第三十二話 決壊、その想い
苛烈な砲撃戦が行われ、日米両軍の艦がまた多く沈んだ鉄底海峡を抜け出そうとする艦隊があった。
戦艦『比叡』を失った事で、挺身部隊はガ島砲撃を取り止めた。代わりに外南洋部隊の第八艦隊が実行する事となったが、当初の計画にあった戦艦による砲撃と比べるとやはり効果は望めなかった。
『雪風』以下損傷艦(『雪風』自身も友軍誤射と思われるもので若干浸水していた)はその後に発生する第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加できず。そのままトラック泊地への帰路に向かった。
その途中。『比叡』喪失などで無気力感に苛まれつつあった艦隊に、一抹の朗報が舞い降りる。
『雪風』は後方から何かが近付いてくるのを察知した。
見張り兵が確認を急ぐが、敵の残党という可能性に、誰もが緊張感を覚える。
都倉もまた艦橋で、見張り兵の報告を待った。
しかし、飛び込んできた報告は思いがけないものだった。
「後方より接近中の船は、『天津風』であります!」
この報告に、誰もが驚きを隠せなかった。
都倉は、傍にいた雪風の顔を見る。
その時に見た雪風の顔は、その瞳を喜色と共に潤ませていた。
大混戦となった戦闘の最中に行方不明となっていた『天津風』は、司令部からは沈没したものと思われていた。
だが、確かに艦隊と合流を果たしたのは、紛れもない『天津風』であった。
その姿は傷だらけであったが、機関は唸りをあげて動いている。その心臓の鼓動は十分に健在であった。
艦隊に合流する『天津風』の艦上に、逸早く飛び込んできたのは――
「天津風!」
雪風が、その瞳から小さな一粒の光を零しながら、目の前にいた妹へと抱き着いた。
抱き着かれた妹――天津風は、照れ臭そうに、嬉しそうに、笑って口を開いた。
「……ただいま戻りました、雪姉」
「お帰りなさい……! 良かった、本当に良かった……ッ!」
この時ばかりは、普段の立場から逆転していた。雪風が涙を流しながら、天津風を抱き締める。
雪風に抱き寄せられる天津風の体は、痛々しい程にボロボロだった。ポニーテールに結んでいた髪は広がり、所々に血が付着していた。顔や腕、体の至る場所が裂傷に塗れ、立っていられるのもやっとという状態であった。
駆逐艦『天津風』はあの敵味方入れ混じる大混戦の中で、果敢にも探照灯を照らし、敵艦の集中砲火を浴びながらも孤軍奮闘した。雷撃によって敵駆逐艦一隻を撃沈し、自らも多数の砲弾を浴びた。第二缶室に被弾し、浸水して左舷側に十四度傾斜していた。
多くの弾を受けた上部構造物はほとんど荒れ果てており、未だ浮いているのが奇跡のように見える。
更にこの時、『天津風』の舵は故障していたが、乗員たちの奮闘を表す応急人力操舵で、海峡からの脱出に成功していた。ボロボロになりながら帰ってきた彼女を迎えた時、艦隊は祝福の信号を送った。
「雪姉、痛いですよ……。でも、嬉しい……です」
「天津風、ごめんね。天津風ぇ……ッ」
沈んでいたと思われていた妹の帰還に、雪風は声を上げて泣いた。
鉄底海峡にて行われた第三次ソロモン海戦は、十一月十二日深夜から十三日未明にかけての第一次夜戦においては夜間での艦隊決戦となり、両軍共に予期していなかったこの戦いは大混戦を極めた。
この海戦の結果、日本側は戦艦『比叡』を始め、駆逐艦二隻などを失った。第16駆逐隊からは、沈没していたものと思われていた『天津風』の生還という朗報はあったものの、『天津風』自身も大破しており、被害は大きかった。
『雪風』も若干の浸水はあったものの航行に支障はなく、自身の戦果も防空巡洋艦一隻(『長良』『春雨』と共同)、駆逐艦一隻(『長良』と共同)を撃沈したと認定された。
