第三十八話 僚艦の屍を踏み越えて
第八十一号作戦は無残な失敗に終わった。
陸軍兵三千名と多くの海軍乗員が戦死し、四隻の駆逐艦が沈没した。全輸送船が大量の軍需物資と共に海の底へと沈んだ。
元々、制空権のない海域を昼間に強行突破するというのが無理な話だったのである。
いつしか、この作戦は「ダンピールの悲劇」と語られるようになる。
だが、この悲劇で駆逐艦の半数と全輸送船を失ったにも関わらず、『雪風』は無傷でラバウルに帰還した。
この間、都倉は雪風と一言も話せなかったが、雪風の顔は感情を表に出さなかった。
都倉はそれが良くない兆候であると勘付きながらも、何も出来ずにいた。
ラバウルの基地に帰ってきた『雪風』の乗員たちには休養が待っていた。都倉も付き合いでラバウルの町に上陸する事となった。
そこで都倉は思いがけない光景に出くわした。
都倉たち『雪風』の乗員が上陸すると、他艦の兵だけでなく、航空隊員までもが握手を求めてきた。
コーヒーなどがある集会所に行けば、誰もが競って都倉たちにコーヒーやお茶を奢ろうとする。
都倉は何故、彼らがここまでするのか自ずと知れた。
おそらく、『雪風』の運にあやかろうとしているのだろう。
そう、『雪風』の幸運の強さは、海軍内に広く知れ渡っていたのだ。その噂は日本本国の海軍部内でも広まり、すっかり有名になっている程だった。
しかし都倉は、複雑な思いであった。
本国にまで伝わっている噂を、雪風自身が知らないわけがない。都倉は雪風の心情を思い、ラバウルの澱んだ空を仰いだ。
魔のダンピール海峡での戦いも無傷で乗り越えた『雪風』はその後二ヶ月間、輸送任務のために南太平洋を走り回った。
輸送任務を終えた後、『雪風』は他の駆逐艦と共に第一航空戦隊の護衛をしながら内地に帰投。北方作戦準備のために再び出航したが、アッツ島の陥落を聞き中止。
更にこの間、五月二十一日に海軍甲事件が発生。開戦時から連合艦隊司令長官を務めていた山本五十六大将が戦死の報が日本中を駆け巡った。山本大将は前線を視察中、暗号を解読した米軍機の襲撃を受け、搭乗機を撃墜されジャングルに墜落、帰らぬ人となった。
山本大将の後任には、横須賀鎮守府司令長官の古賀峯一大将が受け継いだ。
新たな長官となった古賀大将は同月二十五日にトラック島に飛び、乗艦した『武蔵』に将旗を掲げた。
そして更に時が経ち――
昭和十八年七月十二日
コロンバンガラ島沖
快速の日本艦隊が、ソロモン海を南下していた。
この夜、陸軍の第四十五連隊第二大隊及び砲兵一個中隊をコロンバンガラ島に輸送するため、二水戦司令官指揮下の部隊が編制されていた。
先行する警戒隊には第二水雷戦隊の旗艦『神通』を始め、駆逐艦四隻(『雪風』『浜風』『清波』『夕暮』『三日月』)が続き、その後方にいる輸送隊には更に駆逐艦四隻(『皐月』『水無月』『夕凪』『松風』)の姿があった。
輸送隊には陸兵千百名、物資約百トンが搭載された。
日本軍のガタルカナル島撤退後、とりわけニュージョージア島、コロンバンガラ島への米軍の空襲は激しさを増していた。ニュージョージア島の隣島であるレンドバ島は六月末に米軍が上陸し、既に占領されており、コロンバンガラ島守備隊の増強は急務となっていた。
午後十時五十七分、『雪風』の逆探が、敵艦隊のレーダー波を捉えた。
海軍内でその運の良さが広く知れ渡っていた『雪風』には、最新兵器である逆探と呼ばれるアンチ・レーダー器が装備されていた。
米軍のレーダーに悩まされてきた日本側が、苦心の末に生み出した新兵器である。敵が出すレーダーを逆に探知して、敵がいる存在と方向を確認する働きを持つ。
ただし距離は測定できないので、米軍のようにレーダー射撃はできない。だが、どの方向に敵がいるのかわかるだけでもメリットはあった。
この新兵器がどの艦よりも早く、『雪風』に装備されたのは、彼女の不沈神話が多分に影響しているからであろう。折角の新兵器を海底に沈めては、その性能を確かめる事ができないからだ。
敵の存在を逆探知した『雪風』は、旗艦の『神通』に敵艦隊の存在を報告した。
これを受け、警戒隊は三十ノットに増速し、敵のレーダー波に向かって進み出した。
午後十一時三分、旗艦『神通』が敵の艦影を目視で捉えた。
直ちに『神通』より、砲雷撃戦用意の令が下る。
「……さぁ、覚悟しなさい」
神通は意を決したような表情を浮かべた。彼我の距離は近く、艦影は確認できるが、辺りは夜闇に包まれている。そして夜戦の定法として、探照灯照射の役割を担っているのは旗艦である『神通』だった。
『神通』は危険を承知で、味方に敵の所在を明らかにすべく、探照灯を照射する。
「――私達を、舐めるなよ!」
光の先へ、神通は叫んだ。
午後十一時十三分、日米両艦隊は彼我の距離六千に詰めた所で、砲撃戦を開始した。
そして真っ先に敵の集中砲火を浴びたのが、探照灯を照射した『神通』であった。
