桑と山城が振り返る。そこには真剣な表情を浮かべた満潮と、その後ろに例の如く不安そうな顔で寄り添う朝雲と山雲。そして時雨、最上もいた。


 「私は西村中将の判断に理解を示すわ」

 「満潮さん……」

 「このまま友軍の到着をのんびり待っていれば夜が明ける。そうなれば、敵の空襲に晒される危険性だってある。それに魚雷艇の襲撃がいつあるかわからない以上、躊躇している暇はないはずだけど?」


 満潮の言っている事は間違っていなかった。扶桑は単独での突入は愚行に近いものとさえ考えていたが、実際、現在の艦隊がそのような状況に置かれている事もまた事実だった。周辺海域には米軍の魚雷艇が哨戒しているだろうし、発見されるのも時間の問題だ。

 最上や時雨、他の艦たちも同意見のようだった。いや、扶桑もわかっているはずだった。満潮の言っている事はありのままの事実である事を。艦隊に、他に選択肢はないのだ。


 「……そうね、信じましょう。サンベルに向かった友軍も、きっと間に合うわ……」


 予定ではサンベルナルジノ海峡の方へと向かった第一、第二部隊の艦隊と同時に突入する手筈なのだ。連合艦隊司令部も突撃命令を出しているし、その命令は向こうにも届いているはず。きっと自分達が突撃したら、友軍も駆け付けるはず。


 ――しかし、この時西村艦隊は知らなかったが、栗田艦隊は一時反転していたために、予定より大幅に遅れていたのだった。


 この時点で、同時に突入して米軍の邀撃戦力を分散するという計画は既に崩れていたのだ。

 僅か七隻の第三部隊を受け持つ西村中将は、艦隊が置かれている状況から悠長に友軍を待っている余裕はないと判断し、突入時刻の繰り上げを行って、本当の単独での突入を司令部に報告した。


 「仕方ない。そう、これは仕方のない事……」


 二十五日午前一時、西村艦隊は「〇一三〇スリガオ海峡南口通過レイテ湾ニ突入、魚雷艇数隻ヲ見タル外敵情不明」と発信し、暗闇が支配するスリガオ海峡へと足を踏み入れた。




 スリガオ海峡に突入するや早速、西村艦隊は敵魚雷艇の洗礼を受けた。数多の魚雷艇と交戦し、これを撃退した西村艦隊は、いよいよレイテ湾へと突入を果たさんとする。

 だが、待ち受けていたのは圧倒的な戦力を有する敵艦隊であった――


 

 昭和十九年十月二十五日

 レイテ湾口


 午前二時五十六分、複数の米駆逐艦を暗闇の中から発見。『時雨』が右舷、ディナガット島方向に艦影を三隻以上発見。


 「右舷前方、敵艦発見!」


 この報告を聞いて、西村艦隊は直ちに一列単縦陣による陣形を形成。『満潮』を先頭とし、『朝雲』『山雲』『時雨』『山城』『扶桑』『最上』の順に並び、前進した。


 「撃ち方始め!」


 レイテ湾の入口に差し掛かった西村艦隊側は、発見した米駆逐艦に対し照射砲撃を行った。

 対して米駆逐艦隊側は、レーダーを駆使して魚雷を連続的に発射した。

 レーダーの恩恵を受けた敵の魚雷が、真っ直ぐに艦隊の方へと突っ込んでくる。

 闇に溶け込んだ海面に、時雨は、うっすらと白い航跡を見た。


 「――!」


 だが、魚雷は『時雨』の艦底を通り過ぎ、何処へと消えてしまった。

 胸の鼓動が早くなるのを感じる時雨は、再び魚雷を放つ敵艦を見据える。

 その時だった。後方を走っていた戦艦『山城』から轟音と共に赤い光が生じた。『山城』の35.6cm主砲が火を噴いたのだ。

 放たれた砲弾は、夜闇の下に浮かぶ敵駆逐艦群の方へ落ちていく。

 目を細めた時雨は、数本の水柱が敵駆逐艦群の周囲に立ち昇った光景を認めた。

 残念ながらこちら側の砲撃は中々命中しなかった。だが、彼女らはめげずに、懸命に闇の中から撃ち続けたのだった。



 扶桑は夜闇の中で敵艦隊に向けて照射される探照灯と、山城や他の艦、そして自分が放つ砲撃の光で何度も明るくなる海峡の光景を目に焼き付けていた。

 先の敵魚雷艇に対しては有効な攻撃を与える事ができたが、夜間の真打ち敵艦隊との一戦は苦難に満ちていた。こちらの攻撃は思うように当たらず、じわじわと敵の圧倒的な戦力を前に追い詰められていくのが肌で感じられた。