『雪風』など挺身部隊と名付けられ編成されたこの艦隊は敵艦隊との激しい殴り合いを終えたものの、主任務であった飛行場砲撃は断念せざるを得ず、基地へと帰投する。
そして挺身部隊の代わりに砲撃に向かった第八艦隊の外南洋部隊については、こちらも成功とは言えなかった。戦艦と比べて劣る火力はやはり飛行場を壊滅させる事はできず、逆に敵の増援を受けてまたも喪失艦を出してしまう有様だった。
一時は撤退した戦艦『霧島』も参加した第二次夜戦においては、彼女もまた姉の後を追う形となってしまった。敵艦との砲撃戦に敗れた彼女の巨体は、ソロモン海の底へと沈んだ。
「……比叡姉さん、私も……今から、そちらに……」
二度の夜戦と三度の戦闘が行われた日本海軍のガタルカナル島砲撃作戦及び輸送作戦は、はっきり言って失敗に終わった。唯一、輸送船団が危険を顧みず陸軍の将兵二千名、二百六十箱もの弾薬、千六百袋の米を島に揚陸させて任務を成し遂げると、最期は敵機の爆撃等を受け、ほとんどが燃え盛る屍となりながら海の底へ沈んだ。
一連の戦いに勝利した米海軍は大型艦の絶対数が不足する中で、ガダルカナル島の防衛に成功した。対して日本海軍はこれらの海戦以降、ガダルカナル島への増援と補給を諦め、高速の駆逐艦や潜水艦を用いた鼠輸送に専念するようになる。
ミッドウェーに次ぐソロモン海での敗北は、日本にとっては大きな痛手であった――
一方、『雪風』など損傷艦は第二次夜戦には参加せず、トラック泊地へと帰還した。そこで部隊の解隊手続を行うと共に、工作艦『明石』の修理を受けた。
『明石』に横付けした後、雪風のもとに訪ねた明石がこんな事を言った。
「お疲れ様。よく頑張ったわね」
「ただいま戻りました。明石さん」
比叡を始めとする仲間たちの死に囲まれ帰ってきた雪風を、明石は暖かく迎えたのだった。
雪風はただ、それを受け入れ、言葉を交わす。
『明石』の修理を受けた『雪風』は、ドックで本格的な修理整備を行うため、呉へ帰投した。
十二月十日、『雪風』は呉に入港。そこで、新たな出会いに遭遇するのだった。
ドックに入渠した『雪風』の艦上に、二人の来訪者がやって来た。どちらとも少女――つまり艦魂であるのだが、一人は初めて見る新顔であった。
特に緊張している風もなく、少女は雪風に向かって微笑んだ。
「初めまして。私は大和型戦艦二番艦『武蔵』の艦魂――武蔵です。どうぞよろしくお願いします」
大和型の二番艦を名乗った軍服姿の少女は、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた。その隣に居るのは、彼女を紹介しに訪れた姉の大和だった。
「――というわけで、妹の武蔵だ。生まれたてでまだまだ世間知らずな所があるから、遠慮せず色々と教えてやってくれ」
「もう、お姉ちゃん。人を赤ちゃんみたいに……」
「事実、そうだろう」
「こんな大きい赤ちゃんがいる?」
ぷくっと頬を膨らませながら抗議する武蔵に、大和がだらしなく口元を緩ませる。
「居たとしたら、うん、可愛い。いや、やはり可愛い。食べてしまいたいくらいに、だ」
「やめて、お姉ちゃん。雪風さんが見てる」
ハァハァと息を荒くさせながら顔を寄せる大和と、その顔を両手で押し返す武蔵という仲の良い(?)姉妹の構図に雪風は苦笑いを浮かべるのだった。
今、雪風の目の前にいる大和の振る舞いは、普段の「長官」「総旗艦」などと呼ばれている凛々しい姿とは打って変わっているが、これこそがもう一つの性格――というよりは、大和の本来の姿と言っても良かった。
戦艦『大和』の艦魂は、可愛いものに目がない。しかも男女問わず、愛で方も度を越えていると言うのだから問題である。期待を込めて建造した日本海軍の上層部が、可愛いものには見境がないという大和の本性を知ったら、どんな反応を示すのだろうか。
