第三十四話 ケ号作戦発動
年が明けた昭和十八年一月十九日、『雪風』は戦艦『武蔵』を始め、第一航空戦隊の空母『瑞鶴』『瑞鳳』、軽巡洋艦『神通』、第10駆逐隊(『秋雲』『夕雲』『巻雲』『風雲』)と共に呉を出航。トラック島へ向かった。
先立って一月四日、大本営は遂にガ島撤退命令を発令。これに触発されるように、『雪風』はトラック島で外南洋部隊に編入されると、今度はラバウルに移動、そこで第八艦隊司令部より『ケ号作戦』の命令を受けた。
司令部から命令書を受け取って戻った菅間艦長の命令により、『雪風』の士官たちが集められる。当然、その中には航海士の都倉も含まれていた。
「――艦長に敬礼!」
集まった士官たちの敬礼に迎えられた菅間は浮かない顔をしていた。
艦長の様子に、士官たちが怪訝な顔をする。
開口一番、菅間は明らかに不満がありそうな口ぶりで言った。
「これは実に嫌な作戦だ」
菅間の発言に、士官たちが更に怪訝な顔になる。
普段の菅間は命令に対して不満を漏らすような人間ではなかっただけに、士官たちは皆、驚いた。
だが、菅間が命令内容を説明すると、誰もがその顔を海底に漂う深海魚の如く暗くさせた。都倉に至っては危うく溜息が出そうであった。
――ケ号作戦。
『雪風』が参加する新たな作戦の名前であった。そしてその内容は、ガタルカナル島の陸軍を撤退させる作戦であった。
ガ島を巡る日米両軍の戦いは激しさを増し、米軍の基地航空隊によって日本海軍の艦艇の被害が増えるばかりであった。
陸軍も三万の将兵を送り込み、二万の戦死者を出している。島に残っている一万の将兵も密林に潜み、飢餓と熱病に苦しんでいる。
最早、陸海軍共に戦う力が残っていなかった。
対する米軍の兵力は増強し、重武装の五万余りの兵力が駐留している。戦闘力を失った日本軍には為す術がなかった。
菅間の浮かない顔は、都倉が抱いた思いと同じであったためだった。
「(これまで多くの犠牲を払った意味は何だったのか……)」
ガ島という島のために、陸海軍共に膨大な犠牲を払った末の結末としては余りに悲しいものではないか。
それにせめて後もう少し早く撤退が決まっていれば、どれだけの人命と艦艇を失わずに済んだだろうか。
そんな割り切れない思いが、都倉の胸中を巡った。
ケ号作戦は駆逐艦二十隻によって実行される事になり、参加する艦はショートランド基地に集結した。
そこで『雪風』は共に将兵たちの救出に赴く駆逐艦たちと顔を合わせたのだった。
その中には妹の『磯風』もいた。
「磯風、久しぶり。今回の作戦は一緒だね」
「……はい、姉さん。よろしくお願いします」
儚く消えてしまいそうな声に、雪風は相変わらずだと思った。彼女は陽炎型駆逐艦十二番艦『磯風』の艦魂だ。普段から口数は少なく、表情も乏しいと他の艦魂たちから言われるが、意外と彼女が表情が豊かである事は姉の雪風だけが知っている。
本が好きな妹は、ただ表に感情を出す事が苦手なだけ。ちなみに妹が擦り切れるまで持ち歩いている本を、雪風は既に知っている。
「今回はどんな短歌?」
磯風の手にある本は、小説や哲学書などといったものではない。明治の歌人、正岡子規の俳句・短歌集である。
磯風は特に作戦の度に自分の好きな俳句や短歌を、姉妹たちに聞かせるのである。
姉に問われた磯風は、無表情のまま、ゆっくりと口だけを動かした。
「……海に出て 木枯らし帰る ところなし」
「………………」
雪風もまた、表情から色を失くし、黙り込んだ。
昭和十九年二月一日、いよいよ、ガ島に取り残された一万余の陸軍将兵を救うため、二十隻の駆逐艦隊が出撃した。
連合艦隊司令部の方針により、作戦は三回の往復を以て実行される事が決まっていた。
駆逐艦の艦尾には陸軍の大発が曳航されていた。これに将兵たちを乗せて、沖合から艦まで移動させようというものである。
ガ島へ急ぐ駆逐艦隊は猛スピードで前進しており、艦隊は白い荒波を生み出していた。後続艦から見て、前方にいる艦がマストしか見えない程であった。そして各艦に曳航されている大発が、波に揉まれ、艦首を上に突き上げ、艦尾が白波に呑まれて見えなくなっている。引き千切れんばかりに引っ張られる大発の光景に、艦尾からは乗艦した陸軍の艇長や乗員たちが心配そうに見守っていた。
