第三十九話 武運の神
『雪風』は海戦の後もコロンバンガラ島への物資輸送に従事した。七月末までソロモン諸島を走り回り、幾度も戦闘に参加し、これをほぼ無傷で乗り越えてみせた。
九月二日、『雪風』は故郷の呉に帰港。ドッグ入りして整備を行う一方、25mm機銃が増設された。
これは駆逐艦本来の役目である水雷戦より、今後は航空機を相手にした対空戦に重きを置かれた事を意味していた。
十月六日、『雪風』は空母『龍鳳』を護衛して出港し、十九日、シンガポールに到着した。
『龍鳳』は本土からの軍需物資を南方へと運び、その帰りにマンガン、ニッケル、ゴムなどの南方資源を積んでくるという、輸送船の役目を背負わされていた。それだけ、日本には輸送船の数が不足していたのだった。
また空母の護衛には駆逐艦が四隻付くのが通常であるが、開戦からこれまでの間に、駆逐艦の数さえ激減し、護衛の駆逐艦は『雪風』一隻だけであった。
南シナ海は敵潜水艦がよく出没する海域であった。貴重な空母を守るため、『雪風』は対潜警戒に神経をすり減らした。往路だけで二回、敵潜水艦と遭遇したが、『雪風』が向かうや敵潜はすぐさま退散していった。
コバルト、ニッケル、ゴムなどの南方資源を搭載すると、十月二十五日に『龍鳳』を護衛してシンガポールを出発し、往路と同じ海南島を経由して十一月五日に呉へ帰還した。
『雪風』が呉に帰った頃、ある悲報が『雪風』に届いた。
「――『初風』が、沈んだ……?」
都倉は通信士から聞かされた電報の内容を復唱した。通信士は悔しげに頷いた。
「はい。先の海戦で、敵艦に撃沈されたとの事です」
「いつ、どこでだ?」
「十一月二日、ブーゲンビル島沖です。損傷のため、避退中に逃げ遅れ、敵艦隊の集中砲火を浴びたとの事……」
「……そうか。わかった」
都倉は心が引き裂かれるような傷みに襲われた。あの初風が……彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
第16駆逐隊の仲間として、短くない付き合いであった初風の死は、都倉にとっても悲しいものだった。
しかしこれを雪風が知ったら――
だが、報せないわけにもいかない。
意を決したように、都倉は艦橋を飛び出した。
雪風は上甲板にて、祈りを捧げていた。巫女服の白い袖が、潮風に吹かれてパタパタと靡いている。
都倉が背後から近付くと、雪風が突然、立ち上がった。
「……雪風。初風が、沈んだ」
「………………」
「三日前だそうだ」
「……そうですか」
都倉は驚いた。雪風の意外な反応に。
雪風はこちらに振り向こうとしない。
「……また一人、姉妹が先に逝ってしまいました」
雪風の同型艦である十九隻いた陽炎型駆逐艦は、この時点で八隻が喪われていた。ネームシップの『陽炎』を始め、同じ第16駆逐隊では『時津風』が戦没し、『初風』が沈んだ今、今や16駆に至っては『雪風』と『天津風』の二隻だけになってしまった。
「私は、周りが死んでいくのをもう見たくないと思っているのに、その願いはいつも叶いません。どうして、他の皆は先に逝ってしまうのでしょうか……」
コロンバンガラ島での輸送任務では、二水戦の旗艦であった『神通』が沈み、その次に起こった戦いでは『夕暮』が沈んだ。『夕暮』に至っては、乗員の間では『雪風』の身代わりになったと噂された。
「皆、私が幸運だって言います。でも、違うんです。私は、幸運なんかじゃ……」
雪風は苦しんでいる。
きっと彼女は戦地から戻ってくる度に、また生き残って帰ってきた、という港の迎えを、重苦しい思いで感じているのだろう。
「私がいつも生き残ってこれるのは、中尉や、乗員の皆のおかげ。でも、他の沈んでいった皆も、頑張っているはずなのに。どうして周りが沈んでいくのに、いつも私だけが?」
