第四十七話 レイテ沖の激闘
第二波の空襲後、『武蔵』の艦上は惨憺たるものだった。命中した爆弾の威力によって瓦礫と化した構造物の一部や、兵達の遺体。その一部。足が滑りそうな程、血に塗れた甲板に、雪風は降り立った。
「武蔵さん……」
雪風は、構造物に身を寄せる武蔵の姿を発見した。その傍には、大和の後ろ姿があった。
会話をしている二人の邪魔をしないように、雪風は遠くからその光景を見守る。
その時、雪風は大和に微笑みかける武蔵の笑顔を見た。
大和の肩が、一瞬だけ動いたように見えた。
やがて、大和は武蔵の前から立ち去っていった。雪風は大和がいなくなった後、武蔵の傍に近付いた。
「武蔵さん」
「雪風さん……。来てくれたんだね……」
「……ッ」
微笑みかけてくる武蔵の姿は、目を背けたくなるような惨状だった。
その体は血だらけで、所々服が破けて露出した肌は赤黒い。あんなに綺麗だった長髪が、乱れて血が付着している。そんな満身創痍の姿を見下ろしながら、雪風は唇を噛み締めた。
「武蔵さん、ごめんなさい。私……」
「どうして、雪風さんが謝るの……?」
「だって、私、武蔵さんを守れなくて……。武蔵さんに襲い掛かる敵機を撃ち落とせなくて……」
悔しさに声を震わせる雪風に、武蔵は優しく笑った。
「仕方ないでしょ? 雪風は私から離れた所にいるんだから……、弾が届かないのもしょうがないよ」
「でも、でも……」
「雪風さんが自分を責める事なんてないよ。これは、全て、私のせいだもの」
「そんな事……!」
それだけは、雪風は否定したかった。武蔵が自身がこうなったのは、自分のせいだと言う。しかしそれだけは絶対に違う。
そもそも直掩機の護衛も無い状態で、敵の空襲を受けるのは当たり前の事なのだ。水上部隊だけで敵機を、しかも元々は艦隊決戦に特化した戦艦が、空から群がる敵機を相手に戦うだなんて――無理な話だったのだ。
「雪風さん。私は絶対に沈まないよ」
「武蔵さん……」
「だから、ねっ」
武蔵は笑う。どうしてこんな時まで、そんな風に笑えるのか。
本当にこの人はすごい。そして自分は何て無力なのだろう。どうして逆に力を貰っているのだろう。
絶対に死なせてはいけない。死んではいけない人だ。雪風は、胸の内にそんな思いを一杯に滾らせていた。
――そしてこれが、雪風が交わした武蔵との最後の会話となった。
午後一時三十三分、遂に第三波がやって来た。
六十機余りの敵機が、例の如く第一部隊を襲う――と思ったが、今回ばかりは第二部隊も狙われた。三十機程の敵機が、第二部隊に襲い掛かったのだ。
「来い! そう、こっちに来て!」
雪風は敵機に向かって、叫ぶ。雪風の闘志を体現するように、その対空兵装が熾烈な砲火を撃ち上げる。
第二部隊の上空にも分厚い弾幕が張り巡らされた。余りに対空砲火が激しいので、敵機も高度から爆弾を投下していく。
爆撃機、雷撃機、戦闘機が入れ混じった敵機群が容赦ない攻撃の雨を艦隊に降らせる。その中を突破しようと、栗田艦隊は依然サンベルナルジノ海峡に向かって東進、シブヤン海のど真ん中を猛進した。
「雪風! 私から離れるな!」
「ぐぅ……ッ!」
至近弾を浴びる『雪風』に、『金剛』から彼女の声が響き渡る。激しい対空戦闘の最中、雪風は遠目から艦隊から落伍しかける『武蔵』の姿を目撃したが、どうする事もできなかった。『雪風』を含め、どの艦も頭上に群がる大量の虫のような敵機を払うのが精一杯であった。
右に、左に回避運動を続ける各艦。『雪風』も激しい戦闘の只中にあっても『金剛』から離れず、対空砲火を撃ち続けていた。
「おのれ。まだ来るか!」
金髪を煌めかせながら、日本刀を握り締めた金剛が自分達に殺到する敵機を睨む。