そんな最中であった。突然、警報のラッパが各艦に鳴り響いた。
「敵襲! 敵襲!」
艦尾にいた陸軍兵たちは驚いて、艦内に避難した。入れ替わるように戦闘配置に向かう駆逐艦乗りたちが走り出す。
米軍のドーントレス爆撃機の大編隊が、艦隊の上空に現れた。
各艦は回避行動に移りながら、対空射撃の姿勢に入る。
更に敵が侵入しつつある上空に、直掩の零戦隊が駆け付けた。
「空にはゼロ戦、そして我々は空襲に慣れた強者揃いだ! そう簡単にはやられんぞ!」
砲術長の意気込んだ発言に、都倉は同意するように頷いた。
そう。この場にいる駆逐艦たちは、これまでに幾度も敵の空襲を経験し、生き延びてきた。
それは『雪風』も同然である。菅間の指揮の下、『雪風』はどれだけ敵の攻撃を躱せるかという勝負を僚艦としているかのように、敵機の攻撃を巧みに避け続けた。
そして他の艦もまた、手慣れたような動作で、次々と降り注ぐ爆弾を躱し、回避を続ける。
いくら爆弾を落としても命中しない状況に焦りを覚える敵爆撃機に、零戦が斬りこみをかける。
戦闘が終わってみれば、艦隊は数百発の爆弾を浴びながら、『巻波』が航行不能になったのみで、他の艦は無事であった。更に戦果として敵機を四機撃墜していた。
「さすがですな! 見事な戦いぶりでした」
都倉は艦橋にいた陸軍の大発部隊の隊長が拍手を鳴らした。
菅間を始め、都倉たちも笑顔になる。
勿論、雪風も一息吐いていたが、その表情は満更でもなさそうだった。
既に水平線に日が没し、島の輪郭が浮き始めていた。
予定通り、艦隊はガタルカナル島のカミンボ海岸を目の前にしていた。
夜空の星が瞬くその下で、黒々とした島の横を、速力を落とした艦隊は海面を滑るようにゆっくりと進んだ。
息を潜め、忍び寄るようにカミンボ海岸に着いた『雪風』は、錨を下ろさないまま機関を停止させた。
ガ島の海岸には珊瑚礁が多く、艦が近付きすぎれば座礁する恐れがあった。なので、海岸から数百メートルの位置で停まり、大発を放すしかなかった。
静寂の中、作業が始まる。艦尾に曳航されていた大発が舫いを放され、舷側に着けられた。陸軍の艇長や乗員が大発に乗り込み、艦長の命令を待つ。
艦の乗員たちは左舷側に大きなネットを張り、更に道板(長い板に等間隔で横木を打ち付けた梯子)も吊り下げ、救出した陸軍将兵たちを艦まで昇りやすいような環境を整えていた。なるべく静かに、夜闇に身を隠しながら、作業は粛々と進められる。
都倉などの艦橋にいる乗員たちは、夜闇と同化する海上と上空を警戒していた。夜間に補給物資を運んでくる『東京急行』を警戒するため、米軍は島の周辺海域に魚雷艇を回航させているのである。海上に目を凝らすのは、敵魚雷艇の襲撃を警戒するためだった。
主砲と機銃にも、配置に就いた兵たちが、戦闘準備のまま待機する。
やがて菅間艦長から「発進」の一令を受け、艦から放された大発が、一斉に島へと走り去った。
その時、都倉は艦橋から、各艦の位置や湾口などを見た。と言っても、暗くてほとんど見えないが。
「どうした? 中尉」
「航海長。いえ、……わかっていた事ですが、やはり暗いな、と」
「大発が心配か」
たった今、島に走り去っていった大発を思い、都倉は正直に吐露する。
「はい。もしこの時、敵の艦船に襲われでもしたら……大発の者たちは湾内に取り残される事になります」
「それは、我々に万が一の事があった場合、だな」
その意味する所を含む発言に、航海長は特に怒りはしなかった。
実際、そのような危険はあり、司令部も覚悟している事だった。
実際、このガ島の北西にある小さな島、ルッセル島に三百余の陸軍兵を上陸させていた。これは万が一、駆逐艦による救出が失敗した場合、大発などの舟艇を使って一旦ガ島からルッセル島に移動させるための措置であった。
万が一の場合に備えた準備も既にできている。後は、作戦を成功させるだけだった。
「魚雷艇が来ようが、『雪風』の主砲で撃滅してやるさ」
二人の会話に入ったのは砲術長だった。その顔は白い歯を見せていた。
「だそうだ。中尉」
「……はい。その通りですね」
都倉はすぐ傍で三人のやり取りを見守っていた雪風の微笑みを目撃した。