 戦闘の火蓋を知り、敵艦の数は徐々に増えていく。こちらの七隻を遥かに凌駕するような数が、扶桑の目の前に広がっていた。


 ――今更ながら、無茶な事をしたと思う。


 扶桑は笑みを浮かべた。それは自軍の愚かさに可笑しくなったのか、恐怖故の笑みか、それは彼女自身にもはっきりとはわからなかった。

 しかし戦意のみは、自覚できた。自分にはまだ戦う気力が満ち溢れている。乗員たちの士気も、決して劣りなどしていない。

 この絶望的な状況下である事は誰にでもわかる戦場で、自分達は臆せず、寧ろ戦意を高揚しつつ、突撃を敢行している。これが自分なのだと、扶桑は我ながら驚いてもいた。


 「……私ったら、らしくない。いいえ、これこそが私なのかしら?」


 これまで欠陥戦艦と言われ、他の戦艦たちと比べて長らく戦場に出る事が叶えられなかった自分が、こうして猪突猛進の様を披露しているのは何たる事か。これ程、自分が生まれて良かったと思う瞬間はない。


 「私は、まだ戦える――!」


 己の価値を見出し、意気揚々と前進する彼女の懐に、悪魔の剣先が伸びた――





 ――度重なる砲撃の轟音。その狭間から、砲撃とは異なる爆発のような音が鳴り響いたが、山城はその音に気付く事はなかった。


 「――!」


 山城はふと、周りが見えなくなっている真っ暗な海を見渡した。この闇の中、どこかで戦っている姉の事が気に懸かった。


 「……姉さん?」


 山城はポツリと姉の事を呼んでいた。だが、その呟きに対する返事は皆無だった。

 この時、戦艦『扶桑』に敵駆逐艦が放った魚雷が一本命中し、『扶桑』は艦隊から落伍。だが、『山城』など西村中将も『扶桑』が艦隊から離れた事に気付く事はなかった。


 午前三時、『扶桑』は敵艦の魚雷を右舷に受け、艦隊から落伍した。

 右舷に穴を開け、海水が艦内に流入していく『扶桑』は傾き始め、『扶桑』艦長のばん匡身まさみ大佐は反対舷への注水を命じた。


 「……げほっ! ごほっ! く……ッ!」


 血を吐きながら、扶桑は血が滲む横腹を抑えながら立ち上がろうとする。

 その両足は震えていたが、まだ完全に屈しはしない。


 「まだ、いけるわ……」


 扶桑はふらふらになりながらも、真っ直ぐに立ち上がった。

 『扶桑』は左舷側に注水を行った事で、『扶桑』は傾斜を徐々に復元し、体勢を立て直しつつあった。しかし、二本目の魚雷が容赦なく彼女に襲い掛かった。

 爆発と共に、『扶桑』の右舷にまた水柱が昇った。


 「――がっ!」


 扶桑はまた血を吐きながら倒れ込んだ。

 二本目の魚雷は、右舷側の第二砲塔付近に命中した。しかしこの魚雷命中により電源が破壊され、艦内は暗闇に包まれた。

 更に弾火薬庫内に海水が流入したため、第二砲塔は使用不能となっていた。


 「ぐ、うう……」


 扶桑は呻きながら、尚も立ち上がろうとする。

 だが、扶桑は自分の半身がひやりと冷たくなるのを感じた。次の瞬間、視界に、自分の本体を海水が洗う光景が入った。

 これを見て、扶桑は愕然とした。


 「……まだ。ま、だ……」


 だが、扶桑の目は光を失わなかった。

 この時点で、『扶桑』の艦首は海中に没し、後甲板が高く浮き上がっていた。しかし第一砲塔が波避けとなり右前方に傾斜した状態のまま、右旋回をしながら尚も前進を続けていた。

 しかし止めと言わんばかりに、その後も敵の魚雷が次々と命中。『扶桑』は計四本の魚雷を受け、遂にその行き脚を止めた。


 「……山城、みんな、ごめんなさい……」


 総員退去が発令された艦上で、扶桑は一人、自身から燃え盛る炎から生じた火の粉が舞う夜空を見上げる。

 構造物に背を預け、扶桑は口元から血を流しながら、目からは一筋の涙を零した。

 そのまま、扶桑はゆっくりと、左に身を横たわるように倒れた――


 ――戦艦『扶桑』は、国の威信をかけて建造された当時の期待とは裏腹に、建造後の不幸が重なり欠陥戦艦とまで言われるようになった哀しき戦艦ではあったが、最後は超弩級戦艦の名に恥じない壮絶なる最期を迎えた。敵の魚雷を受け、右傾していた『扶桑』は左に急転倒して大爆発を起こし、そのまま艦首から海底へと沈んでいった。この際に逆立ちとなり、海上に曝け出したスクリューがまだ回り続けていたと言う。




