第二十六話 台湾人との出会い
昭和十六年七月十四日
この頃、連合艦隊は先のミッドウェー海戦で喪った空母四隻が所属していた第一航空艦隊を解体し、大規模な艦隊再編制を実施した。これによって『雪風』以下第16駆逐隊は第10戦隊に所属することになった。
第10戦隊は、今まで機動部隊の主力として活躍した第一航空艦隊の代わりとして、新たな機動部隊の主力として編成された第三艦隊の一部隊として加わっていた。
第三艦隊には、第一航空戦隊に翔鶴型航空母艦一番艦『翔鶴』を始め、二番艦『瑞鶴』、『瑞鳳』に加え、第二航空戦隊にはアリューシャン作戦で活躍した空母『龍譲』や、隼鷹型航空母艦二隻(『隼鷹』『飛鷹』)という陣営で編成された。
第11戦隊に、戦艦『比叡』と『霧島』。
第7戦隊には『熊野』『鈴谷』『最上』――ミッドウェー海域で『三隈』と衝突し、大破した『最上』はトラックで修理を受け、後に航空巡洋艦となって復帰する。
第8戦隊に『利根』『筑摩』。
『雪風』以下16駆が属する第10戦隊には他の顔ぶれとして、軽巡『長良』を始めとした、4、10、17駆逐隊の面々。
そして付属として『鳳翔』『赤城』『飛龍』『夕風』と定められた。今は亡き『赤城』と『飛龍』は沈没を秘匿するために、幻の艦として編成に加えられていた。
この日、『雪風』は『時津風』と共に二航戦所属の『飛鷹』の訓練の随伴任務、そしてサイパン方面護衛任務に就いた後、輸送船『南海丸』を護衛して台湾に向かった。
そこで荷役を行う輸送船の傍ら、『雪風』は珍しい客を乗せていた。
ラフな格好をした者や作業服、中には上半身裸の者もいる。日本人とは異なる顔立ちをした東洋系の人間たちが、ぞろぞろと『雪風』の艦上に乗り込んできた。
その光景を見ながら、雪風は尋ねる。
「中尉、あの人達は何なのですか?」
「あれは軍属として徴用された原住民の一団だ。これから俺達が行くラバウルで、飛行場や施設の建設現場で働く事になっている」
都倉の言う通り、彼らは高砂族と呼ばれる台湾の原住民だった。台湾は日本の統治下に入る前は清の領土であったが、日清戦争後に日本に割譲された。当初は日本の統治に対し、原住民との衝突が度々起こったが、今や台湾は日本の一部として存在し、更にかつては日本と対立した原住民は、日本人に負けない程の愛国心を日本に捧げていた。
台湾では今年の昭和十六年から志願制度が始まっているが、千余名の募集定員に対して、四十五万もの応募が殺到した。日本では徴兵制度はまだ無い頃、日本の領土としてまだ幼い台湾で、それ程まで志願を熱望する者が大勢いたのだ。
原住民である彼ら、高砂族もその内に含まれる。彼らは皇軍に大挙して志願し、後に日本人に負けない程の活躍ぶりを披露する事になるのだがそれはまた別の話となる。
何はともあれ、そういった経緯で軍に加入した高砂族の面々を、二人は物珍しそうに眺めるのだった。
「皆さん、不安そうな顔をしています」
雪風は心配そうに彼らの様子を案じていた。事実、乗船してきた彼らの顔はどれも暗いものだった。
それは戦地に向かう不安故か……。
だが、都倉には関係のない話だった。だからと言って、彼らに何かしてやれる事など無いのだから。
しかし心優しい彼女は、彼らを純粋に心配している。都倉には彼女は眩しすぎた。
「……あれ。あの人、一人だけ私達に近いのがいますね」
「どれだ?」
「ほら、あそこです。原住民の人達の端にいる……」
雪風が言った先に目を凝らしてみると、確かにそいつは居た。高砂族の一団を取り仕切るように、そいつは立っていた。彼に何かを言われた者は、まるで指示されたように『雪風』の艦上を移動していった。
「もしかしたら、彼らの指導役かもしれないな」
「成程」
見れば、日本人に近い顔立ちをしている。微かに遠くから聞こえてくるのは、日本語ではなかった。高砂族の者たちに何かを語り掛けている彼は、おそらく台湾人だろう。日本人とそう変わらない外観から推測すると、漢族かもしれない。
その後、台湾で原住民の作業員たちを乗せた『雪風』は一路、南方の果てにあるラバウルへと向かった。
台湾を出て数日後、『雪風』の艦内は惨憺たる光景が広がっていた。
どこもかしこも呻き声が漏れ、異臭などが充満している。毛布も足りない程、雑魚寝した男たちが敷き詰められるようにそこら中に転がっていた。
彼らは『雪風』の乗員ではなく、高砂族の作業員たちだった。
「こ、これは一体どういう状況なのですか……」
噂を聞いて様子を見に来た時津風が、余りの地獄さながらの光景に息を呑む。
その隣で、暗い表情で答えるのは姉の雪風であった。
「それが……高砂族の皆さん、デング熱に罹ってしまって。しかも山育ちだから船に慣れていないらしく、船酔いに苦しむ人もいて」
「そ、それは……」
二人は死屍累々と化している高砂族の人々を、可哀想な面持ちで眺めていた。
古来より山奥で暮らす彼らは、その山で培われた身体能力や習慣などを買われ、戦力として期待される程であったが、同時に異なる環境にはめっぽう弱かった。山育ちの彼らには船酔いの過酷さは未経験であり、しかも密林に慣れているので熱に強いかと思いきや、南方特有のデング熱にすっかり罹ってしまい、どこかしこも下痢の症状を訴えている。
「そういえば、都倉中尉は……?」
「中尉は、病人の看病を手伝ってるよ」
「本当に大変そうだね……」
士官である都倉すら、余りの病人の多さに人手が足りず、対応に駆り出されているようだった。噂をすれば、部屋の片隅で船酔いに苦しむ高砂族を看病する都倉の姿が見られた。
ふと、雪風は何かに気付いて、虚空を見上げた。その何かを、雪風自身わかっていない。
「どうしたの? お姉ちゃん」
時津風が首を傾げながら訊ねるが、雪風は答える事ができない。
「(何だろう、この感覚は……。嫌な、予感がする)」
ざわざわと、胸の奥に虫が這っているかのようだ。
何かに引っ張られるように、雪風は舷側へと視線を向けた。そこには枕を並べた病人たちが横になっている。その光景は現在の『雪風』のどこにも広がっているありふれたものだった。
だが、その内の一人がよろりと立ち上がった。その横顔は真っ青で、危なっかしい挙動で舷側に近付く。
中の物を戻すつもりなのだろう。海に向かって吐こうとしているのは、目に見えてわかった。
だが、問題なのはその動きそのものだ。彼の足元はひどくおぼつかない。おまけに周囲に誰も支える者はおらず、ふらふらと彷徨うばかりだ。
舷側に手を掛け、海に向かって乗り出そうとした時だった。雪風の嫌な予感が的中した。
勢い余って、海に向かって上半身を乗り出そうとした彼は、そのまま海面へと吸い込まれていくように体を浮かせた。
時津風も遅れてそれに気付き、悲鳴を上げた。
雪風が、思わず手を伸ばす。
――落ちる!