夜闇の中で大発の帰りを待っていた『雪風』の見張り兵が、島の方角から聞こえてくるエンジン音に気付いた。
島に取り残されていた陸軍兵たちを収容した大発が、無事に戻って来たのである。
陸軍兵をギッシリと乗せた大発が、次々と各艦に到着する。
そして遂に救助作業が始まるのだが、これが実に難しかった。
「あともう少しだ! 頑張れ!」
都倉も救助作業の応援に駆け付け、艦上からネットに手を掴む陸軍兵たちを引き上げようとした。
だが、やせ細った陸軍兵たちは、自力で上がれる者がほとんどいなかった。
当然だった。長い間、ジャングルの中で食糧も無いまま彷徨い、飢えと熱病で苦しめられた彼らは既に限界だったのだ。ようやく目の前まで昇ってきた兵士を、都倉が必死に手を伸ばす。その手を掴むが、あと一息昇る力が、その兵士には残されていなかった。
あと一息の所で、都倉の手からずるりと放れた兵士が、そのまま真っ黒な海へと落ちていく。
ドボンと音を立てて、都倉の目の前でその兵士は海に落ちた。彼が落ちた海面は夜光虫の光が漂うだけで、何も浮かんでこなかった。
「――糞ッ!」
だが、毒を吐く時間もなかった。また這い上がってきた別の兵士を、都倉は引っ張り上げる。その後も、あと少しの所で力尽き、海に落ちていく兵士を、都倉は何度も目撃した。
艦上に上がった兵士たちも、立って歩ける者がごく僅かで、ほとんどが四つん這いで移動するのがやっとだった。
どうにか第一次収容を完了させ、カミンボ海岸を担当した部隊は、ショートランド基地への帰路に出た。
日の出の時刻が近付き、うっすらと明るくなってきた空の下、『雪風』はショートランド基地に向かっていた。
雪風の目の前には、上甲板を埋め尽くす程の兵士で溢れていた。彼らは皆、横になって、呻きの声を上げている。
前にラバウルに行く途中に見た高砂族の光景とは比較にならないような、正に地獄のような光景であった。
負傷し、包帯を巻いた兵士、ミイラのように包帯をぐるぐる巻きにした兵士、そしてその傷からは蛆が沸き、鼻を刺すような異臭を放っている。やせ細った兵士たちは誰もかれもが立てず、横に寝転がり、呻き声を上げる。
兵員室はみんな陸軍の将兵で一杯で、収容し切れない者たちが甲板に寝かされているのである。足の踏み場もない程の兵士たちの数に、乗員たちは整理に困り果てていた。
雪風はふと、舷側で、兵士と並んで海面を虚ろな瞳で眺めている陸軍将校の姿を見つけた。
白いタスキを付けており、高級将校のようであった。将校には士官室で休むよう伝えられている事を都倉から聞いた雪風だったが、実際に誰一人として、士官室に行く者はいなかった。
彼らは皆、部下の兵士たちと共に過ごし、時には苦しむ仲間たちを励ましていた。
雪風が何とも言えない気持ちでその光景を見詰めていると、不意に都倉の声がした。
「虚しいものだな」
「……中尉」
「あれだけ大躍進していた『皇軍』がこんな有様になっているだなんて、陛下や国民には絶対に見せられない。……本当に、よく頑張ったと思うよ」
「………………」
ガ島で戦っていた彼らは、餓島でも戦っていた。敵の増強により補給や増援が途絶え、食糧は尽き、草の根や木の葉、ヤシガニ、トカゲ、ヘビ、野鼠などを食い尽くし、弾薬も満足に与えられないまま、数ヶ月もジャングルの中で戦ってきた。
今の彼らに、かつての精鋭を誇った皇軍の姿はどこにもないが、その努力は確かに認められるべきものであった。
救出後も、ほとんどの者がこうして苦しんでいる。
だが――ようやく、元気が出て来た者が一人、二人と現れ始め、配置に就いていた兵のもとに顔を出し、話しかけてくる光景が見られるようにもなっていた。
「……私は、この光景を忘れません。そしてこれからも、再び見る事になる同じ光景も目に焼き付けます」
今回の救出で、艦隊は五千余名の陸軍兵を収容した。今も尚島に取り残されている、残り五千の兵は、二回に渡る救助で収容する予定だ。
「……助ける事も、戦いなんですね」
甲板を埋め尽くす兵士たちの光景から一度も目を逸らさず、雪風は呟いていた。
水平線から顔を出した朝日が、甲板の兵士たちを暖かく迎え入れるように照らした。




