第四十四話 瀬戸内の休日
あ号作戦終了後、『雪風』は壊れた推進器を修理するために単艦で内地に向けて出航した。
泊地を出て三日目、台湾沖に差し掛かった頃。『雪風』は不審なものを発見した。
「右前方潜望鏡!」
見張り兵の報告に、緊張が走る。
この前日にも『雪風』は対潜警戒を維持したまま航海し、爆雷を投下していた。
台湾の沖合にも、確かに敵潜水艦の出現は想定できた。
故に今回も敵潜水艦の襲撃に備えたのだが、よく見ると――それは、潜望鏡ではない。
「……あれは潜水艦じゃないな。艦橋でもなさそうだ」
「筏じゃないか?」
そう、『雪風』の前で浮かんでいたのは筏であった。その意味する所に気付いた寺内が、合戦用具収めと共に、救助艇用意を下令した。
違う緊張が走る。都倉は双眼鏡で、ぷかぷかと浮いている筏を見た。
それは和船に材木などを継ぎ足して筏状にしたものであり、ズックの帆を張って漂っていた。その上には数十人の人間が乗っており、こちらが日本の駆逐艦と気付くと、大きく手を振っていた。
「艦長。日本人の漂流者です」
都倉が報告すると、寺内はすぐさま命じた。
「同胞だ。救助せよ」
全速力は出せない『雪風』だったが、まるで戦闘速度を叩きだしているかのような俊敏さで漂流者たちのもとへ向かった。短艇が降ろされ、救助が始まった。長い間、漂流していたようで、誰もが骨と皮だけになっていた。
漂流していたのは輸送船『樽島丸』に乗っていた船員と軍属、陸軍軍人たちであった。十日間、飲み食いもなく漂流していたようで、全員が飢渇で衰弱していた。
とりあえず盃一杯の水、次に重湯を飲ませる。時間を置いてお粥を食べさせる。こうして順番に、ゆっくりと腹慣らしをして体力を回復させてやるのだ。この要領はガタルカナル島での撤退作戦の際に得たもので、この時も大いに役立っていた。
しかし中には助かった事が嬉しすぎて、錯乱した者もいた。重湯を配っていた福森が、ある軍属の男に迫られ、困り果てていた。
「航海長。この男が般若湯をくれとせがむのですが、どうしたら良いでしょう」
「般若湯だと?」
都倉はその般若湯が何なのかを知っていた。
自分は元僧侶だと言う古参兵から聞いた事があった。般若湯とは、僧侶の隠語で酒の事を言う。しかし水を入れる事すらやっとの体に、酒を飲ませるなど、死に等しい。都倉は福森に「辛いだろうが、耳を貸すな」と忠告した。まだ人の末路も知らぬ少年には、酷な現実であった。
「………………」
その様子を、雪風が傍で見詰めていた。
福森は雪風の事が見えていないが、その顔は辛い表情を隠していなかった。
故に雪風の瞳には、どうしようもできない現実に直面した少年の姿が、はっきりと目の前に映っていた。
それを知りながらも、都倉は何も言わず、他の救助者の整理、管理の業務へと戻っていく。
骨と皮になった手を震えながら差し伸ばし、「般若湯をくれ」と、しつこく迫る男から、福森は耳を塞ぐようにして逃げ出した。
「……頑張って」
雪風は逃げるように立ち去るその背中に、そっと囁きかけるのだった。
台湾沖で漂流者を救助した『雪風』は、七月三日に呉に入港した。
呉に到着した『雪風』は、救助した彼らを陸に上げると、因島のドッグへと向かった。
ドッグへの回航の途中、都倉は甲板で海をぼーっと眺める福森の姿を見つけた。
「どうした?」
「……あっ!」
一寸遅れ、福森が慌てて敬礼しようとするのを、都倉が手で制する。
困惑を混ぜた顔で、福森は都倉の目を見詰めた。
「漂流者に、思い残しか?」
「……はい」
「話してみろ」
福森は素直に頷いた。こういう素直さは、子供の良い所だ。
「呉に入る直前、漂流者の方々を甲板に担ぎ上げた時の事です。自分はある一人の軍属の方を担ぎ上げ、日本の陸を見せてあげました。ですが……その軍属の方は陸を見た途端、息を引き取ってしまったのです」
その時を思い出しながら話す福森の表情は、辛くてたまらないと言った顔だった。救助の時は、「日本の兵隊さん、ありがとう」と泣いて喜んでいた彼らの中にも、激しく衰弱し、日本に辿り着く前に死んだ者が何人かいた。
そして本土の土を目の前にした瞬間、福森が担ぎ上げた軍属の男のように、息を引き取った者もいた。余りに気の毒過ぎて、福森が泣きたい衝動に駆られた程だった。
福森の傍で亡くなったその軍属の男は、父に近い歳をした初老の男性だった。戦争が無ければ、平凡であっても穏やかな人生を送れたであろう。もしかしたら自分のような子供もいたのかもしれない。そんな顔をしていた。
「あの時も、般若湯をくれと迫った方にも本当はどうしてやれば良かったのかと思う時があります。自分は……あの方々に、何かもっと、してやれなかったのかと」
「……福森一水。貴様の気持ちはよくわかる」
都倉の発言に、福森は驚いたように目を見開いた。