第二部隊の『金剛』『榛名』の対空兵装では、群がる敵機を全て払うのは難しかった。
そして、弾幕の間を潜って、敵機が急降下し突入してきた。
「しま……ッ!」
不意を突かれた金剛は、思わず後ずさった。
しかし敵機から爆弾を落とされる事はなく、金剛は目の前でオレンジ色の火線が通り過ぎるのを目撃した。
敵機は自分に襲い掛かった対空射撃の波を回避し、急上昇して逃げていく。
金剛は傍にいた『雪風』の姿を捉えた。
「大丈夫ですか、金剛殿!」
「雪風。助かった……!」
『雪風』はこの時、『金剛』、そして『榛名』に群がっていた敵機を追い払った。『雪風』の強化された対空兵装は、第二部隊を敵機の空襲から護る事に貢献していた。
第三波が去った後、栗田艦隊は針路を更に七十度に変針。午後二時十二分、零度に変針。
そして二時二十六分、第四波が来襲。その最初の一撃を貰ったのは『長門』であった。
『雪風』と同じ幸運を持っていた『長門』は三発の至近弾だけで済んだが、遂に『大和』にも爆弾が一発、命中した。一時は浸水して微かに傾いたが、注排水によってほぼ復原し、航行に支障はなかった。
続いて、『長門』に八機の敵機が襲い掛かったが、被害はなかった。
この第四波の空襲では、初めて『武蔵』に対する攻撃は無く、『雪風』の艦橋から見詰めていた都倉と、甲板にいた雪風をほっとさせた。
しかし今回の空襲で、『武蔵』に続いて『大和』もやられた。耳に入る被害報告に、『雪風』の艦内は暗い雰囲気に包まれた。
栗田艦隊は尚も東進を続け、サンベルナルジノ海峡を目指す。
それから僅か十五分後、敵の第五波空襲が襲ってきた。
艦隊は針路を反転し、二百九十度とした。だが、飛来する敵機の数は後からどんどん増えていき、遂に百機以上となった。この日、最大の機数である。二時五十九分、『榛名』が迫る敵機に対し、対空射撃を開始した。
「貴様らなど、撃ち落としてやる! 掛かってこい!」
艦魂の榛名が、勇ましい姿で立ち、敵機に向かって刀の刃先を向けた。
『榛名』の高角砲や機銃が激しく火を噴き出す。
『雪風』ら直衛の駆逐艦たちも、負けじと砲門を開いた。
敵機編隊は三隊に分かれ、第一、第二部隊、そして落伍していた『武蔵』に襲い掛かった。
今度は第一部隊の『長門』にも直撃弾が命中した。二本の火柱と、至近距離に三本の水柱が立ち昇る。この時の影響で『長門』は速力を落とした。更に『長門』の左前方にいた駆逐艦『藤波』にも二発が命中した。
しかし敵機の大半は、艦隊の中で一番傷だらけだった『武蔵』に殺到した。
速力が低下した『武蔵』は、回避運動もままらなかった。十一本の魚雷が左舷に集中して命中し、十発の爆弾が『武蔵』を直撃した。膨大な数の被弾に、『武蔵』は満身創痍の状態にあった。
艦隊から遂に落伍した『武蔵』は、左舷への傾斜を深め、海水が艦首の最上甲板にまで及んでいた。上甲板には多くの遺体が転がり、惨憺たる有様を晒していた。
『武蔵』の傍で護衛する立場にあった『利根』と『清霜』も敵機の攻撃を受け、被害が生じていた。
一方、第二部隊からも被害が報告されていた。『金剛』の真横にいた『浜風』が至近弾一発を受け、速力が二十八ノットまで低下。第一、第二部隊両方に被害が出ていた。
航空機の掩護なき艦隊の惨状に、腕から血を流した大和が眉を寄せて考え込んでいた。『大和』も敵機の攻撃による被害が生じている。やはり、味方の航空部隊がいなければ……と、大和は身に染みる思いで考えていた。
このまま東進を続ければ、ますます被害は増大するだろう。日没までは時間もあり、敵は近くにいるのは確実だ。まだ二撃か三撃ぐらいは来るだろうと予想した。
一体、味方の航空部隊は何をしている?
