第四十二話 上に立つ者
大規模作戦を目前に控えた時期に、『雪風』に新たな乗組みがやって来た。
その新顔は、まだまだ幼さを残す、少年であった。
彼は海軍特別年少兵である。従来は十五歳にならないと海軍に志願できなかったのだが、昭和十九年の時点で応募年齢が十四歳にまで引き下げられていたのだった。
海兵団での訓練教育を経て、正式に現場の艦へと配属になった。未来ある若者としても最先端である。
「福森一等水兵です。よろしくお願いします!」
『雪風』に配属された特別年少兵は、福森と言う一等水兵だった。彼は25mm機銃の機銃座に弾倉を詰める係として配される。とても重要な役職だ。
緊張感を隠し切れていない福森の様子に、都倉は複雑な思いに駆られた。
若者が御国の為にその身を投げ入れる、その意気込みは買うが、福森は余りに子供であった。この子だけは死なせたくない、と。都倉はそんな思考を過らせていた。
「来て早々に忙しい事ではあるが、もうすぐ大規模な作戦を控えておる。気合入れて踏ん張れよ」
寺内艦長直々に精神を注入されて、福森は興奮気味に応えた。
「はい! 精一杯、頑張ります!」
「うんうん。中々良い顔じゃ」
褒められたのが嬉しいのか、福森は頬を火照らせた。
こういう素直な反応は、正に年相応であった。
先程の思考もどこへやら、都倉は微笑ましくその光景を見守っていた。
そしてその隣で、一人の少女が慈愛を孕んだ瞳で、照れる少年を見詰めていた。
――都倉が複雑な思いを過らせたように、彼らの背景にある戦争の模様は、決して芳しくはなかった。
一月末から二月にかけて、米機動部隊はマーシャル諸島に点在する日本軍の各飛行場基地を攻撃した。米軍が各島々に上陸し、それらの島にいた日本軍守備隊は玉砕した。
日本海軍の太平洋最大の基地であったトラック島は、米軍の波状的な空襲を受け、壊滅状態に陥った。飛行機、艦船、基地施設を徹底的に叩かれた事で、トラック泊地は基地機能を消滅させた。
戦争の主導権を完全に掌握した米軍は、太平洋各地に散在する島々を「飛び石作戦」で潰し始めた。これは要塞化され、侵攻が困難な日本軍の拠点を避けながら、比較的日本軍の戦力が薄く、かつ日本本土に迫るには重要な位置にある島を集中的に攻め落としてゆくという戦略である。
この米軍の攻勢はマリアナ諸島にまで及び、遂に日本本土に至る経過に重要なサイパン島に上陸しようと迫っていた。
米軍がサイパン上陸を控えた頃、日本側では総力を結集して、この米軍の侵攻を迎え撃とうという動きが出ていた。
新鋭空母『大鳳』を中心とする機動部隊などをタウイタウイ泊地に集結させ、中部太平洋に来襲する米海軍と雌雄を決するのである。
三月末に殉職した古賀長官に代わり、新たに連合艦隊司令長官に就任した豊田副武大将が、サイパン島の現地から敵上陸間近と聞き「あ号作戦」の発動命令を下した。
都倉が航海長になって初めての大規模な作戦であった。
しかし『雪風』はこの作戦が発動される前に事故を起こし、全速力が出せない状態になったために後方の第二補給部隊に回されていた。
泊地の対潜哨戒任務の帰り道に、船体の一部を浅瀬に乗り上げさせてしまったのだ。つまり、座礁だ。この事故で『雪風』は泊地にて応急修理を受けたが、試運転をした結果、最大発揮速力が二十八ノットまで低下していた。
この事故に対して、都倉は航海長として自責の念に囚われていた。舵を握っていたのは自分である。自分が犯した責任は大きいと都倉は感じていた。
雪風や他の乗員たちは都倉に気を遣い、事故の事は口にしなかったが、それがかえって都倉を更に苦しませた。申し訳ない、という気持ちが都倉の内で膨らむ一方だった。
実際、都倉を責める者など誰一人いなかった。泊地に来て以来、『雪風』は哨戒任務に明け暮れる毎日で実に多忙の日々をおくっていたからだ。
しかし寺内艦長は、頭を下げる都倉に対し、叱りもせずに言った。
「艦橋で指揮を執っていたのはわしなのだから、責任はわしにある。貴様がクヨクヨする事もあんめえ」
栃木弁で、そう励ましたのだった。
雪風にも謝罪した都倉に対して、雪風までこんな事を言った。
「中尉が責任を感じる必要はありませんよ。この通り、私はピンピンしてますし」
「だが……」
都倉が視線を向けた先にある雪風の右足には包帯が巻かれていた。岩礁に接触した事で、推進器の一部が折れ曲がっていたのだ。泊地で応急修理を受けたものの、全力で走る事はできない状態にあった。
「きっと艦長も、中尉の精神がたるんでいて起こした事故ではないとわかっていたからこそ、そう言ってくれたんだと思いますよ」
「……だとしても、君が万全の状態でいられなくなったのは俺の所為だ」
「中尉……」
「本当にすまなかった。俺に出来る事があれば、何でもする」
「……ん?」
雪風がピクリと反応する。
「今、何でもするって言いました?」
「ああ。その通りだ」
「……ほうほう」