 戦艦『扶桑』の沈没後も、艦隊は突撃を続行していた。

 そして突撃を止めない無謀な日本艦隊に対し、米艦隊は容赦のない攻撃で迎える。駆逐艦群が二十五本以上の魚雷を次々と発射。それらは突っ込んでくる西村艦隊の先頭にいた駆逐艦たちへと襲い掛かった。


 ドドォン、ドドォン!と。立て続けに鳴り響く爆発音。時雨は自分の前を走っていた僚艦たちの姿を捜したが、既にどこにもいなかった。

 そして更にその後方に続いていた『満潮』も、その音を聞いていた。

 満潮はまるで何かに耳元で囁かれたかのように、悟った。そしてこれまでに労苦を共にしてきた姉妹たちの名を呟いた。


 「山雲、朝雲……」


 満潮は一瞬だけ目を伏せる。前から飛んできた水飛沫が頬に当たった。顔を上げた満潮の瞳には、燃え盛る炎が宿っていた。


 「――うわああああ!!」


 咆哮する満潮。魚雷を発射する。だが、そのお返しにしては早すぎるものが彼女の懐に入り込んだ。先導を駆けていた姉妹たちがいたはずの方角から、海面下を進む数本の矢が飛んできた。



 ――『満潮』『山雲』『朝雲』は朝雲型駆逐艦の同型艦として、開戦から数多の戦場を駆け巡ってきた歴戦の駆逐艦であった。が、それ故に『満潮』は開戦時所属していた第8駆逐隊で、自分以外の僚艦が皆次々と戦没する様を目の当たりにし、同じく他の部隊であぶれていた『山雲』と『朝雲』と共に、第一遊撃部隊第三部隊に配属。またしても穴埋め要員として利用された。しかし彼女らは最後まで懸命に戦い、最期は敵駆逐艦の雷撃を受け沈没。『扶桑』と共に、スリガオ海峡の海底へと沈んだ。





 いつの間にか艦隊の先導を走っていた戦艦『山城』は、艦隊が海峡の中頃まで到達しつつあるのを確認していた。このまま行けば、レイテ湾は目と鼻の先である。

 しかし往く手を阻むのは富士のような巨大な敵艦隊の壁。三隻になってしまった西村艦隊に対し、その数八十隻近く。

 戦艦、巡洋艦、駆逐艦、レイテ湾口に防備を固めていた米大艦隊の出迎えであった。


 「……突撃、突撃、突撃」


 山城は呟き、繰り返す。そして最後に自分に言い聞かせるように言い切った。


 「――突撃あるのみ!」


 『山城』の太く長い砲身が動く。だが、その砲口から砲弾が射出される事は叶わなかった。

 数本の魚雷が『山城』『時雨』などに接近。その内の一本が、『山城』の右舷に命中した。


 「うぐ……ッ!」


 右舷に魚雷の直撃を受け、山城は苦悶に顔を歪める。裂けるように横腹から赤い血が噴出したが、その膝はまだ折れていなかった。更に敵艦隊から降り注いだ砲弾が、『山城』の周囲に炸裂し、その姿を覆い隠すかのように幾つもの水柱が立ち昇る。

 そしてその合間から、またしても魚雷が『山城』の懐に入り込み、その喫水線下に命中した。立て続けに二本目の魚雷を受けた『山城』は遂に速力低下。まるで足を挫いたように鈍くなる。


 「ぐ、あああ……ッッ」


 山城は二本目の魚雷を受けた直後、首筋から背にかけてこの身が裂けるような感覚を覚えた。大量の血がまるで噴水のように噴き出し、遂にその足を挫けさせた。片膝をついた山城は、半身を血に濡らしながら、敵艦隊が構える前方を睨んだ。

 この時、『山城』の艦橋から後部が炎に包まれ、後部弾薬庫にも火の手が迫り、三番砲以下が使えない状態となっていた。

 しかし『山城』はまだ前進しており、その艦上に居た彼女もまた決して諦めていなかった。勿論、西村中将を始めとする将兵たちも同様だった。この時確かに彼女と彼らの心は一つになっていた。それを表す電文が後続にいる各艦に通達された。


 ――ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ――


 それが旗艦からの最後の命令となった。



 敵駆逐艦群からの魚雷による集中攻撃を受け、速力が低下した『山城』は火だるまになりながらも『最上』『時雨』と共に、レイテ湾に向けて北上――突撃を続行した。敵の砲撃や雷撃を浴び続け、その身を滅茶苦茶にされながらも砲撃を続けた『山城』は遂に一矢報い、敵駆逐艦隊を撤退させたが、代わりにやって来た戦艦や巡洋艦による激しい砲撃の嵐だった。

 戦艦、巡洋艦を含んだ敵艦隊は「丁字陣形」で西村艦隊を迎え、レーダー照射による砲撃を行い、『山城』など艦隊に次々と砲弾の雨が降り注いだ。『山城』は艦上に燃え広がっていた炎がいよいよ火薬庫に引火、大爆発を起こした。この時、『山城』の艦橋が崩壊し、西村中将など幕僚の面々が戦死した。