旗艦『神通』にはたちまち敵の砲弾が降り注ぐ。
そしてその後方を、駆逐艦たちが敵に向かって突撃する。主砲を噴きながら、敵艦隊へと迫る。
雪風は敵の集中砲火を浴びる旗艦を見た。
しかし、躊躇なく、視線を逸らした。
見据える先は、光の先に浮かび上がる敵艦の姿。
『雪風』は右舷を敵艦に向けた。魚雷戦は右から発射すると決めた動きだった。
いつの間にか、敵艦隊との距離は三千まで縮まっていた。すぐ目の前に、米艦の姿が映る。
「取舵一杯!」
菅間艦長の操艦により、『雪風』は左に舵を切り、間もなくして新人の水雷長が必死に「魚雷発射」の令を下した。
雪風が目の前にいる敵艦をジッと見据えた矢先、八本の魚雷が海面にダイブした。
シューッと音を立てて、海面下に沈んだ魚雷は、そのまま真っ直ぐに敵艦隊へと向かっていく。
敵艦から、パッ、パッと、白い光が瞬く。どうやら砲撃しているようだった。
だが、もう遅い。
各連管四本、計八本の魚雷が生き物のように海面下を泳ぎ、死の使いとなって敵艦に突っ込んでいく。
そして敵艦に何本もの水柱が連続して立ち昇った。巡洋艦クラスと思われる敵艦に、『雪風』は見事、痛撃を果たしたのだ。
「………………」
雪風は黙してその光景を見届け、砲弾が飛び交う戦場の海を駆け続けた。
戦闘序盤に激しい砲雷撃戦の末、敵軽巡一隻を大破させたものの、日本側も探照灯を照らして集中砲火を浴びた旗艦『神通』が大破炎上したため、『雪風』が警戒隊の指揮を執り敵艦隊へ再攻撃をかけた。
『雪風』『浜風』『清波』『夕暮』はスコールに紛れて敵駆逐艦隊の追跡を撒き、魚雷の次発装填を完了。敵本隊への再突撃の際もスコールを利用して接近し、これを攻撃した。
「雪風お姉ちゃん、凄い……」
陽炎型の同型艦である『浜風』の艦魂は、戦場の熱風にツインテールを揺らしつつ、先頭を走る姉・雪風の姿を見て、その雄姿に圧倒されていた。
旗艦『神通』も敵の砲撃を浴びながらも探照灯を照射し続け、果敢な戦闘ぶりを見せ付けたが、『雪風』もまた駆逐艦隊を率いて、猛進するのである。
普通、敵艦隊と肉薄すれば、真っ先に狙われるのは先導艦である。『雪風』に砲弾の雨が降り注ぐが、不思議と『雪風』には一発の砲弾も当たらなかった。その後ろ、二番艦の位置を走っていた浜風は、白い水柱に包まれる姉の姿を見て、何度も肝を冷やしたが、水柱を掻き分けるようにして姉はまた現れるのである。
まるで、死を恐れていないかのような走りっぷりだった。
いや、帝国軍人なら死を恐れないのは当然の事なのだが。
しかし目の前にいる姉は、死を恐れていないというよりは――
浜風はそれ以上、考えるのを止めた。
それは姉に対する、余りに礼を欠いた想像であった。
「私も、頑張るんだ……!」
浜風は、敵艦隊に肉薄する姉の背中を追った。
間もなくして、見る間に敵艦隊に火柱が立ち昇った。魚雷の一発が軽巡『セントルイス』の艦首に命中。
三分後には旗艦『ホノルル』の艦首と艦尾に命中、これも炎上した。
続いて駆逐艦一隻にも命中し、これを航行不能とした。
気が付けば、あんなに真っ黒だった夜空は、敵艦隊から立ち昇る炎で赤々と染まっていた。
魚雷を撃ち尽くした駆逐艦隊は、長居は無用と、避退を始める。
米側は最後まで、先に交戦した駆逐艦隊が反転追撃してきたとは思いもせず、新たに現れた敵艦隊にやられたと思い込んでいた。
敵艦隊を撃破した駆逐艦隊は、自分達に万全の攻撃をさせてくれた旗艦を捜索したが、遂に見つからなかった。
後に旗艦『神通』は炎上漂流した後、敵駆逐艦の再雷撃を受け、沈没したという噂を耳にした。
司令官や幕僚、艦長が運命を共にし、開戦から長らく第二水雷戦隊を率いてきた彼女は海の底へ深い眠りについた。
この海戦で米側は巡洋艦三隻大破、駆逐艦一隻が沈没。日本側は『神通』、巡洋艦一隻を失った。
海戦での警戒隊の活躍によって、輸送隊の駆逐艦四隻はコロンバンガラ島へ陸軍兵と軍需物資を無事輸送する事に成功した。
昭和十八年七月十五日
ラバウル湾口
朝。都倉が起床すると、艦は丁度ラバウルの湾口に差し掛かっていた。
艦橋に上がる前に外を見てみると、懐かしい火山群が遠望に見渡せた。その近くにある岬もまた見慣れたもので、ソロモンの山河は故郷の横須賀と比べると緑が深く、これもまた美しい光景であった。
ふと、都倉は甲板に佇む雪風の姿を見つけた。
彼女はラバウルの山々を真っ直ぐに見詰めている。
しかしその背中に、声を掛ける余地がない。
今回も生きて帰ってこれたのに、その背中は何故か哀愁に満ちていた。
都倉は時計の時刻を確認し、艦橋へと急いだ。
ラバウルの湾内では、停泊している各艦船から帽を振って迎えられた。
どの艦も「赫々タル武勲ヲ祝ス」という信号が掲げられているが、何故かこの胸の内は重苦しい。
それはあの背中を見たせいなのかはわからない。
ただ、きっと彼女も、素直に喜んではいないだろう。
それだけは、都倉にはわかった。