「だが、それが運命なのだと思う事だ。あれが彼らの運命であり、そして俺達にもこの先の運命がある。彼らのためにも、俺達は最後まで戦わなければいけない」
「……運命」
「だが、この艦の運命は、俺達の運命はそう簡単に決するものではないだろう。何故なら、この『雪風』は絶対に沈まないのだからな」
断言できた。これまでの武勲。その活躍ぶりを見ても、『雪風』はこの先も沈まないと、都倉は確信を持ってそう言えた。
不思議そうな顔を浮かべていた福森だったが、やがて、都倉の意志が本物であると察したのか、その表情は晴れやかになった。
「だから、心配せず。貴様も精一杯生きろ、福森一水」
「……は。了解しました、航海長」
会話の後、福森は吹っ切れたような表情で艦内へと戻っていった。
一人残された都倉の傍に、雪風が舞い降りる。
「中尉って、面倒見の良い方なのですね」
「俺が元からこうなのはわかっているだろう」
「ええ。私が一番よく、わかっていますから」
二人は微かに笑みを浮かべた顔を見合わせると、それ以上の言葉は交わさなかった。
因島ドッグに入った『雪風』は、推進器の修理を始める事になるが、推進器に限らずその体は長期間の戦闘によって酷使され続けていた。それを熟知していた司令部からは、良い機会だと言わんばかりに、『雪風』を徹底的に整備するよう命令が言い渡されていた。
乗員たちには久方ぶりの休暇が与えられた。しかも整備が長いために、一ヶ月に及ぶ長期休暇となった。乗員たちは交代で、代わる代わる休暇を楽しんだ。
上陸する直前、書類を士官室に持っていく途中、都倉は少年を囲う水兵と下士官たちの光景を認めた。都倉が近付くと、兵達が揃って敬礼で迎える。
「今日はお前達が上陸か。どこへ行くんだ?」
「は。ちょっと呉の歓楽街まで、足を運ぼうかと考えています」
因島は小さな島で、呉のように歓楽街などはない。
どうやら本土に渡り、汽車で遥々呉まで遊びに行くようだ。
「こいつも今後は海軍軍人として戦うのですから、その前に一人前の男にしてやろうとも思っちょります」
都倉より年上の彫りの深い顔をした下士官兵が福森の背中を叩く。福森の頬は赤く染まっていた。
彼らが最終的にどこに行こうとしているのか察した都倉は、平然と訊ねた。
「そうか。だが、土産は持って帰ってくるなよ?」
「抜かりはありません」
そう言って、その下士官兵は胸ポケットから「鉄兜」と書かれた箱を取り出した。
都倉の視線を受け、福森は童顔を赤くし、俯いてしまった。
いつ死ぬかわからない身だ。彼らの好きにさせるのも良いだろう。
都倉は彼らの出立を見送った。
一方、彼らを統率する寺内艦長も休暇を利用し、島に家族を呼んでいた。
寺内は二男一女の父であり、家族は神奈川県の逗子に住んでいた。妻子を逗子からわざわざ呼び寄せた寺内は、半年ぶりの面会を果たした。
「久恵、正義、信義。よう来た」
「お久しぶり、お父ちゃま」
長女の久恵が寺内に抱き着く。久恵はこの春、小学校に上がったばかりで父の顔をよく覚えていた。
普段は艦を巧みに操る豪傑艦長も、子供にはとても穏やかな表情を浮かべている。
久恵は寺内の膝の上に座り込むと、自慢げに国民学校のノートを見せた。「こんなに字が書けるのよ」と胸を張る久恵に、寺内はうんうんと頷きながら、ノートに書かれた我が娘の字を見て嬉しそうに褒める。
「どれどれ。こりゃあ、上手くなったもんだなぁ。さすがはわしの娘じゃ」
「ふふ」
褒める寺内の言葉に、久恵は嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、これからはお父さんに手紙を書いてくれなくちゃな」
「任せといてよ、お父ちゃま。 素敵な手紙を書いてあげる」
「それは楽しみだ」
楽しそうに会話をする寺内と久恵の傍に、長男の正義がゆっくりと近付いた。五歳になる正義は、微かに父の顔を覚えていて、はにかみながら父の膝に寄り添った。
だが、次男の信義は去年の夏に生まれたばかりで、父の顔を覚えていなかった。
「ほら、お父ちゃまよ」
抱きかかえた次男に、妻の恭子が語り掛ける。
自分の腕の中から、信義を寺内の手に渡すと、その迫力のある髭が恐ろしいのか、信義は顔を歪めさせて泣き出した。
「こら。親父を怖がる奴があるか」
叱る寺内だったが、泣き出す信義を高い高いしてやる。
すると、ピタッと泣き止んだ信義は、今度はジィッと寺内の顔を見詰める。そして寺内の笑顔を前にすると、似たような笑みで、にっこりと笑った。
「血は争えないわねぇ……」
夫人の呟きが、ぽつりと紡がれた。
艦では豪傑であるが、家族を前にした寺内は子煩悩であった。数日間、寺内は束の間の休日を家族と共に過ごし、それが寺内にとっての忘れられない瀬戸内海の思い出となった。