「もう。超弩級戦艦『大和』の艦魂が変態だなんて知られたら、海軍のお偉いさんはみーんな腹を切らなきゃね」
「そ、そこまで言われると流石の私も傷つくな……」
「ま、まぁまぁ」
容赦なく斬り捨ててしまえる辺り、流石は大和型の姉妹艦と言うべきだろう。他の艦では畏れ多くて出来ない事を、彼女はやってしまう。雪風はそんな武蔵に、痺れのような感覚と共に尊敬の念を感じた。
「大丈夫?雪風さん」
「え! 何がですか?」
いきなり心配されて、雪風はドキリとする。
「今までお姉ちゃんに変な事とかされなかった? 雪風さん可愛いから、お姉ちゃんの餌食になっちゃいそうで……」
「物騒な事を言うね、武蔵」
本気で心配の目線を向ける武蔵と、そのすぐ後ろで半ば呆れがちに呟く大和。雪風はそんな二人の姉妹を目の前にして、クスクスと笑った。
「大丈夫ですよ、武蔵殿。寧ろ、大和長官にはお世話になっています」
「本当に? 遠慮なく言って良いんだよ?」
「いえ、ですから本当……に……」
ふと、雪風は古い記憶を呼び起こした。
その瞬間、雪風の表情を見た武蔵が、神妙な顔付きでもう一度訊ねる。
「……あったんだね?」
「………………」
無言で目線を逸らす雪風の反応を前に、武蔵は大和の方へ振り返る。
その瞳はジトッとしていた。
対する大和は虚空を眺めていた。
「……今日も良い波だ」
「ここ、船渠の中だから。その視線の先にあるの、海じゃなくて扉船だから!」
排水して盤木の上に乗っている『雪風』の周囲には海どころか勿論水の一滴すら無く、ドックの扉、その先の海を指して言っているわけでもなく、大和の誤魔化すような呟きに全力で指摘する武蔵であった。
「本当にもう、しょうがないんだからお姉ちゃんは。雪風さん、今度また何かされたら遠慮なく言ってね? 私がちゃーんとお灸を添えておくから」
「あ、あはは……」
本当に、彼女は大和の妹なのだと。雪風は改めて実感するのだった。
ふと、武蔵がいつの間にか微笑ましそうに雪風を見ている。雪風は小首を傾げた。
「……あーもう! お姉ちゃんじゃなくても、雪風さんは本当に可愛いね!」
「む、武蔵殿!?」
突然、武蔵に抱き締められた雪風は顔を赤くさせた。
ぎゅーっと抱き寄せられ、柔らかい感触に包まれる。さらりと流れた長髪からは、心が安らぐような良い香りがした。
「武蔵、私に言っておいて自分は……」
「私はお姉ちゃんみたいに変な事はしないもん。それに公試の成績は私の方が上だし?」
「それは関係ないだろぅん」
全く、と溜息を吐く大和であったが、その吐き方はどこか優しい。
しかし雪風の方はそれ所ではない。二つの果実に圧迫されて、息ができない状態だったからだ。
「む、武蔵どの……ぐるじ……」
「あ、ごめんね」
ぱっと解放される雪風。
息を整えながら、雪風は先程までの柔らかい感触と、目の前にある二つの果実を一瞥する。
性格は異なるが、そこだけは似ている……。
まだ顔が赤い雪風に、武蔵は謝りながら口を開く。
「ごめんね。でも、雪風さんって小さくて、特に巫女服が似合ってて本当に可愛いね。お姉ちゃんじゃないけど、食べたいちゃいくらいだよ」
「そ、そんな事ないです……」
巫女服が似合ってる事だけは素直に嬉しいが、小さいと言われるのはあまり慣れていなかった。
確かに艦自体小さいが、排水量二千トンしかないが……立派な駆逐艦である。
その艦魂である雪風自身も背丈は小さいが、もっと小さい娘は他にも沢山いる。
それに――可愛い、だなんて。雪風は再び顔を赤く染めた。
「それと……武蔵殿って呼び方、やめない? 私の事は武蔵で良いよ!」
「そ、そういうわけにはいきません」
