第四十一話 航海長就任
二月に入ると、都倉は退任した前任の航海長に代わり、『雪風』の新たな航海長となっていた。
都倉の航海長就任に誰よりも喜んでくれたのは雪風であった。
「おめでとうございます、都倉中尉」
「有難う。だが、本当に俺が航海長になるだなんてな」
「何も不思議な事はありません。中尉は、ずーっと私の舵を取ってくれたんです。そしてこれからも、中尉は航海長として、私を巧みに操ってくれるのです」
「君に言われると、なんだか変な気持ちになるな」
どうしてですか、と素直に疑問を口にする雪風に、都倉は首を横に振る。
「しかし、初風の言う通りになったな」
「……はい」
かつては同じ16駆の仲間であった、今は亡き初風の言葉を思い出す。
都倉が中尉に昇級した時、初風は都倉がいずれ航海長、果ては艦長になると言った。
その言葉の一部が、本当に実現したのだ。感慨に耽るのも仕方なかった。
「後は艦長、か……。いや、寺内艦長を見ていると、俺なんかでは到底足元にも及ばないな」
「艦長の道は果てしなく長いです。でも、中尉ならきっとなれますよ」
「寺内艦長、菅間艦長、飛田艦長。どの人も艦を操る、素晴らしい人達だ。艦長の器とは、かくも大きいものだと俺は思い知らされたよ」
自分達が、そしてこの艦がこれまで生き延びていられたのも、歴代艦長のおかげでもある。
そして今の豪傑艦長も、乗員の間ではすっかり有名になっている。
それが艦長の器というものなのだろう。都倉はしみじみと想った。
「不束者ですが、今後ともよろしくお願いします。都倉航海長」
ぺこりとお辞儀をする雪風に、都倉は驚くと共に笑みが零れた。
まるで嫁に来るかのようだな、とは口が裂けても言えない。
都倉は「こちらこそ、よろしく」と素直な返事を返すのであった。
都倉が『雪風』の航海長に赴任した頃、開戦時は四隻だった第16駆逐隊は、この段階で『初風』と『時津風』が沈没、『天津風』が大破修理中のため、事実上『雪風』一隻となっていた。
三月三十一日を以て同隊は解隊する事となり、『雪風』は第17駆逐隊へと編入された。
「……ようこそ、第10戦隊へ。陽炎型八番艦、雪風」
「はい。よろしくお願いします!」
短いポニーテールを結い、眼鏡をかけた少女は第10戦隊の旗艦『矢矧』の艦魂。17駆の新参者として第10戦隊にやって来た雪風を歓迎した。
「……知っていると思うけど、貴女は第17駆逐隊に編入される事となる。五番艦っていう異例の事ではあるけど、一緒に天皇陛下の為に鬼畜米英と戦いましょう」
雪風が視線を向けた先には、四人の少女が並んでいた。
彼女たちは第17駆逐隊の駆逐艦たちであった。雪風と同じ、陽炎型の姉妹艦たちだ。
17駆は、『浦風』『磯風』『谷風』『浜風』の四隻に、『雪風』が加わる事で異例の五隻編制となっていた。
この17駆も真珠湾から常に最前線で活動している歴戦の駆逐艦隊である。
しかし五隻目の編制という前例のない事象や、17駆の乗員の間では「16駆は『雪風』に全て食い尽くされた」と言われ、あまり歓迎はされなかった。
「いらっしゃい、雪風お姉ちゃん」
「……歓迎する」
「よく来たわね」
「さぁさぁ、久しぶりの再会なんだから」
あえて噂の事などは口にしない姉妹たちの気遣いに、雪風は感謝する他ない。
雪風は、姉妹たちとの再会を噛み締めた。
雪風は第17駆逐隊に編入した後、連合艦隊がタウイタウイ泊地に進出した事で、雪風も17駆の一員として同海域で対潜任務に就いていた。
編入時は17駆の乗員たちからはあまり歓迎されなかった『雪風』だったが、そんな噂など気にしない姉妹たちや、面倒を良く見てくれた矢矧のおかげで、雪風自身も難なく17駆に入り浸る事ができた。
この時、雪風は矢矧と仲良くなり、二人の間には軽巡洋艦と駆逐艦という艦種の違いも関係なかった。
既に昭和十九年の時点で、日本海軍は多くの艦を失った。『雪風』にとっても、共に戦場で肩を並べた仲間や姉妹たちも含まれる。
そしてまた、『雪風』は仲間の死に遭遇する事となる。
昭和十九年五月十四日
シブツ海峡
フィリピンの沖合にあるシブツ海峡にて、駆逐艦『電』はヒ61船団を護送するため、マニラを出港してバリクパパンに向かっていた。
おかっぱ頭で背が小さい『電』の艦魂は、夜闇に瞬く星空を眺めていた。
「……今夜も月が綺麗。こんな夜くらい、ゆっくりと航海したいものだな」
それは現実を裏返した願望そのものから出た言葉だった。敵潜水艦の脅威が増すばかりの海上を、しかも夜間に、彼女は姉妹艦の『響』と共に、海峡を通過している真っ最中なのだから。
「そろそろ交代の時間かな」
彼女もまた歴戦を潜り抜けてきた戦士だった。ソロモン海戦では『雪風』と共に米艦隊と死闘を繰り広げた事もある。
故に警戒は怠っていないつもりだった。見た目は少女そのものだが、その内は海に汗と血を何度も流してきた戦乙女なのだ。
今は『雪風』の艦長である寺内も、艦長として『電』に乗り、数多の死線を潜り抜けてきた。この日の夜、電は何故か寺内の事を思い出していた。
「寺内艦長、元気にしてるかな……」
月が燦と輝く夜空を見上げる。この夜空の下で、寺内艦長もどこかで戦っているのだと思うと、自分も頑張ろうと改めて気を引き締められるのだった。
「響、交代だよ」
「応。後はよろしくね、電」
「任せといてよ」
姉の『響』の艦魂とハイタッチを交わし、電は持ち場を交替した。
『響』が去った後、電は夜闇に紛れるように海峡を進む船団を見詰めた。何も武装を持っていない彼女たちを護れるのは、自分しかいないのだ。
「……さぁ、あともう一踏ん張り」
そう意気込む彼女の足元に、死神の手がゆっくりと忍び寄っている事に、彼女は最期まで気付けなかった。
持ち場を交替した直後、『響』は後方から妙な音を聞いた。
それは、船が爆発した音に似ていた。
そして間もなくして、『電』が敵潜水艦の雷撃により沈没したという情報が舞い込んできた。
艦魂の響は、その報告を聞いて、愕然とした。
持ち場を交替して、まだ三十分しか経っていなかった。
同じ日、タウイタウイ泊地から百マイルほど離れた海域にいた『雪風』は、対潜警戒任務に就いていた。
泊地を一巡して安全を確かめた『雪風』は、護衛の対象であった第二艦隊を泊地に入港させ、尚も警戒任務を続けていた。
その矢先、『雪風』は『電』が被雷したという報告を聞いた。
寺内艦長は、現場海域が近い事もあって、直ちに救助へと向かうよう命令した。
『電』は、寺内が前に乗っていた駆逐艦であった。
しかし『雪風』が向かった頃には、既に『電』は沈没していた。彼女に乗っていた生存者も、『響』によって救助されていた。
雪風は、ソロモン海戦の前夜に盃の席で見た電の可愛らしい顔を思い出した。
「……安らかに、眠ってください。先に、待っていてください」
雪風は彼女が沈んだ海の底へ、手を合せるのだった。




