第三十六話 幸運の裏で
昭和十八年二月八日
ショートランド島
撤収作戦を終えた翌日、この日は大詔奉戴日(大東亜戦争が開戦された十二月八日にちなんで、毎月八日に定められた記念日)であったが、午前八時ごろに基地に帰着後、艦内では大掃除や消毒が行われた。
兵士で埋め尽くされていた上甲板では蛆が踊り、艦内のどこも異臭で満ちている。これは撤収作戦を終える度に行われていた事だったが、今回ばかりは作業をする乗員たちの顔はどれも晴れやかなものであった。
作戦を完遂させたという充実感が、『雪風』艦内に満ちている事が見て取れた。
それは都倉も例外ではなく、士官室などの大掃除を行いながら、晴れ晴れとした表情で汗を掻いていた。
「中尉、お疲れ様です」
「雪風か」
士官室の掃除や消毒をしていた都倉に、雪風が声を掛ける。
「悪いな、臭いのがまだ取れなくて。もう少し待っていてくれ」
「いえ、私はこれっぽちもそんな事を思っていませんよ。助けられなかった人は大勢いましたけど、助けられた人も多かったのですから……私は、本当に良かったと思います」
「……と言っても、いつまでも臭いのは嫌だろう?」
チラリと視線を向ける雪風に、都倉は白い歯を見せる。
都倉は想像した。
またいつもの事を思っていそうな顔だ。
「しかし大したもんだよ」
「……ええ、そうですね。『磯風』、本当によくあの状態で帰ってくれたと思います」
第三次撤収の最中、被弾した『磯風』は舵も壊れていた。だが、その状態でなんとか無事にショートランドまで帰ってこれたのである。
連合艦隊司令部も駆逐艦の半数を失うと覚悟していたが、沈んだのは一隻だけで、被害を受けた艦も少ない。正に僥倖であった。
「いや、それもあるけど。お前の事だよ」
「え?」
「周りの艦は被害を受けているにも関わらず、お前は無傷で乗り越えたんだ。本当に大したもんだと思うよ」
「………………」
都倉は素直な思いを吐露したつもりだった。
だが、雪風の表情は晴れない。都倉は疑問を抱いた。
しかし雪風はそんな都倉の怪訝な顔を跳ね除けるように、にっこりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その笑顔に、都倉は違和感を覚えた。
追及しそうになった都倉に、水兵が報告にやって来た。
「都倉中尉。艦長が皆を呼んでいます」
「わかった。すぐに行く」
「……行きましょうか」
結局、都倉はその違和感について問い質す事ができなかった。
綺麗になった上甲板には、『雪風』の乗員たちが集まっていた。
彼らの目の前には、菅間艦長の姿がある。
菅間は全員が集まったのを確認すると、まずは「ご苦労だった」と第一声を放った。
「作戦が無事に完遂できたのも、本艦が無傷で過ごせたのも、乗員一同の努力のおかげである。艦長として私からも礼を言いたい」
菅間の発言に、乗員たちの誰もが驚いた。
更に菅間の言葉は続く。
「そこで、作戦に参加した我々に長官から直々に賞訓が贈られている」
乗員たちはまた驚く。そして菅間が、山本司令長官からの賞訓を読み上げた。
「天祐により、至難なる今次作戦に画期的成功を収め得たるは感激に耐えず。此の間各部隊は決死献身よく難に当り、敵を征圧して偉大なる戦果を挙げ、而してガ島上陸部隊を余す事なく海軍艦艇に収容する成果を挙げ得たることは、帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せるものと言うべく、茲に深く参加将兵の労苦を多とすると共に、本作戦に斃れたる忠勇の英霊に対し、衷心より敬弔の意を表す」
夜、掃除や消毒を終えて、『雪風』の艦内は以前のように綺麗になった。
乗員たちにはビールが配給された。都倉もビールを受け取ると、暫くしてから乗員たちの輪から離れ、一人、上甲板に出た。
そこには予想通り、巫女服を背に海を眺めている雪風の姿があった。
「雪風、飲んでるか?」
「……そう仰る中尉は、飲んでらっしゃいますねぇ」
「久しぶりのビールだ。飲むに決まっているだろう」
都倉の手にはビールが入った瓶が握られていた。作戦の成功から参加将兵に褒美として配給されたものだが、既にその瓶は四本目であった。
「顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」
「これくらいどうって事はないさ」
と言う都倉の顔はまるで茹蛸のようだ、とは雪風は言わない。
都倉が隣に腰を下ろし、雪風は不意にドキッとなった。
「雪風も飲むか?」
「わ、私は良いです……。中尉が全部飲んでください」
「お前、酒は飲めるだろ。大晦日に飲んだじゃないか」
「日本酒は良いんです。ビールはあまり好きではないのです。苦いし……」
「そうか」
都倉はグイッと瓶の口に吸いつき、呷るように飲んだ。
それを目撃した雪風が苦い顔を浮かべる。
「中尉、あまり無茶はしないでくださいね。作戦明けですし、疲れているでしょう」
「疲れているからこそ、酒は美味いんだ。いや、俺は疲れてなどいない!」
「どっちなんですか……」
最早、呂律も怪しい都倉の様子に、雪風は呆れたような顔を浮かべる。
「……島から引き揚げた連中に比べたら、俺なんて何もしていないさ。あいつらは、こんな風に酒も飲めず、それ所か水さえ無い環境で戦ってきたんだからな」