 「……私は、戦艦『山城』……こんな、程度……で……」


 頭部から顔の半分を覆う程に血を流した山城。その唯一開かれた片目には、まだ戦う意志を宿した炎が燃えていた。しかし、その体は見るに堪えないもので、特に頭から右半分にかけた部分が既に機能しているとは言えない状態であった。

 人間で言えば致命的であろう傷を露にした山城は、尚も戦おうとする。原型を留めていない右半身を引きずりながら、山城は前を見据えた。正面に見える敵の砲撃の閃光。それが山城が見た最期の光景となった。



 ――戦艦『山城』は扶桑型戦艦の二番艦として建造。姉と同様、長らく浮き砲台に近い扱いを受けていたが、第一遊撃部隊第三部隊編成に伴い旗艦に抜擢。僅か七隻の艦を率いて、スリガオ海峡に突入した。敵の攻撃を全身に浴び尚も突撃を敢行した。敵の砲撃を浴び、艦橋が崩れ落ちた『山城』はそれでも主砲から反撃の砲撃を行っていたが遂に力尽き、右舷に傾斜後、艦尾から転覆して沈没した。



 


 時雨は前と後ろ、周囲から何度もその音を聞いていた。ついさっきも、後ろからドォンという爆発音が響き伝わってきた。時雨は後ろを振り返ろうとはしなかった。


 「……皆」


 『山城』の左前方を進撃していた『時雨』は、闇の中から『扶桑』や『山城』も見つける事ができなくなっていた。二隻とも沈んだなど、この時『時雨』は察する事はあっても知る由はなかった。『最上』も多数の命中弾を受けて速力が低下し、艦長以下幹部が戦死していた。最早、艦隊とも言えない第三部隊に戦う力は残されていなかった。

 『時雨』は魚雷四本を発射して反転離脱を試みつつ、『扶桑』や『山城』の司令部(西村中将)に対し今後の指示を求めたが、返答はなかった。


 「どうして、返事が返ってこないの……。――うっ!」


 『山城』からの返答がない事に強烈な不安を覚える時雨に、そのような暇も与えない砲弾の嵐が彼女に襲い掛かった。

 敵の集中砲火に曝された『時雨』は、まずはこの海域からの離脱を図った。

 左右舵南五度くらいの角度での避退行動が極めて有効であると言う渾作戦時に得た経験から、『時雨』は独自の回避行動で敵艦からの攻撃を躱した。砲弾一発が艦後部に命中し燃料タンクを貫通するも不発という幸運を発揮するが、大口径砲の至近弾により艦体が跳び上がっては海面に叩きつけられるという状態となって、艦橋の諸器械は振動で破損。船体各所には亀裂や破孔が生じていた。


 「避退! 避退だ!」


 遂に『時雨』は反転、避退行動を開始した。


 「最上さん! 避退です……ッ!」

 「時雨……」


 『最上』の傍を通過した時雨は彼女に避退を呼びかけた。だが、目に飛び込んできた『最上』の状況に、時雨は唇を噛んだ。『最上』の艦上は炎上しており、見るも無残な姿を曝け出していた。

 敵の追撃を躱しながら、生き残った二隻は遂に海峡を脱出。避退に成功した。

 午前四時三十分、『時雨』は北上する重巡『那智』を始めとする第二遊撃部隊――志摩艦隊と遭遇。その後、『時雨』は同艦隊に合流するよう命じられたが、避退中に舵が故障していたためその命令に応えられなかった。

 志摩艦隊は先に壊滅した西村艦隊に倣い、突撃を敢行しようとするも断念。『最上』は再び敵艦隊に砲撃された上に米軍機の空襲を受けて航行不能となり、随伴していた第二遊撃部隊の『曙』によって雷撃処分される事となった。


 「……私もここまでか。時雨、ごめんね。約束、守れそうにないや……」


 ――重巡『最上』は航空巡洋艦に改装後、数々の戦場を経て、捷号作戦発令の際は第一遊撃部隊第三部隊に編入。寄せ集めの他艦と共にスリガオ海峡に突入、操舵不能となりながらも避退し、戦場離脱後は敵の空襲に遭い航行不能。志摩艦隊から派遣された駆逐艦『曙』の雷撃処分を受け、沈没した。




 ――こうして、第一遊撃部隊第三部隊。通称、西村艦隊は壊滅した。

 生き残ったのは、『時雨』一隻だけだった。


 「……また、私だけ」


 戦場から離脱し、レイテ湾から遠ざかる艦上で、時雨は明るくなった天を仰いだ。

 長い前髪に隠された左目部分から、一筋の涙が零れていた。


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