何かを思い耽るような仕草をしてから、雪風は口元を緩ませた。何か、良いアイデアを思い付いたかのような顔だった。
「――それでは、中尉。私と付き合ってください」
都倉は、雪風の真意が一瞬理解できなかった。
その夜、都倉は雪風と一緒に上甲板を歩いていた。空を見上げると、ぽつぽつと星が瞬いていた。
実は都倉はこの後、寺内と共に17駆と10戦隊それぞれの司令官に、艦を損傷させた事の報告と謝罪に出掛ける予定だった。それまでの僅かな時間を使い、都倉は雪風の要望を実現させていた。
「南の夜空はいつ見ても綺麗ですね、中尉」
「そうだな……」
都倉の気の抜けた返事に、雪風は頬を膨らませる。
「もうっ。まだ落ち込んでいるのですか?」
「………………」
雪風はクスッと笑う。だが、嘲笑うつもりは毛頭なく、むしろ慈愛すらあった。
「中尉って意外と、可愛い方なのですね」
雪風の発言に都倉は驚きを隠せなかった。
何故彼女がそんな事を言い出したのか、都倉には理解できなかった。
そして発言した当人は、微かに頬を朱色に染めている。
「……中尉、この指輪」
その雪のように白く、少し力を入れて握り締めれば折れてしまいそうな繊細さすら感じる左手の親指には、真珠の指輪がキラリと輝いていた。夜闇に周囲を囲まれても、航海灯に照らされた指輪には光が反射し、その存在を主張していた。
「私、中尉からこの指輪を頂いた時本当に嬉しかったんです。そしてこの指輪に、何度も励まされました」
目を細め、愛おしそうに指輪を見詰める雪風の横顔は、真珠の指輪以上に美しいものがあった。
「指輪だけじゃなくて、中尉は私をいつも励ましてくれました。私が不貞腐れてる時も、中尉は優しく私を諭してくれた」
「………………」
「だから、中尉が落ち込んでしまった時。今度は私の番なんです」
雪風は、指輪を付けた手を掲げて見せる。
「これ、どういう意味かわかりますか?」
「……意味?」
「はい。指輪をどの指にはめるかによって、意味があるんです」
「では、君が今付けてる、それはどんな意味があるんだ?」
「これは、私の意志を表しています」
「意志……」
指輪をはめた親指を、そっと他の指で重ねる。
雪風は赤子を抱くかのように、指輪をはめた手元をそっと胸元に引き寄せた。
「左手の親指に指輪をはめると、願いが何でも叶うみたいですよ。私には、叶えたい願いがあるんです」
「……聞いても良いか? それは、どんな願いだ?」
「……秘密です」
少し恥ずかしそうに、しかし優しげに、雪風は微笑んだ。
「でも、私がこの意志を貫いて叶えたい願いは、これまでと同じです。ですが、只一つ言えるのは、その願いに……中尉が、含まれています」
その言い回しから、都倉はある程度の事を察したつもりでいた。
それは確かに、彼女がこれまで貫いてきた事に一致するだろう。
自分の予想が合っていれば。
しかし彼女の真意は、その意志は、彼女にしかわからない。
故に、都倉はその意志の、肝心の部分まで辿り着いたわけではなかった。
「だからこそ、私はこの願いを中尉と一緒に叶えたい。中尉がいなくちゃ、駄目なんです」
「……雪風」
「……う」
次の瞬間、顔を真っ赤にした雪風は――
「うんにょぉぉぉぉぉぉー!!」
叫んだ。夜空に、湾内に響き渡るかのような大声で。
久しぶりに聞いたな、と都倉は胸のしこりが取れたような感覚を覚えた。
「……有難う、雪風」
余りに恥ずかしいのか、背を向けて耳まで真っ赤にした雪風の姿を微笑ましく眺めていた都倉に、新人の福森一等水兵が伝令にやって来た。
「中尉、艇の準備ができました」
「わかった。すぐに行く」
都倉はもう一度、その背中に礼を述べると、水兵と共に用意された内火艇の方へと向かった。
都倉と寺内は、それぞれの艦に内火艇で向かった。都倉は17駆の谷井司令が乗る『谷風』へ、寺内が第10戦隊司令官の木村少将が乗った『矢矧』へ、それぞれ報告と謝罪のために出掛けた。
大事な大規模作戦の前に、大切な艦を損傷させてしまった事へのお詫びとして、都倉は腹も切る覚悟であった。都倉が謝罪に行くと、谷井司令は来訪した若き航海長に対し、特に叱責の言葉も上げなかった。
『雪風』に帰った都倉が飯も食べずに待っていると、寺内が笑顔で帰ってきた。何故かニコニコ顔の寺内に、都倉がすぐさま頭を下げた。
「艦長、本当にすみません」
「いや、司令官は叱るどころか、かえって励ましてくれたよ」
寺内の発言に、都倉は驚く。
来訪した寺内に対し、木村司令官は一切、責任を問うような事も発しなかったらしい。
「司令官は『連日連夜の対潜戦闘、ご苦労である。貴艦は全力発揮できなくても、補給の仕事はできるから、しっかりやれ』だとさ。だから貴様も心配せず、ちゃんと飯を食え」
都倉はその時、深い感銘を受けた。苦労しながら任務を遂行する部下に対する指揮官の態度、その在り方に。寺内にぽんと肩を叩かれ、都倉は涙が出そうになった。
その震える肩の後ろで、雪風が陰ながら、微笑ましく見守っていた。




