第四十話 豪傑艦長、乗艦!
菅間艦長の後任として、十二月十日付で新たに寺内正道少佐が『雪風』の新艦長として乗艦した。
体重は九十キロもある巨躯の持ち主で、八字髭を見事に生やし、その炯々たる眼光と栃木訛りの大きな声は圧巻であった。
前に乗っていた艦は駆逐艦『電』であったが、寺内の強運っぷりは『雪風』に負けない程のものだった。
事実、数多の過酷な戦いの只中に置かれても、寺内が乗っている以上、『電』に弾は当たらなかったし、絶対に沈まなかったのである。
敵機から投下された三発の爆弾が、避けるように『電』の前、右、左に分れるように落ちていったという逸話がある程である。
着任早々、この豪傑艦長は乗員を集めて早速こんな事を言いだした。
「この寺内が艦長として来た以上、この艦は絶対に沈まんのじゃ。何故かと言うと、このわしが艦長をやっとるからじゃ。別に不思議はあんめえ」
舌をぺろりと舐めながらこんな事をはっきり言うのだから、都倉もさすがに呆気にとられたものである。
凄い艦長が来た、と。この時の誰もが思った。
『雪風』と寺内。この強運コンビが揃った時、この艦は真の不沈艦となるのである。
乗員たちがそんな自信を強く抱くきっかけになったのが、この寺内の乗艦であった。
ある日、士官室にやって来た寺内に、都倉が質問を投げかけてみた。
「艦長、よろしいでしょうか」
「おう、何じゃ」
若い士官に話しかけられて嬉しいのか、寺内は機嫌良く返事をした。
寺内がこうでは、都倉としても聞きやすかった。
「艦長はご自分が乗った艦は絶対に沈まないと仰っていますが、艦が沈まない秘訣というのがありましたらぜひ聞かせて頂きたいのですが」
寺内は素直に答えた。
「そんなもの、ありゃせん。ただわしが艦長をやっている以上は絶対に沈まんだんべえという信念を持っておる。じゃから前に乗ってた『電』も、何べんも危ない目に遭ったが、沈まんだったよ。ただし、わしが降りた後は知らんよ」
さすがのわしでも退艦した後まで責任は持てんからなぁと続け、寺内は豪快に笑った。
実際、寺内が去った後、『電』は終戦の瞬間まで生き残る事はできなかった。
寺内の退艦後、彼女は本当に沈んでしまうのだ。
だが、この時はまだ知る由もない事だが。
昭和十九年が明けた。
新年早々、『雪風』は第16駆逐隊の唯一の生き残り同士である『天津風』と共に、船団を護衛してシンガポールに向かう事になった。
北九州の門司港に集結した『雪風』の艦上では、都倉や天津風など、開戦前からの顔なじみが揃っていた。
「……しかし、この面子も寂しくなったもんだな」
「そうですね……」
「………………」
都倉の発言に、雪風は寂しそうに返す。が、誰も都倉の言葉を責める者も、責めようと言う気を持っている者も誰もいなかった。
何故なら事実だからだ。
『初風』や『時津風』が戦没した今、第16駆逐隊は『雪風』と『天津風』だけになってしまった。顔の数が半分も減ったのである。
「……こうなる事は元より覚悟していた事さ。今度は私か、雪姉。かもしれないのだからな」
天津風の言葉に都倉は驚きを隠せなかった。雪風を溺愛している天津風の口からそんな言葉が漏れるなんて想像もしていなかったからだ。
しかし、と天津風が続ける。
「……雪姉は私が必ず守ります。雪姉を先に沈ませるなんて、絶対にさせません」
「それは私も同じだよ、天津風。私は貴女まで失うなんて絶対に嫌。もうあんな思いは、嫌だから……」
雪風が言っているのは、ソロモン海の激闘での天津風の事だ。天津風を失いかけたあの時、雪風はひどく動揺したものだった。
「雪姉、その気持ちだけでも本当に嬉しいです。約束します、絶対に……私も沈みません」
だから、と天津風は雪風に微笑みかける。