雪風がその瞬間から目を逸らした。その直後だった。
耳に劈くように聞こえていた彼の悲鳴が途絶えた。雪風がおそるおそる目を開けると、驚くべき光景が広がっていた。
二人の男が、海に落ちそうになった彼を両側からしっかりと掴んでいるのが視界に入った。一人はよく見慣れた背中。都倉だった。都倉はもう一人の男と協力して、転落未遂の彼を引き寄せた。
「はぁ、はぁ……。大丈夫か?」
都倉は目の前で呆然としている男に声を掛けた。海に落ちかけたためか、その顔は青を通り越してひどく真っ白だ。堀の深い頬が、ヒクヒクと痙攣していた。
都倉はもう一人の男の方を見やる。都倉が駆け出す一瞬前、彼は海に落ちようとした高砂族の男の腕を掴んだ。二人で息を合わせて引き揚げ、なんとか転落を防ぐ事ができた。都倉の問いかけに、高砂族の男は何度も頷いた。
「気持ち悪くて海に吐きに行きたくなるのはわかる。だが、揺れている艦上で慣れていないのだから気を付けろ」
申し訳なさそうな顔をする高砂族の男に、都倉は優しく微笑みながら肩を叩いた。
その光景を一部始終見ていた雪風たちは、安堵したような表情を浮かべる。
艦内へと立ち去っていく高砂族の男を見送った都倉は、協力してくれた男の方へと振り返った。
「助かったよ。おかげで落水者を出さずに済んだ」
「いや、こちらこそ」
都倉は固く手を握り合った。見かけによらず、強い握力の持ち主だった。
自分より若そうな外観の青年が、微笑んでくる。
「先程の事態は自分の管理が行き届いていなかったせいです。責任は自分にあります」
「いや、これだけ多くの人数を一人で監督するのは元々酷というものだ。寧ろよくやってくれていると思う」
「恐れ入ります」
微かに頭を下げ、会釈する青年を都倉はジッと観察する。
彼は、台湾を出る時に見た、高砂族の作業員たちの指導役であった。
「僕は日景晃斗と言います」
「俺は都倉賢二中尉。君は漢族か?」
「はい。別の名を、兪承旭と言います」
都倉の思った通り、青年は漢人であった。日景曰く、高砂族の指導役を任されているらしい。
両親は大陸出身で、日景自身は台湾の高雄で生まれ育った。第一回目の皇軍の応募に志願し、去年の冬から台湾系日本兵として奉公を始めたと言う。
高雄の港で漁師である父の手伝いをしていた事から、船の知識も持ち合わせているようで、都倉が『雪風』の航海士と知るや日景は真っ先に『雪風』を褒めた。
「この艦は素晴らしい船ですね。整備が行き届いていますし、とても綺麗です。戦地を駆け巡った艦とは思えない」
「いやぁ、それ程でも」
「……ッ!?」
いつの間にか、都倉の隣に雪風が居た。照れ臭そうに頭を掻いている。
『雪風』が如何に幸運に恵まれているのかも、日景は他の乗員――特に自分と歳が近い水兵たちから聞いたらしく、『雪風』の事を褒めちぎっていた。
雪風はその話を前にして照れてばかりだが、まんざらでもなさそうな顔だった。
都倉はそんな雪風の存在を半ば無視するように、日景の相手を続けていた。
「僕ももし兵士として乗るのなら、この軍艦に乗ってみたいものです」
「やだぁ、そんなに褒めても何も出ませんよ」
「いえいえ。本心ですよ」
「ふふ、嬉しい事を言ってくれちゃいま……」
一瞬、時が止まった。
「…………え?」
都倉は、驚いて目の前にいる彼を見る。
彼の美しい程までに純粋な黒い瞳には、雪風の間抜けな顔が映っていた。
「どうかしましたか? 中尉」
「……日景くん。君はもしかして、こいつが見えているのかい?」
隣で口をぽかんと開けている雪風のひどい顔を指差す。
日景の視線は、都倉の指の先をしっかりと見据えている。
「――はい。それが何か?」
「え、えええええッッ!?」
雪風の驚天動地に転がされた声が、艦上に響き渡った。