第一遊撃部隊の上空に直掩を回せないのはわかるとしても、その戦力を敵機動部隊の攻撃に向けるはずではなかったのか。
囮艦隊の役目を担っている小沢機動部隊の状況も手懸りだ。
このまま進めば、敵機の攻撃を更に受ける事は確実。しかし――
大和自身は、進むべきだと考えていた。
艦隊から遠ざかる妹の姿を一瞥する。これ以上、敵の攻撃を浴びれば、如何に不沈戦艦と謳われた大和型の一隻と言っても、その伝説は本当の伝説になり果ててしまう。妹は艦隊から脱落し、自分達はこのまま進撃を続けるべきだという結論に達していた。
しかし大和の思惑とは反対に、栗田長官はある決断を下した。
午後三時三十分、敵の空襲を避けるため、栗田艦隊は左に一斉回頭して反転。
レイテ湾に背を向ける形となった。
これに大和は驚いたが、自分の姿が見えない司令部の面々に抗議などできるはずもなく。
大和は悔しい思いで、西へと目線を向けた。
この時、『雪風』も反転した事で、落伍した『武蔵』の傍を通りかかった。間近に見た『武蔵』の姿は酷いもので、艦首のみが第一砲塔の近くまで海水に洗われ、甲板上は爆弾が炸裂した跡で、穴だらけだった。
そしてその甲板の至る所には兵達の遺体や一部の肉片などが転がり、正に死屍累々といった有様である。
「ひどくやられたものだな……」
艦橋から『武蔵』の姿を見詰めていた都倉は、ぽつりと呟いた。
『大和』と並び、あれだけの威容を放っていた『武蔵』が、その一部を海面に浸からせ、今にも沈みそうな様子である。
都倉は死にかけた『武蔵』の姿を見た時、ブルネイでの情景を思い出していた。
入泊してすぐに、『武蔵』だけがその外舷を鼠色の塗料で塗り直していた。それを見て、都倉は雪風と一緒に首を捻らせた。
「何故、これから前線に行くというのに塗装をしているのでしょう?」
「さぁな……」
どうせやられたら塗装なんて無駄になるのだから、帰ってからやれば良いのに……と、都倉は素直な感想を頭に思い浮かべていた。
「もしかして、死に化粧ってやつかもなぁ……」
「中尉!」
何気なく零れた都倉の呟きに、雪風が怒った。
だが、今になって思えば、猪口艦長(『武蔵』の艦長)が死を決しての覚悟を示したものだったのかもしれない。
ともかく、あれだけひどく艦橋もやられているのなら、猪口艦長たちも無事では――
「武蔵さん……」
最早戦う力も残っていない『武蔵』の傍を通り過ぎながら、雪風は悲しげな瞳で、遠ざかる『武蔵』の姿を見詰めていた。
この後、栗田司令部は一時反転の報告を連合艦隊司令部に打電した。だが、連合艦隊司令部はその状況判断の理解に苦しんだ。
元よりこの捷号作戦は全滅も覚悟の上の作戦である。二隻、三隻の艦がやられたからと言って退くようでは、連合艦隊の威信に関わる。栗田司令部に何としてでも前進の意を決めてもらおうと、連合艦隊司令部は激励電を打つ事にした。
一方、反転し西に向かっていた栗田艦隊は、予想外の不気味な静寂に包まれ、当惑していた。
あれだけ激しかった敵の空襲が、ぱったりと途絶えたのである。
確かに敵の空襲を避けるために反転したが、ここまで敵が来ないというのは想定外だった。
日もまだ明るい。何故、敵は来ない……?
そう疑念を感じながらも、栗田長官は午後五時十四分、東に舞い戻る事を決めた。
午後五時十五分、栗田艦隊は再び反転してレイテ湾に向かった。その一時間後、連合艦隊司令部から激励電が届いた。
「天祐ヲ確信シ全軍突撃セヨ」
これを聞いた時、大和は苦笑した。
航空機もいないのに、どこで天祐を確信すれば良いのだ?
艦隊はこの時、ボンドク半島の南十五マイルを東進しつつあり、夕闇の中に赤々と燃える『武蔵』の姿がよく見えていた。
「(――日吉の陸で、机上の地図に線を引いているだけでは、傷だらけのまま進む艦隊の惨状などわかるまい……)」
燃えながら海の上を漂っている妹の姿を横目に、大和は冷たい笑みを零した。
敵機の空襲が何故来なくなったのか。それは、栗田艦隊の反転……そして、小沢機動部隊の働きがあっての事であった。
米機動部隊を率いていたハルゼー提督は、シブヤン海を東進する栗田艦隊の猛撃を浴びせながら、北方にあるはずの日本の空母部隊(小沢艦隊)の動向を気にしていた。
そして栗田艦隊の反転を知ったハルゼーは、この反転を日本主力部隊の撤退と考え、小沢艦隊を全力で叩く方針を決めた。
この判断を下に、彼は隷下の艦隊の全空母と戦艦などに北上を命じたのである。
これによって栗田艦隊への空襲も止み、サンベルナルジノ海峡の出口はがら空きとなっていた。
小沢機動部隊が遂に囮の役目を果たしていた時、それも知らず、栗田艦隊は不思議に思いながらブルアス島とマルバテ島の間にあるマスバテ水道に入った。
この間、『武蔵』が遂に沈没――猪口艦長以下、千余名の乗組員が艦と運命を共にした。
『武蔵』を失った栗田艦隊は、尚もサンベルナルジノ海峡に近付きつつあった。
一方、この夜――同じフィリピンの海で、別の死闘が繰り広げられていたのを、栗田艦隊は知らなかった。
過去に投稿した、戦艦『武蔵』 ~姉妹の運命~ では、『武蔵』を主観としたレイテ沖海戦での模様をご覧頂けます。