「………………」
「あの兵士たちを見ると、俺はつくづく恵まれているんだなと思うよ。生きているって、素晴らしいな」
己の生を噛み締めるように、ビールを味わう都倉だった。
都倉にとってその行為は、死者を弔う意味があるのだろう。
雪風が月の光が反射する海を眺めていたように。
「……あの。中尉」
「ん?」
「……私にも、一口。よろしいですか?」
都倉は驚いた。
目の前には、おずおずとしながら目を逸らす雪風の火照った顔があった。
「勿論だとも」
「ありがとうございます……」
都倉はビール瓶を雪風に差し出した。
しかし雪風は目を丸くしたまま、受け取らない。
「どうした? 飲むんだろう」
「は、はい。ですが……あの……」
「何だ?」
「……ッ」
何故か雪風の頬が、赤くなる。まだアルコールは入っていないはずなのに。
「こ、コップとか、ないのですか?」
「ううむ」
都倉は唸った。完全に失念していた。
持って来れば良かったと思うも後の祭りだった。自分が彼女に差し出した瓶の開いた口を一瞥する。
都倉がコップを取りに行こうと立ち上がろうとした時だった。引き戻そうとした瓶を、雪風が掴んだ。
「……や、やっぱりこのまま頂きます」
「良いのか?」
「は、はい! 大丈夫です! 私だって、これくらい飲んでみせますとも!」
何だか変に高揚しているような言葉遣いに、都倉は苦笑する。
雪風は瓶の口をジッと見据え、ぷるぷると赤くなったまま震えていたが、都倉が見守る中、その瓶の口を付けるやグイーッと飲み出した。
明らかに一口の範疇ではない。しかし今の雪風にはそんな事に気付く余裕はないようだった。
「んぐ、んぐ……! ぷっはぁー!」
おっさんか。と口に出すのを堪え、都倉は更に噴き出しそうになるのを必死に抑えた。
瓶を口から放した雪風は、すっかり顔を火照らせていた。
そしてその口からべぇっと舌を出す。
「うう、やっぱり苦い……」
「よく飲んだな。見事なもんだ」
「……う、うふふ。でしょう? もっと褒めても良いのですよ」
「……ん?」
違和感に気付く。気付かない方がおかしかった。
今、目の前にいる雪風は今までに見た事のない顔をしていた。くりっとした丸い瞳はトロンと溶けるように歪み、頭を重たそうにクタッと首を曲げて垂れさせている。
まるで酔い潰れた奴の姿そのものではないか、と思った都倉だったが、正にその通りであった。
「ゆ、雪風? 大丈夫か?」
「うー、何がですか? わたひは全然平気ですよー」
「俺が言うのも何だが、呂律が回っていないぞ」
「うるひゃいでふね~。 あー、暑い暑い」
「ちょっと、待……!」
何を思ったのか、いや、暑いと言ったのだが。急に脱ぎ出そうとする雪風に、都倉がさすがにこれはいかんと制止する。
「何をするのですか、中尉~!」
「早まるな、雪風!」
「ううー、暑い、暑い」
どうにか脱がせる事は阻止できたが、少々乱れてしまい、艶とした白い肩が露出してしまった。
顔を火照らせ、乱れた巫女服に肩まで肌を露出させた姿は、どこか色っぽい。
ビールを飲んだせいか、都倉自身も顔が熱を帯びていた。
「まさかビールを飲んだだけで、こうなるとは……」
日本酒は平気なのにビールは一発で撃沈とはどういう事だと、都倉は理解に苦しんだ。
おかげで酔いは醒めたが、今度は雪風の方が大変であった。
しな垂れるように、雪風がその頭をちょこんと都倉の膝の上に乗せた。
「中尉~」
「……こればかりは本当に、子供のようだな」
「え~、ひどいですぅ中尉。わたひ、こどもじゃないって何度言えば……」
「わかったわかった。すまん。このまま膝を貸してやるから勘弁してくれ」
「む~……なら、仕方ないですねぇ……」
ようやく大人しくなった雪風の様子に、都倉は安堵する。
だが、この状況は想定していなかった。この後どうしようかと思案している内に、膝に頭を乗せて横たわった雪風が、ぽつぽつと呟き始めた。
「……中尉」
「ん? どうした、雪風」
「……私、」
膝に頭を乗せている雪風の表情は見えない。だが、その声はどこか寂しげだ。
「私は……生きていて、良いんですよね」
都倉は言葉を失った。見失った。見失った言葉は口から出る事はない。
見失った言葉を、都倉は一瞬で見つけ出した。心中は早口であったが、実際に出た言葉はゆっくりと紡がれた。
「……当たり前だろう。お前が生きていなくちゃ、俺達が困る」
都倉は朝の事を思い出した。
あの時、雪風は何とも言えない表情をしていた。
――周りの艦は被害を受けているにも関わらず、お前は無傷で乗り越えたんだ。本当に大したもんだと思うよ――
その言葉は、彼女にとっては皮肉か何かに聞こえたのではないだろうか。
そんな可能性が浮かび上がって、都倉は心が引き裂けそうな気持になる。
雪風が自身の強運に負い目を感じている可能性を、考えつかないはずはないのに。
彼女は、苦しんでいる。自分の強運、いや、幸運に。
そして彼女を苦しませている要因の一つは、自分達なのかもしれない。
「……雪風、お前は生きるんだ。それが御国のためであり、俺達のためであり、そしてお前のためでもあるのだから」
「………………」
やがて、静かな夜の下に寝息が聞こえ始めた。彼女が夢の中に入る前に、自分の言葉は届いたのかどうかはわからない。
ただ、膝元に湿った暖かみを感じた。都倉にはそれだけがわかった。