「……だから、雪姉も沈まないでください。帝国軍人としては失格かもしれませんが、私は雪姉に死んでほしくないし私自身も死にたくはありませんから」
「うん。約束……」
頷き合う雪風と天津風の二人を見て、都倉は微笑ましくなった。
そんな都倉の様子に気付いた天津風が、露骨に顔をしかめる。
「何だ貴様。気持ち悪い……」
「酷い謂われ様だな」
都倉は苦笑する。だが、次の天津風の言葉に驚かされる事になる。
「何を他人事のような。貴様もだぞ、中尉」
「何……?」
「貴様も生きてもらわねば、雪姉が辛い思いをするではないか。貴様も死ぬ事は許されんぞ?」
「……天津風」
そう言って、天津風はフッと微笑んだ。
それは都倉が初めて見る、天津風の表情だったのかもしれない。
「じゃあ、三人の約束ですね」
二人の様子を見守っていた雪風が、微笑ましそうに言葉を紡ぐ。
都倉は、ああ、と頷いた。
天津風も同意見のようだった。都倉が拳を捧げると、天津風もまたそれに応えた。
雪風も自らの手を差し出す。
三人の拳が、コツンと触れ合った。
「約束……」
雪風の噛み締めるような言葉が、都倉の耳に深く残った。
昭和十九年一月十六日
南シナ海
十日に門司を出航した船団は、ようやく南シナ海へと差し掛かっていた。船団はシンガポールに向かう、『千歳』と輸送船四隻を含んだヒ三一船団であり、その護衛に第16駆逐隊の『雪風』と『天津風』の二隻が随伴していた。
「やっと南シナ海に入った辺りか。大分、遅れてるなぁ」
「仕方ありませんよ。船団は行脚の遅い船ばかりですから」
他の士官たちの会話を横で聞きながら、都倉は航海士として舵を握っていた。都倉の神経は、既に擦り減るばかりであった。何故なら南シナ海は敵潜水艦の出没が多い海域なのだから。
しかしやはりあまり不安は抱いていないのは、これまでの『雪風』の幸運を知っているからか、それとも豪傑艦長の寺内が指揮を執っているからか。おそらく両方だろう。士官たちの顔も、どこか晴れやかだった。
だが、やはり敵は牙を剥くのだ。性懲りもなく。
「敵潜水艦を発見!」
見張り兵が声を上げた。
見てみると、海面上に潜望鏡が顔を出していた。
発見されたと気付いたのか、潜望鏡はすぐに引っ込んでしまった。
「対潜戦闘用意!」
船団を守るため、『雪風』と『天津風』の二隻が敵潜水艦に向かう。
『雪風』より一足早く、『天津風』が敵潜へと接近していた。
雪風は前方を走る妹の姿を捉えていた。
意気揚々と敵潜に向かっていく妹の背中は、勇ましい限りであった。
だが、その瞬間。雪風は嫌な感覚を覚えた。
それは前にも経験した事があるような感覚だった。
その感覚が何を意味するのかを思い出した一瞬の後、前方から爆発音が響き渡った。
前を見ると、すぐ目の前を駆けていた『天津風』の艦首が切断されていた。艦橋より前は、すっかり無くなっていた。
「そんな……」
雪風は愕然とした。またしても、自分の目の前で――
敵潜の雷撃を受けた『天津風』は、艦首を切断された状態で漂流を始めた。
敵潜水艦の攻撃に向かった『天津風』は、敵潜水艦の雷撃を受けて艦橋を含む艦首前部部分を喪失。座乗していた吉川駆逐隊司令も戦死した。しかし船団はそれ以上の被害を受ける事はなく、船団護衛に戻った『雪風』は泣く泣く漂流する『天津風』を置いて、一月二十日、シンガポールに着いた。
『天津風』はその後、味方の陸攻に発見されて、駆逐艦『朝顔』に曳航され、船団がシンガポールに着いた日と同じ日にサイゴンへ入港した。修理のためにシンガポールに回航される事になるが、『天津風』の脱落によって遂に第16駆逐隊は『雪風』だけとなった。
『雪風』は単艦で船団護衛を成し遂げ、無事に内地へと帰還した。