基本、艦にも上下関係というものがある。それは単純に建造順――人間で言う先輩後輩の分類で、人間の軍人のように階級別という細かな部分までは無い代わりに、部隊の旗艦などで構築されている事もある。戦艦や空母が部隊の主力として他の艦種・艦型が指揮下に入る事もあり、更に作戦によっては司令部の幕僚たちが乗り込む事が多いのもあって、戦艦や空母の艦魂が「参謀」と位置付けられる事もしばしば。
なので、巡洋艦、駆逐艦クラスになると大した差はない。寧ろ『歳』という、人間社会の上下関係を形作るものとして多くあるその実歴が、彼女たちの関係を確立している。
「私の事も、長官と呼ばずとも良い。いずれ、私はその座を譲り渡す事になるのだからな」
「連合艦隊の次期旗艦がお決まりになったのですか」
「まだ決定事項ってわけじゃないけどね」
武蔵が答える。それで雪風はすぐにピンと来た。
「もしかして、武蔵殿が」
「そうだ。武蔵が、次の連合艦隊旗艦となる」
「それは……。おめでとうございます、武蔵殿」
「だからまだ決まったわけじゃないってば」
そう言いながらも、満更でもなさそうな表情を浮かべる武蔵だった。
それに大和が加える。
「ほとんど決まったようなもの。いや……武蔵が帝国海軍に就役する前から決まっていた事なのかもな」
「確かに私はお姉ちゃんより成績は良いけどー」
「だからそれは……。しかもそれ程大した差ではないだろう」
「えへへ」
悪戯っぽく舌を出す武蔵と、呆れながらも優しそうに微笑む大和の図に、雪風は心の内が温かくなるような感覚を覚える。
その時、雪風の脳裏に浮かんでいたのは、自分の姉妹たちの顔。
もう一度、皆と楽しく話したい。そんな事を、雪風は考えていた。
「……雪風さん?」
武蔵と大和の驚いたような表情が、視界に映った。
二人がどうしてそんな顔をするのか。
疑問に思った直後、雪風はその視界がぼやけているのに気付いた。
不意に、頬に違和感を覚えて、指で触れてみる。
湿った感触が指の先に感じた。
「……あれ?」
雪風はようやく、自分が泣いている事に気付いた。
一筋の涙が、雪風の頬を伝う。
どうして。疑問が膨らむ。だが、答えは出ない。涙は出るのに。
「ご、ごめんなさい。あれ……、どうして……」
「良いんだよ、雪風さん」
また感じる、柔らかい感触。
だが苦しくない。今度はとても優しい温もりがあった。
雪風は、大和と武蔵の二人が見せた『姉妹』という空気に、懐かしさを感じていた。
雪風には――多くの姉妹がいる。開戦までに十九隻が建造された。これは最も量産された吹雪型に次ぐ数の多さであった。
そして雪風の傍には、初風や時津風、天津風といった第16駆逐隊の面々が居た。開戦以降、その顔を見る事すら徐々に減ってきている。時には小隊ごとに分けられ、もしくは単艦で行動する事もあるので、任務が別々になり、離れ離れになる機会がぐっと増えていた。
自分達は戦う宿命を背負った軍艦だし、当然の事と言えば当然であった。理解もしている。だが、やはり、寂しいという感情は捨てられない。
先のソロモン海での海戦で、遂に姉妹を一人目の前で喪う所であった。再会は叶ったが、妹――天津風の体は傷だらけだった。
『天津風』もまたドックに入渠している。だが、『雪風』よりも損傷が激しいので、暫くは出てこれないだろう。
またいつ、姉妹がいなくなってしまうかわからない。
次から次へと感情と共に思考が暴れるように流れ、雪風は思わず涙をボロボロと零してしまった。
「……う、ああ。武蔵、さん……ッ!」
「よしよし。良いんだよ、雪風さん。遠慮なく、私に甘えてね」
「うあああ……ッッ」
武蔵の胸元を湿らせながら、雪風は泣いた。船渠内に響いている彼女の泣き声を聞いたのは、彼女たちと、艦の傍で作業員たちと居た一人の航海士だけであった。