「落ち着け、雪風」
都倉はそっと雪風の肩に手を乗せた。
雪風の肩は、震えていた。
「お前は疲れているんだ。ゆっくり休め」
「……はい」
雪風はフラッと、都倉の手から離れた。
そして都倉の横を通り過ぎ、そのまま艦内の方へと戻っていく。
結局、都倉は最後まで雪風の顔を見る事ができなかった。
その後、呉を出航した『雪風』は暫くの間、トラック島周辺の警備に従事した。
十二月五日、『雪風』はトラック島南水道付近で敵潜水艦を発見。これを爆雷で撃沈した。この辺りの海は透明度が高いので、対潜戦闘には有利な条件を得ていた。
この敵潜撃沈は、スラバヤ沖海戦以来の戦果であった。『雪風』は悠々と、警戒任務を着実にこなし、何回目かの呉入港を果たした。
また生きて帰ってきたか。呉の港がそう言って、『雪風』を迎えてくれているようだった。
ああ。また生きて帰ってきたさ。都倉は呉の港にそう返すのだった。
だが、これからもっともっと装備を強化して、生きて戻る確率を上げさせてもらうぞ。
呉に入った『雪風』は再び対空兵装増設への改装を実施した。艦尾にある二番主砲塔を撤去し、25mm高角機銃三連装二基を装備し、待望の電探も二基付けられた。25mm機銃(三連装、単装)が再び増設され、『雪風』の艦尾はハリネズミのようになった。
呉に帰港した同日、第16駆逐隊の司令駆逐艦が『天津風』に復帰。
『雪風』では艦長の交代に伴い、菅間艦長が退任する運びとなった。
「総員上甲板整列!」
呉に入港し、錨を投下した『雪風』の上甲板にはすぐさま乗員たちが集められた。整列した二百余名の乗員たちの前には退任が決まった菅間艦長が立っていた。
菅間は乗員たちの顔を記憶するように、暫し無言でジッと眺めていた。
そして寂寥感を隠し切れないまま、菅間はゆっくりと口を開いた。
「私は諸君と共に戦ってきた事を、生涯の誇りとする」
それは菅間の別れの訓示であった。
「幾多の危地をこれまで乗り越えてこれたのは、一にかかって乗員各員の責任感の強さと、敢闘精神の賜物である。私は、過去に自分が言った言葉を一つ訂正しなくてはならない。着任した時に、自分が運の良い男だと大見得を切ったが、これは間違いだった。本当に武運の神に守られているのは、この『雪風』であった」
静かに乗員たちに語り掛けるように口を切った菅間の言葉に、都倉を含めた乗員たちがその端々を胸に焼き付けるように心して聞いた。
そしてその光景を、雪風が、主砲の上から見守っていた。
「この艦に乗っていて、その事がよくわかった。したがって、私が艦を去った後も、この『雪風』は沈まないのである」
そして菅間は噛み締めるように、次の言葉を紡いだ。
「『雪風』に神宿る」
どこからか、ハッと息をした存在がいた。しかし菅間も乗員たちもそれに気付きはしない。
都倉はその言葉が自分達だけでなく、彼女にも伝わっていると確信した。
もう一度、菅間は一段と声を張り上げ、同じ言葉を紡いだ。
「『雪風』に神宿る!」
二度繰り返された言葉は、乗員たちに深い感銘として耳に残った。
菅間の巧みな操艦は、今日まで『雪風』が生き延びてきた所以の一つであると誰もが知り、それ故に菅間がいなくなったら、という一抹の不安を抱える乗員も多く居た。だが、菅間はそんな乗員たちを気遣うように、自分がいなくても、『雪風』には武運の神が宿っていると言葉を掛ける事で、乗員たちの不安を払拭しようとしたのかもしれない。
艦そのものに武運の神が宿っているという菅間の言葉は、乗員たちを改めて勇気付けた。都倉もその武運の神が、どこかで涙を浮かべている姿を想像した。




